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なだらかな父性を求めて

深夜2時。帰省を終えいつもの自宅に帰ってきた。

地元の野菜を売っているタイプのセブンイレブンでサツマイモを調達してきた僕は、深夜テンションで焼き芋を作ろうとしていた。これはアルミホイルが家にないことに気づいて強行突破した瞬間を捕えた写真である。真ん中は温まっていなかったのでやはり弱火とアルミホイルで外殻をケアしながらゆっくりと茹でるのがよいようだ。僕に芋の加熱処理はまだ難しい。

さて僕の社会性を保ち仕事をし続けるには何が足りないのかということをこれまでずっと考えてきたが、どうもこれは「ゆるやかな父性」と「ゆるやかな協力関係」の2点であることが最近明らかになってきた。

時間にルーズなこと、コミュニケーションにストレスを感じやすいこと、没頭したりアイデアが閃くと元気が湧いてくる反面それだけで活動が終了すること、社会や他人のあれこれに心を痛めやすいこと、計画や管理といった言葉に苦手意識があることなどは僕にとってつらい側面だが、それがどうしようもないものであったとしても人間は緩やかに成長し、ある側面では真人間のふりをして一生を終えることが可能ではないかと思う。

そしてその鍵は「一生懸命であること」「ゆるやかにストレスをかけ続けること」「他者と健全な協力関係を結び、その維持に努めること」である。

実家に帰って思ったのだが、起きて寝るまで他人が同じ空間にいるというのはこの時代においては結構きつい。しかしかつてそれが当たり前だったように、そのメリットは計り知れない。健全な人間の誠実性に引っ張られれば人は毎日少しずつ社会性(という名のバランス感覚)を鍛えられるのである。

協力関係を放棄して生きていくことはできない。また、投資と銘打って消費を繰り返すだけでも自立はできない。体験をし、さらにその体験を通して自分が何かを与えるというところまで他者を使ってやり抜かなければならないのだ。そして、それがもし大変なのであればそれは課題が難しすぎるか、コミュニケーションが歪んでいる(つまり、父性愛が強すぎたり弱すぎたりするか、そもそも言葉足らずだったりする)のではないかと思う。

僕は時に自分の短所を受け入れるとき、自分にやさしくなりすぎる。また逆も然りで、自分の長所を過信しているとき、自分に厳しくなりすぎるのだ。その結果疲れたり無駄な苦労をしたり、結果的に遠回りしたり、体調を崩したりしているように思う。結局ここは自分でコントロールできないと長く働くことはできないなと思っていて、最近休んだり自分の意志でできる働き方を探ったりする中で、自己コントロール能力の重要性を感じている。

僕は言われたことをちゃんとやろうとする力がある反面、実はかなり臆病なところがあって、加えて納得できないことは納得できるまで自分を追い込んで理解しようとする。これはつまり、社会に適応しようとする時により無理をし、多くの人間が考えない領域まで時に思い悩み、その割にチャレンジできる領域の少なさに悩むといった現象に繋がる。そのため、僕の今の状況を見れば「なんでそこまで自分を追い込む必要があるんだ」と思う人もいれば「なんでそこまで甘い仕事しか選ばないでここまで来てるんだ」と思う人もいるだろう。どちらも正解で、それは即ちここに述べた理由によるものだ。

そして、今色々なことがわかり、自分を以前より俯瞰できるようになったタイミングで思うのは、父性的なセリフを受け取ったときにそれが最も自分にとってちょうどいいストレスレベルであることが何より大事だということである。たとえば「これやって」とか「これいつまでにやって」とか、「できなかったら聞いて」とかいう、つまりは社会で協力関係を結んで何か事にあたるときに生じるコミュニケーションストレス全般に対して、かなり繊細に取り扱っていかなければならないのだ。

逆に言えばこの類のコミュニケーションさえ繊細に捌ききれれば、おそらく後のことは大した問題にならないはずだ。僕の没頭する感性も、時が流れるのを感じられない特性も、今一緒に時を過ごしている人達に迷惑がかからないラインを死守さえすれば別にアウトということにはならない。それを目指して、できるだけありのままの自分を受け入れて生きようと思う。

ところで、明日は早めに連絡返せるかな。

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