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【つの版】度量衡比較・貨幣56

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1517-18年、スペイン人の探検者たちはユカタン半島に到達し、先住民の建設した都市文明と接触しました。報告を聞いたスペイン人は湧き立ち、西方への遠征を開始しました。その文明とはどのようなものだったのでしょうか。ざっくり見ていきましょう。

◆Mexico◆

◆Mexico◆


中米文明

 のちにメソアメリカ(中米)と呼ばれることになるこの地域には、多種多様な文化圏が存在していました。人類はアジア大陸の北東端からベーリング海峡を渡って北アメリカ大陸に到達し、紀元前3000年頃にはトウモロコシ等の栽培を初め、定住して農耕を行うようになります。やがてメキシコ湾岸地域にオルメカ文明、東のユカタン半島やグアテマラ等にマヤ文明、南の太平洋沿岸にはサポテカ文明ミシュテカ文明が興り、神殿や都市を建設して互いに抗争・交易を行いました。

 紀元前後頃から7世紀にかけ、中央メキシコ高原のメキシコ盆地(現メキシコシティ付近)に巨大都市国家が繁栄しました。のちに「テオティワカン(神々の都)」と呼ばれるこの都には、多数の神殿ピラミッドが立ち並び、職人や商人が交易路を通じて集まり、最盛期には10万人から20万人が居住したといいます。下水道などインフラも整備され、政治的にもメソアメリカ各地に影響力を持ち、マヤ文明のいくつかの都市にテオティワカン系の人物が侵入して新たな王朝を建設したと言われています。しかしあまりの人口集中とそれに伴う過剰な森林伐採、旱魃や疫病や外敵の侵入などが重なり、7世紀中頃にテオティワカンは放棄されました。

 言語学的にオルメカ文明ではトトゾク諸語(トトナク、ミへ・ソケ等)、マヤ文明ではマヤ諸語、サポテカやミシュテカではオト・マンゲ諸語が主に話されていたものと考えられます。テオティワカン文明で何語が話されていたかは諸説ありますが、北方系のナワトル語ではないかともいいます。おそらく多種多様な言語が飛び交っていたでしょう。またテオティワカン以前のメキシコ盆地南西部にはクィクィルコという巨大都市国家があり、これが火山噴火で衰退したのちテオティワカンが栄え始めました。

 テオティワカン文明の崩壊ののち、メキシコ盆地には西暦650-900年頃にソチカルコカカシュトラテオテナンゴチョルーラといった都市国家が割拠し、テオティワカンの後継国家として互いに抗争や交易を行っていたようです。しかし西暦900年頃にはマヤ文明の諸都市とともに衰退しました。

 西暦300-900年頃にはマヤ文字による碑文が残っており、この頃を考古学上はローマになぞらえて「古典期」、それ以前を「先古典期」ないし形成期と呼びます。紀元前後から300年までを原古典期とする説もあります。古典期が終わった後を「後古典期」と呼びます。

一葦之年

 この後、メキシコ盆地にはトルテカ文明が興ったとされます。トルテカとは「トゥーラ/トゥラン(葦/カヤツリグサの多い土地)に住む者たち」を意味するナワトル語です。その中心地とされるのが、メキシコシティの北75kmに位置した都市トゥラン・シココティトラン(トゥーラ)で、文明を人類にもたらした偉大なる神ケツァルコアトル羽毛ある蛇)を崇めていたといいます。同様の神はオルメカ、テオティワカン、マヤなどメソアメリカ全体で広く崇められており、共通のルーツを持つと考えられます。

 伝説によれば、メキシコ盆地の北方にはチチメカ(乳を飲ませる人々、新参者)と総称されるナワ系の諸部族が住んでいました。彼らは9-10世紀頃に相次いで南下し、各地の都市国家と戦いながらメキシコ盆地に入り、巨大な(ほぼ琵琶湖ほどの)湖のほとりに住み着きましたが、そのうちのある部族がコルワカン(クルワカン)という都市を建設しました。

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 コルワカンの初代の王(トラトアニ)はミシュコアトル(雲の蛇)といい、その子をセ・アカトル・トピルツィン(一の葦の王子)といいました。当時の暦では52年周期で同じ名の年が繰り返されており、「一の葦(セ・アカトル)」とはそのひとつで、トピルツィンはこの年に生まれ、成人すると自ら「ケツァルコアトル」と名乗ったといいます。彼は父の跡を継いで王位につくと、首都を北のトゥラン・シココティトラン(トゥーラ)に遷し、善政を敷いて民に讃えられました。これがトルテカ王国です。

 しかし戦と魔術の神テスカトリポカ神を崇める神官や戦士らは彼と対立して騒動を起こし、ケツァルコアトル王は都を去って東の海の彼方(ユカタン半島?)へ赴いたといいます。この時は王が誕生してから52年後の「一の葦」の年にあたり、彼は「一の葦の年に戻ってくる」と予言したとも伝えられますが、これについては後付かと思われます。

湖上建国

 トゥーラ/トルテカは旱魃や飢饉で衰え、12世紀後半頃に滅びました。これに続いて勃興したのがテパネカです。彼らは北方からメキシコ盆地に移住したチチメカ/ナワ諸族の一派とされ、先住民と通婚してテスココ湖の西岸に居を定め、アスカポツァルコを首都としました。湖の東岸にはアコルワ族が住み着いてテスココという街を築き、テパネカと対立します。

 14世紀後半、テパネカのアスカポツァルコ王テソソモクは各地の都市国家に息子や娘を派遣して統治させていました。湖の中の島テノチティトラン、トラテロルコに新たな都市国家が出現するのもこの頃です。テノチティトラン(テノチカ)の初代王アカマピチトリの子ウィツィリウトルはテソソモクの娘を娶り、彼女が産んだチマルポポカは次代のテノチカ王となりました。またトラテロルコの王クァクァピツァワクはテソソモクの息子です。

 しかしテソソモクが1426年頃に死去すると、後継を巡って内紛が勃発します。テソソモクは息子タヤウを跡継ぎに指名し、テノチカ王チマルポポカもこれを支持していましたが、テソソモクの子でコヨアカンの王マシュトラはタヤウから政権を奪い、自らテパネカ/アスカポツァルコの王に即位します。チマルポポカはマシュトラの手の者により暗殺され、叔父イツコアトルが擁立されてテノチカの王位につきます。

 イツコアトルはテパネカからの独立を宣言し、トラコパンの王トトキワストリ、テスココの王ネサワルコヨトルと三国同盟(Excan Tlahtoloyan)を締結します。1428年、彼らは連合してアスカポツァルコを攻め滅ぼし、トトキワストリが名目的にテパネカ王を称します。しかしトラコパンは小国で、テソソモクが覇権を及ぼしていた他の領域はテノチカとテスココにより分割されました。三国は征服地からの貢納品を五等分し、テノチカとテスココが各々2を、トラコパンが1を受け取ることで合意しています。

 これがいわゆる「アステカ帝国」の始まりですが、三国を統一的に支配する政府はなく、「皇帝」に相当する者もまだいません。テノチカ王イツコアトルは三国の中で主導権を握るため歴史を改竄し、王家の発祥がテパネカ/アスカポツァルコである事実を隠蔽しました。そして国号をテノチカから「メシカ(Mexihcah,Mexica)」と改め、新たな建国神話を創造したのです。

神話創造

 この新たな神話によれば、北方にアストラン(鷺の多い場所)ないしチコモストク(七つの洞窟の場所)という場所があり、ナワ族(ナワトル)の七部族がそこに住んでいました。彼らは別々に南下してチチメカ、テパネカ、アコルワの諸族となりましたが、最後に出発したのがメシカ族でした。彼らの崇める神をウィツィロポチトリ(ハチドリの左足)といい、別名をメシトリ(Mexitli)あるいはメツトリ(Metztli)といいましたが、これは「月」を意味します。メシトリを守護神としたことから、彼らはメシカ(メシトリの民)と呼ばれることになったというのです。ナワ諸族は実際北方から到来したらしく、そういう神話があったのでしょう。

 メシカ族はマリナルコチャプルテペック、コルワカンなどを訪れましたが、先住民と争いになって追いやられ、テスココ湖のほとりのアナワク(水に近いところ)までやってきました。その湖の中の島にサボテンが生えており、その上に鷲が立ち、蛇をクチバシにくわえていたので、部族は予言に従ってここに街を築き、テノチティトラン(岩-サボテン)と名付けました。現在のメキシコシティ(シウダー・デ・メヒコ)です。

 このため彼らの自称はメシカですが、1810年にドイツの学者フンボルトが「アストランの民(アステカトル)」として「アステカ」と勝手に呼び始めました。「メキシコ/メヒコ」の名はスペインによる征服後にこの街につけられたもので、1821年にスペイン領ノヴァ・エスパーニャが独立した際、国号を「メキシコ」としています。先住民の政権はこれと区別するため「アステカ」として定着したのでしょう。まあナワ諸族はみなアストランから来たと神話にありますし、メシカ族以外の民もまとめて呼べますが。

 イツコアトルらの父で初代のテノチティトラン王アカマピチトリは、トルテカの末裔であるコルワカンの王女アトツトリを母とし、メシカ族のオポチトリを父としていたとされます。これは歴史ある文明国コルワカンとの繋がりを強調するためと思われ、事実かどうか定かではありませんが、イツコアトルはこれによって国号をクルワ=メシカとも呼びました。またテノチティトランの北の島にある都市国家トラテロルコも「同じメシカ族が仲違いして分かれたものだ」として取り込みにかかります。

 こうして独立国家としての体裁を整えたのち、イツコアトルは1440年に崩御します。跡を継いだのはイツコアトルの子テソソモクではなく、彼の異母兄ウィツィリウトルの息子モクテスマ1世でした。彼は異母兄トラカエレルやテスココ王ネサワルコヨトルと協力し、外征を繰り返して大きく勢力を広げます。東はメキシコ湾岸、南はオアハカ北部に至り、三国同盟はメキシコ高原一帯を支配する「帝国」へと発展していくのです。

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【続く】

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