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【つの版】ウマと人類史:中世編23・法天啓運

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1220年末までに、チンギス・カン率いるモンゴル帝国はマンチュリアから河北・河西・タリム盆地・マーワラーアンナフル・カザフ草原・イラン高原に至るまでの広大な地域を征服していました。金は本土マンチュリアと黄河以北を剥ぎ取られ、西遼/カラキタイ帝国とホラズム・シャー朝は滅亡しました。モンゴルの拡大はなおも続きます。

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◆成吉◆

◆思汗◆

西征続行

 1220年春、ブハラとサマルカンドを征服したチンギスの本隊は、両都市の南の街カルシ(ナフシャブ)付近に駐屯して休息をとります。その間にも各地へ部隊や斥候を派遣して情報を収集し、ホラズム・シャー朝の都市を分断して各個撃破していきます。秋には南のアム川沿岸まで進軍し、開城を拒んだテルメズの街を陥落させ、破壊しました。

 チンギスは末子トゥルイと娘婿トクチャルをアム川の南のホラーサーン地方へ派遣しますが、トクチャルはニーシャープール包囲中に戦死し、トゥルイらは包囲を解いて他の都市を攻略に向かいます。1221年2月にはメルブを陥落させ、住民は奴隷として連行されるか殺戮されます。4月にはニーシャープールが陥落し、トクチャルの寡婦により虐殺が行われます。続いてトゥースとヘラートが開城しました。

 この頃、アラーウッディーンの子らはホラズムに帰国し、首都ウルゲンチを守ってモンゴルと戦っていましたが、カンクリ族のクーデターに遭ってホラーサーンへ逃亡し、モンゴル軍の追撃を受けて二人の王子が殺されます。ウルゲンチは半年に及ぶ攻城戦の末1221年4月に陥落し、破壊と掠奪、殺戮が行われました。王子のひとりジャラールッディーンは、ニーシャープールを経てヒンドゥークシュ山脈の南のガズナまで逃亡しています。

 チンギス率いる本隊はアム川を渡り、バルフ周辺を制圧して、ジャラールッディーンを討伐せんとします。しかしヒンドゥークシュ山脈を越えようとしてバーミヤーンまで到達すると、チャガタイの子でチンギスの孫モエトゥケンが流れ矢に当たって落命し、怒ったチンギスはバーミヤーンの住民を皆殺しにしてマウ・バリク悪い街と呼びました。カーブル方面には弟同然に育てられた重臣シギ・クトクを派遣しますが、ジャラールッディーンはこれをパルワーンで撃破し、モンゴル軍に対して初めて勝利を収めました。

 しかしジャラールッディーンはこの勝利を活かせず、かえって戦利品を巡って争いが起きます。チンギスは本隊を率いてガズナへ進軍し、ジャラールッディーンはやむなくガズナを捨てて東方へ逃げ、インダス川を渡ろうとします。1221年11月、モンゴル軍はインダス河畔でホラズム軍に追いつき、大打撃を与えましたが、ジャラールッディーンは馬に乗ってインダス川を渡り逃亡しました。モンゴルの別働隊は彼を追いますが見失い、ムルターン、ラホール、ペシャーワルなどを襲撃したのち帰還しました。ヘラートやメルブでは反モンゴルの暴動が起き、モンゴル軍は鎮圧に手を焼いています。

 この頃、インド北部にはゴール朝のマムルークらが自立して王国(インド・マムルーク朝)を築いていましたが、モンゴル帝国と戦う気はなく、ジャラールッディーンからの支援の申し出を丁重に断っています。ジャラールッディーンは以後3年インドに滞在し、イラン高原へ帰る機会を伺います。

 1222年春、チンギス率いるモンゴル軍はインダス川を立ち去ってパルワーンに戻ります。この頃疫病が流行し、軍も疲弊していたので、ついに撤退を命じました。アレクサンドロス大王と同じく、チンギス・カンもインド征服を諦めたのです。帰路ではブハラに立ち寄り、イスラム教について講義を受けました。1223年春にはシル川に到達し、夏にはタシケント近郊まで戻りますが、長男ジョチは遠征中に弟チャガタイと仲違いしており、病気もあって姿を見せませんでした。チンギスは翌年イルティシュ川流域を通過し、1225年2月にモンゴル高原に帰還します。足掛け7年にも及ぶ大遠征でした。

 1222年5月、道教の一派・全真教の幹部である丘長春は、ヒンドゥークシュ山脈北麓のカラホトでチンギスに謁見しています。彼は1218年夏に招聘を受け、1221年4月にモンゴル高原へ入り、チンギスの末弟テムゲ・オッチギンから歓迎されました。ついで西へ向かってチンカイ・バルガスンという軍事基地を通り、アルタイ山脈を越え、ビシュバリク、アルマリク、タラス、サマルカンド、ケシュを経て、ようやくチンギスに会えたのです。チンギスは「長生の薬をお持ちになられたか」と尋ねましたが、長春は「衛生の道はありますが、長生の薬はございません」と答えました。納得したチンギスは彼にモンゴル帝国の占領地における全真教の布教を認めたといいます。

両狗進撃

 一方、アラーウッディーンを追ってイラン高原北部を西へ進んでいたジェベとスブタイは、標的が死んだと知らずに遠征をやめず、そのまま西へ進みます。イラン高原北西部のアゼルバイジャン地方にはテュルク系のイルデニズ朝が割拠しており、これを屈服させると隣接するグルジア/ジョージア王国を攻撃します。イルデニズ朝はこれを支援したものの、タブリーズやギャンジャなどの都市は激しく抵抗し、モンゴル軍は1222年後半にデルベントを越えてカフカースの北麓へ到達します。

 現地のアス族(オセット人、サルマタイ系アラン人の末裔)やレズギ族、チェルケス族やキプチャク(クマン)人は連合してこれに抵抗しますが、モンゴル軍はキプチャク人を買収して連合軍を撃ち破り、さらに北上してアゾフ海沿岸の諸部族を攻撃します。キプチャクの一派はルーシ諸侯の一人に援軍を求め、1223年5月末にルーシ・キプチャク連合軍がカルカ河畔でモンゴル軍と激突します。モンゴル軍はこれを撃ち破り、キエフ大公ムスチスラフを捕虜にして処刑しました。さらにクリミア半島に侵入して港町スダクを攻撃したのち、東へ戻ってヴォルガ川へ向かいました。

 次いでヴォルガ川を遡り、ヴォルガ・ブルガール王国を攻撃しますが抵抗に遭って撤退し、チンギスの本隊と合流します。ジェベはモンゴル高原に帰る途上、アラル海のほとりで病没しました。彼らはモンゴル軍として初めて「ヨーロッパ」の領域近くに現れ、クマン人から「タタル(テュルク諸語で「異民族」の意)」としてルーシに伝えられました。

漢人世侯

 チンギス・カンが西方へ大遠征を行っていた頃、東方では何が起きていたでしょうか。1217年、左翼/東方の万人隊長ムカリは「国王クイオン」の称号を授かり、ゴビ以南の占領地の統治を任されました。モンゴル高原の留守はチンギスの母ホエルンと末弟テムゲ・オッチギンらが担い、右翼/西方の万人隊長ボオルチュはチンギスとともに西方遠征に行っています。

 この頃マンチュリアにはモンゴルに服属する契丹人の東遼王国がありましたが、女真族の将軍・蒲鮮万奴が1215年に自立して大真国を建て、豆満江流域から沿海州にかけて君臨しています。その南には高麗王国があり、1218年にモンゴルに離反した契丹人が逃げ込んで平壌近郊の江東城に立てこもった時は、モンゴル・高麗の連合軍がこれを撃破しました。以後高麗はモンゴルに服属し、1220年からは連年朝貢しています。

 金は1211-15年のモンゴルとの戦争で大打撃を受け、首都を黄河の南の開封に遷し、黄河以北はモンゴルの支配下に置かれました。この時、契丹人の多くと女真族の一部、それに「漢人世侯」と総称されるチャイナ語話者の軍閥がモンゴルの軍門に下り、その指揮下で活動するようになります。

 1211年、金の咸寧県(ウランチャブ市興和県)の防衛隊長であった劉伯林は、城を包囲されていち早くモンゴル軍に降伏します。彼は金軍と戦って西京(大同)を攻め取り、山西省一帯を支配する大軍閥となりました。

 1213年、永清(河北省廊坊市永清県)の豪族であった史秉直は、掠奪を免れるためモンゴルに降伏しました。彼の長男の史天倪はモンゴルに仕えて万人隊長となり、一族の天祥とともに私兵を率いて活躍しています。史家は唐朝に仕えて大官を輩出したと伝えますが、姓からして史思明と同じくソグド系かも知れません。天倪の弟・天沢は兄の軍勢を引き継ぎました。

 金の朝廷に見捨てられた華北は荒廃し、モンゴルの支配も行き届かず、馬賊や盗賊が跳梁跋扈する無法地帯と化します。そこで、各地で人望ある指導者を頂いた自衛団「郷兵」が組織されました。金は彼らを義勇軍として対モンゴル戦争に動員しますが、金の将軍や郷兵の指導者たちも仲間割れして相争い、モンゴルにつけこまれます。1213年には趙柔が、1214年には王義が、1217年には王玉が、1219年には張柔何伯祥が、1220年には厳実がモンゴルに降伏し、各地に割拠して統治を行いました。済南には張栄が粘っていましたが、1226年に帰順して高位高官に登っています。

 こうした漢人世侯は他にも数多くおり、モンゴルは彼らに統治を委任して貢納させ、間接統治を行っています。漢人とはいえ指導者層は「モンゴル」として扱われ、張柔はジャン・バートル、史天沢はサムカ・バートル、張栄はサイン・バートルというモンゴル語の称号を授けられました。

 ただ彼らは、史料上ではチャイニーズとかタブガチュ(拓跋)とは呼ばれず、キタイ/契丹人と呼ばれています。西暦1000年頃、ウイグル文字で書かれた中央アジアのマニ教徒の文書で「Cathai」という語が確認され、1026年に契丹国の使者がガズナ朝を訪問した時「カター(Qata)の支配者であるカター・ハンの使者」と名乗ったといいます。セルジューク朝の宰相ニザームルムルクの『統治の書』ではキタ(Khita)とチナ(China)を別の国として扱っており、契丹/遼朝と宋朝をそれぞれ指しています。

 ところが金朝が遼朝と北宋を滅ぼすと、「ジュールチャ(女真族)がキタイ(契丹)を征服した」とみなされ、金が支配した華北一帯も「キタイ」とみなされていったようです(西夏領はタングト)。これにより華北はキタイ/カタイ、南宋が支配する華南はチナ/マンジ(蛮子)と呼ばれるようになり、現在でもモンゴルやマンチュリア、テュルク諸語やロシア語ではチャイナを「ヒタイ」と呼んでいます。

 1223年にムカリが逝去すると、子のボオルが跡を継ぎます。彼はチンギスのもとを訪れて国王の地位を継ぐよう命じられ、1224年には西夏を討伐して大打撃を与えました。1225年には真定で武仙による反乱が起き、史天倪が殺害されたため、モンゴル軍中にいた弟の史天沢は急いで漢地へ赴き反乱を鎮圧しました。同年には高麗へ送られたモンゴルの使者が殺されています。

 1226年には山東地方で李全が反乱し、ムカリの弟タイスンとボオルが向かって李全の籠もる益都を包囲します。こうした反乱を抑えるためもあり、チンギスは漢地/キタイの平定を計画することになります。

太祖長逝

 モンゴル高原に帰還したチンギスは、1162年生まれとすればすでに60歳を越えていました。彼は広大な領土を息子らに分け与え、長男ジョチにはイルティシュ川上流域からアラル海・カスピ海の北に及ぶカザフ草原/キプチャク草原を授けて、征服できる限りの地を治めよと命じます。これがジョチの領国ウルスですが、彼は1225年に父に先立って逝去しました。

 次男チャガタイには、もとの西遼/カラキタイの領土、すなわちアルタイ山脈から天山山脈、タリム盆地、セミレチエ、マーワラーアンナフル、トハーリスターン、カーブルに至る中央アジアを授けました。インドやイラン高原へも領土を広げることが可能です。

 これに対し、三男オゴデイの国は小さなものでした。彼には建国当初に四つの千人隊が授けられ、ナイマンの故地を治めよと命じられ、エミル川流域を領国とし、加えてジュンガル盆地を領有しました。また河西回廊と大同盆地付近も飛び地として加えられましたが、ジョチとチャガタイの領国には及びません。その代わり、彼にはモンゴル帝国の帝位が約束されます。ジョチとチャガタイは仲が悪く、どちらかが即位すれば内紛が起きますし、末子トゥルイは末子相続によりチンギスの統治するモンゴル本土と家産、軍隊の全てを譲り受ける権利を有していました。

 遊牧民のならいとして、息子らが複数いれば上から順に独立し、末子は親元にとどまってその家畜や財産を相続します。これを「炉の番人オッチギン」といい、末子はしばしばそう呼ばれました。しかしこの場合、オゴデイは帝位を有しながらも直属の部下や領国に乏しく、モンゴル本土すら相続できないという問題が生じます。のちに一応解決されたものの、オゴデイ家とトゥルイ家の間にしこりを残すことになります。

 この頃、西夏はモンゴルへの服属から脱すべく金と同盟を結び、不穏な動きを見せていました。チンギスはこれを懲罰すべく、1226年初頭に西夏への遠征を行います。西方への大遠征に比べればすぐ近くですし、西夏はすでに疫病や飢饉で弱りきっていました。遠征で鍛え抜かれたモンゴル軍は西夏の諸城を次々に攻略し、同年冬には凍結した黄河を渡って首都興慶、南の霊州を包囲します。西夏軍は撃ち破られ、滅亡寸前となりました。

 1227年、チンギスはオゴデイに命じて東へ行かせ、金領の陝西地方を侵略させます。また自らは南東に進み、夏には六盤山(寧夏回族自治区固原市)に陣営を構えて避暑地とします。寧夏から陝西盆地へ向かう要衝の地です。しかしチンギスはこの地で狩猟中に落馬し、それがもとで病気となり、危篤状態に陥ります。モンゴル軍は急ぎ撤退を開始しますが、同年8月に崩御しました。遺体はモンゴル高原へ運ばれ、起輦谷(ヘンティー山脈のクレルグ山か)に葬られたといいます。この地は聖地となり、歴代のモンゴル皇帝はここに葬られましたが、現在も発掘調査は行われていません。

 9歳で父を亡くした少年は、44歳でモンゴル高原を統一する君主となり、66歳で亡くなるまで大遠征を続け、史上最大の帝国を築き上げました。モンゴル帝国では彼を神のごとく崇めて長く祭祀を行い、現在もモンゴル人から偉大なる英雄として崇敬されています。そしてチンギス・カンの遺した世界帝国は、三男オゴデイに受け継がれ、さらなる拡大を続けるのです。

◆法天啓運◆

◆聖武皇帝◆

【続く】

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