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瓶子あれこれ

王朝の饗宴において、もう一つ大事な酒器があった。瓶子である。その形は共通して認識されるものには至らなかったようだが、とりわけ文学作品の世界において豊かな言説を残している。

酒宴における瓶子の役目をめぐり、たとえばこのような語り草がある。王朝の巨人なる藤原道長は、出家のあと、氏寺の法成寺建立に精魂を費やし、やがて金堂落慶の日を迎えた。供養の宴において時の太政大臣公季(道長の叔父)を上座に座らせ、みずから盃を勧める役目を務めた。饗宴のハイライトであるこの厳かな儀礼において、大納言行成が道長の傍につき、「執瓶子」、瓶子を執って伺候していた。(『古事談』巻二第七など)

そこでこの瓶子とは、その読み方である「へいし/へいじ」をもって中世の語り物に大いに脚光を浴びるようになった。あの『平家物語』においてである。打倒平家の密会は、後白河法皇をはじめその近臣の数々が集まり、鹿ケ谷の山荘で行われた。やがて酒盛りとなり、平家への鬱憤を語りつくせないでいる一座の中から、藤原成親は打って出て、法皇の前に置かれた瓶子を引き倒して、「平氏たはれ候ぬ(へいしが倒れた)」と叫び、藤原西光はさらに一歩進んで、「頸をとるにはしかず(その頸を取ってしまのが一番だ)」と応じた。(『平家物語』巻一「鹿谷」)この騒がしいひと時は、『平家物語』序盤の一つの山場であり、やがて清盛の強硬な鎮圧に遭い、反平家の面々は一人残らず厳しい懲罰を受けるはめとなった。語り物が伝えた場面は、たしかに生き生きとして分かりやすい。ただ、瓶子/平氏を中心に展開した一幕は、隠語に近い会話に聞こえ、どこか陰湿で無気力、王朝貴族による平家への反抗の限界を示した象徴的なものだと読まれないこともない。余談になるが、学生時代、北白川にある寮に泊まり、鹿ケ谷は歩いて届く距離にあり、哲学の道を歩いて道路標識を見てはこの場面を頭の中で思い描いたものだった。

しかしながら、ここでの主役の瓶子とははたしてどのような形をしていたのだろうか。じつはずっと漠然としていて明確なイメージがなかった。そこで思い直して、描かれた『平家物語』を探ってみた。物語の成立から数百年もあとになって描かれるものしか現存せず、当時の様子を写実に伝えるものはおよそ求めようはない。それでも、画像を眺めてビジュアル的にイメージが膨らむ。

最初の一例は、『平家物語』絵本(明星大学蔵)である。一席の上座に座ったのは、間違いなく後白河法皇である。黒い束帯装束の貴紳は、瓶子を倒した成親だろう。かれが振り向く視線の先に、僧形の西光が瓶子の頸を手に握り、猛然と突っ走った。画面の中には食事を彷彿させるような折敷は描かれるが、ほかの酒器は見当たらず、酒宴としての様子は強調されていない。(巻一、画像番号=75)なお、この絵本の絵は、インターネットでデジタル公開されている

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さらに『平家物語』全作を描いた膨大な分量の『平家物語絵巻』(林原美術館蔵)が存在している。その中で、鹿ケ谷の一件はさらに細かく描かれている。眺めてみよう。(巻一中第二十五段)

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ここに後白河法皇は、絵の中の貴人として描かれ、その顔が雲の中に隠されている。法皇の前に、今度は瓶子が二つも置かれ、白い束帯姿の成親はその中の一つを倒して、それでも憤懣止まない顔で自分の座に戻ろうとしている。続きの場面において、瓶子はすでにその頸がもぎ取られた形になった。もともと『平家物語』の描写において、瓶子そのものが壊れたとまでは書かれず、したがって無残な形になった瓶子は、絵ならではの表現にほかならない。それにしても、画面の上に二回現れた瓶子は、時を隔てた同じもののはずだが、両者を見較べればその形はあまりにも違ってしまう。なんとも微笑ましい。

鹿ケ谷における瓶子は、さらに思わぬ広がりがあった。『徒然草』において、あきらかにこれを下敷きにした一つのエピソードを伝えている。医師の忠守という人はまわりから妬まれ、とある酒宴で笑いものにされてしまった。みんなで謎を掛け合うという遊びをするなか、忠守が姿を現わした。すると、「この国の忠守ではない」との謎が上がり、答えは「唐瓶子」だった。忠守の名前を鹿ケ谷で非難の的となった忠盛と置き換え、日本ではないから唐という、行重も屈折した、それでいて即妙ななぞだった。いうまでもなく、この悪意に満ちた謎かけに本人の忠守は憤慨し、その座を離れた。

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上は江戸時代の『徒然草』注釈絵からの一例だ。画面の真ん中に鎮座する瓶子は、たしかに異常に存在感があって、舶来のものだと言われてもおかしくない。ただ、一つのエピソードとして瓶子はあくまでも会話の中で交わされたものであり、みんなに囲まれて置かれるとはなっていない。(『つれづれ絵抄』第百四段)

試しにこの『徒然草』の注釈絵を用いて小さなGIF動画に仕立てた。ここに貼り付けることはできず、代わりにリンクを添えておく。どうぞ覗いてください。

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