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【つの版】ウマと人類史:近代編29・長州征討

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 列強の圧迫により開国した徳川幕府でしたが、朝廷と手を結ぶことで権威を回復させ、欧米へ使節団を派遣して開港を5年間先延ばしすることに成功しました。しかしやがて長州藩と薩摩藩が手を結び、天皇を奉じて幕府を打倒することになります。それはどのように成し遂げられたのでしょうか。

◆新◆

◆選◆

防長風雲

 長州藩(毛利家・萩藩)の状況をおさらいしましょう。関ヶ原の戦いの後、西軍の総大将であった毛利氏は周防・長門の2ヶ国に領国を縮められ、以後は徳川に警戒されつつも恭順しました。西国一の大大名が2ヶ国に縮まったのですから当初は大変でしたが、新田開発や殖産興業、藩政改革を進めて財政を再建し、アヘン戦争やペリー来航にも敏感に反応して西洋の学問を導入、外圧に対抗すべく富国強兵につとめています。また海運の要衝たる下関(馬関)などを拠点とし、国内ばかりか国外とも密貿易を行いました。

 長州藩士・吉田松陰は1830年に兵学者の家に生まれ、平戸や江戸に遊学して海防論に目覚めた人物です。彼は脱藩して水戸・奥羽を旅行、ペリー来航に際してはアメリカに渡航しようと黒船に密航しますが拒否され、長州に送還されたのち松下村塾を開いて後進育成にあたります。彼は安政の大獄により1859年に処刑されますが、弟子の一人・久坂玄瑞はこれを恨み、長州における尊王攘夷・反幕府派の中心人物となりました。

 彼は土佐の坂本龍馬、薩摩の西郷隆盛ら諸国の志士と謀議を行い、佐幕派を失脚させて藩論を尊王攘夷に傾け、「西洋列強の強大な武力に対抗すべく軍備を整え強国となり、対等な立場で条約を締結せよ」と呼びかけました。単なる鎖国攘夷ではなく、吉田松陰の流れをくむ開国攘夷論です。また「幕府が朝廷の許しも得ずに外国と条約を結んだのは許し難く、長州と薩摩が幕府の過ちを正さねばならない。ゆくゆくは幕府から政権を朝廷に返上させ、日本国は海外に雄飛すべし」などと説いてもいます。

 久坂玄瑞らは薩摩・土佐の志士らとともに尊王攘夷派の公家である三条実美、姉小路公知らと手を組み、幕府に攘夷実行を迫らせます。1863年、やむなく幕府は将軍自ら上洛し、公武合体によって穏便な形での「攘夷」を行うと朝廷に約束しますが、玄瑞らは幕府の命を待たずに馬関海峡を封鎖し、外国船を砲撃する過激な攘夷行動に出ます。怒った英国やフランスなど西洋列強は長州藩と戦争状態に入りました(下関戦争)。

禁門之変

 こうした中で、攘夷派公家の姉小路公知が何者かに暗殺されます。残された刀から薩摩藩士の田中新兵衛に容疑がかけられますが、彼は黙秘したまま自刃し、真相は不明のままとなります。朝廷を牛耳る三条実美らは薩摩藩を排除する動きに出、また攘夷のために天皇を親征させようと目論みますが、恐れた天皇は薩摩藩・会津藩らに助けを求め、攘夷派を排除させました。

 追放された長州攘夷派に代わって、朝廷は将軍後見職の一橋慶喜をリーダーとする「参預会議」を発足させます。これには会津・薩摩・土佐・越前・宇和島などの藩主や藩主級の人物が加わり、江戸の幕府とは一定の距離を保ちつつ京都・西国の政事をみることになりますが、翌年3月までに内ゲバによって崩壊しました。これに代わって発足したのが、禁裏御守衛総督に任命された一橋慶喜、京都守護職となった会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬(容保の弟)による通称「一会桑(橋会桑)政権」です。

 将軍上洛に付き従って京都に入っていた「浪士組」は、紆余曲折の末に京都守護職の松平容保の配下となり、壬生浪士組(のち新選組)として京都の警備や治安維持にあたっていました。1864年(元治元年)6月5日、彼らは京都の池田屋に潜伏していた尊王攘夷派の浪士らを襲撃し、多数を殺傷・捕縛して尋問します。彼らは「御所焼き討ち、慶喜・容保らの暗殺」を目論んでいたとされ、新選組は未曾有のテロを未然に防いだとして称賛されます。

 これを受けて長州藩では「藩主らが上洛して朝廷に冤罪を訴え、一会桑ら君側の奸を除くべし」との進発論が噴き上がります。会津・桑名・薩摩らは長州の進発を防ぐべく兵を集め、7月に御所の西側の蛤御門で激突します。この市街戦の余波で京都は炎上し、久坂玄瑞は自害しました。朝廷は御所を襲撃した長州藩を朝敵と認定、幕府に対して長州征討の勅命を下します。

長州征討

 幕府は勅命を受け、尾張・越前および西国諸藩に命じて長州征討軍を編成します。合計35藩・15万人が参戦し、尾張の元藩主・徳川慶勝が総督として全軍を率いました。幕府にとっては島原の乱以来230年ぶりの大動員です。10月には大坂城に到着、軍議を開いて長州に圧力を掛けました。さしもの長州藩も日本全国を敵に回せば勝ち目はなく、西郷隆盛らの説得で家老らが切腹、藩主が謝罪し、戦わずして降伏することになります。8月には英国など西洋諸国とも講和し、下関戦争も終結しました。

 しかし、久坂玄瑞の同門であった高杉晋作は諦めませんでした。彼は下関戦争に際して身分によらない義勇軍「奇兵隊」を結成し、西洋式の調練を施して暴れまわっていましたが、長州藩内の保守派との争いに敗れて10月に福岡へ逃れます。そして12月には下関に戻り、奇兵隊や同様の義勇軍を率いて2月には保守派政権を打倒、長州藩の実権を握りました。

 幕府と諸藩による長州征討軍はすでに12月末には解散しており、諸勢力は長州の内乱の様子を警戒しつつ注視していましたが、事態が一時終息すると朝廷と幕府が対立し始めます。京都の一会桑政権は朝廷を動かし、将軍・家茂を再び上洛させて公武合体を推し進めようとしましたが、幕閣は実権を失うことを恐れて賛同せず、長州の処分も遅々として進みませんでした。

 この頃、フランスの駐日公使として着任したレオン・ロッシュは、徳川幕府を日本における正統な政府として承認・支援しています。彼は幕府の依頼を受けて製鉄所や造船所、フランス語学校(伝習所)などを建設し、パリ万博に幕府の参加を推薦、経済使節団や軍事顧問団をフランスから呼ぶなど大いに肩入れしました。英国に対抗してフランスの国際的存在感を増そうとしての個人的な勇み足でしたが、これにより幕閣は勇気づけられました。

 1865年(元治2年)2月、幕府老中の阿部正外と本荘宗秀らが歩兵を率いて上洛し、一会桑の追放を行おうとします。しかし関白の叱責を受けて目的を果たせず、長州処分案や将軍上洛等を命じた御沙汰書を受け取って帰還しました。やむなく将軍は閏5月(4月に慶応と改元)に上洛して参内し、大坂城に入ると再び諸藩に出兵を命じて長州藩に圧力をかけることとします。長州藩は「武備恭順」で藩論を統一して交渉を長引かせ、朝廷・慶喜と幕府の対立、幕兵の士気の低下、長期の遠征による幕府財政の悪化を促しました。

開港要求

 そうこうするうち、9月には英国・フランス・オランダの連合艦隊がアメリカの公使を伴って横浜から兵庫港沖に現れます。この港は1858年に締結された条約により1863年の開港が予定されていましたが、畿内(摂津)にあるため朝廷の反対が強く、文久遣欧使節の派遣と交渉により1868年まで開港を先延ばしにすることになっていました。しかし下関戦争における講和の際、長州藩は「我々は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、要求された賠償金300万ドルは幕府が負担すべきである」と回答していたのです。

 英国の新駐日公使ハリー・パークスは、以前アロー号事件において広東領事として清朝の対応にいちゃもんをつけた人物でしたが、これに乗じて兵庫港の早期開港を求めることにしました。将軍家茂は大坂城に滞在中ですし、天皇は京都にいますから、兵庫に連合艦隊を派遣すれば一挙に両者へ圧力をかけられます。彼は幕府に対して「賠償金を1/3にするから2年早く(1866年に)兵庫を開港して頂きたい」と申し出ます。拒否すれば兵庫ばかりか大坂にも艦砲射撃が行われるやも知れず、攘夷を行うと宣言した幕府の権威はガタ落ちですし、慶喜が朝廷を動かして勅許を出させるかも知れません。

 家茂らは大坂で幕府の専権により開港を認めると決断しますが、慶喜らは「勅許が必要であるから上洛せよ」と家茂をせっつき、ゴタゴタの末に「開港の前倒しはしないが幕府が賠償金を全額支払う。関税改定についても議論する」ということになります。結局勅許は得られなかったものの、連合艦隊は満足して撤退し、畿内を襲った異国船の危機は一応去りました。

薩長同盟

 この間、長州藩では高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)・井上聞多(馨)・村田蔵六(大村益次郎)・伊藤博文らが抗幕のために奔走していました。しかし長州藩だけで朝廷や幕府、日本全国の諸藩を敵に回せば勝ち目はありませんし、西洋列強に攘夷を挑んでも勝てません。となると攘夷論を捨てて西洋列強の力を借り、西国諸藩を味方につけて対抗するしかないわけです。

 まず外国商人が活動している長崎に人をやり、武器を買い付けようとしますが、幕府は諸外国に対して長州藩への武器の供与を禁止しており、誰も売ってくれません。そこで土佐の脱藩浪士・坂本龍馬が長州と薩摩の仲立ちをし、薩摩藩名義で購入した武器や兵器を長州へ送るようにした……というのが通説ですが、彼がそこまで関わっていたかどうかは定かでないようです。

 ともあれ禁門の変で敵対した薩摩藩と長州藩は、ついに手を結ぶことになりました。その目的は徳川幕府の打倒……ではなく、京都にあって朝廷を後ろ盾とする「一会桑政権」の打倒であったようです。英国商人グラバーは直接ではないにせよ長州藩に武器や兵器を届けて支援しましたが、幕府を打倒して日本に傀儡政権を建てようなどというだいそれた目的があったかどうかもわかりません。それに彼は反幕派にも佐幕派にも武器を売っています。

 兵庫開港要求事件が落ち着いたのち、幕府は1866年(慶応2年)に長州藩へ通告を行い、朝敵の名を除く代わりに封地10万石を削ること、藩主・世子は蟄居することなどを繰り返し要求しますが、拒絶されます。また薩摩藩は密約により第二次長州征討への参加を拒み、広島藩や佐賀藩なども参戦を拒みました。同年6月に幕軍と諸藩軍による侵攻が開始されたものの、長州軍は必死で防戦し、石見方面では押し返します。そして7月20日には将軍家茂が大坂城で薨去し、将軍職が空位となりました。

 一橋慶喜は将軍職就任を保留して代行となり、長州征討を続けますがうまくいかず、幕府の権威はガタ落ちとなります。また相次ぐ戦乱で食糧価格は暴騰し、地震や疫病など災害が猛威を振るい、日本国中は大騒ぎとなっていました。薩摩藩ら西国雄藩はこれを好機として幕府を批判し、朝廷への影響力を取り返そうと結託します。ついに倒幕運動が現実化し始めたのです。

◆龍◆

◆馬◆

【続く】

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