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厨房の道具で文字を

これまでなんとなく古典の絵にある台所風景を集めてきた。そのリストに加えなければならないユニークな一枚が目に飛び込んできた。馬琴作『無筆節用似字尽』(寛政九年〈1797〉)から二番目の見開きである。

厨房の様子をただ眺めていても楽しい。これまでの絵巻などからのシーンと違い、ここには男女が入り混じっている。切り詰めた雰囲気の中、かれらは魚を下し、大きなすり鉢で料理を拵え、吸い物を用意し、それを座敷のほうへと運び出す。

しかしながら、画面全体の内容はたしかに忙しい厨房だが、絵の狙いはまったく別のところにあった。見開きの右側に描かれた独立した小さな五つの絵なのだ。それぞれには丁寧な説明まで書き入れられている。句読点だけを入れて書き起こせば、つぎのような文だと分かる。

只まないた、なえは手おけに、月ほうちう、申がひしゃく、田口あんどう

この説明に対応して、「只、苗、月、申、田口」という六つの文字が添えられ、振り仮名まで付けられている。五つの小さな絵は、それぞれまな板、手桶、庖丁、柄杓、行燈の形を模した以上の六つの文字であり、それらを覚えさせるための工夫なのだ。そしてその目で見れば、厨房の画面からは、たしかに以上の五つのものを順に見つけ出すことができる。

画面に記入された文章は、文字を覚えて、書けるようにすることの大事さを親切に説き諭している。中には、つぎのような件がある。

手習するも料理人と同じ事。ちょっと書く手紙の文句も、手書が書けば見事にて、うまくて無駄がなく、悪筆がこじつければ、くどくて曲がって読めかねる。

ここに来て、この一冊の題名がようやく理解できた。『無筆節用似字尽』ーー無筆は文字の読み書きが分からないこと、節用は日常的に使うこと、似せ字はなんらかの物に文字を似せさせることで、そのような絵と文字を寄せ集めてこの一冊になったのだ。

文字を読んだり、書いたりすることを覚えさせるために、江戸の人々はここまで努力したのだ。一方では、これはまた江戸ならではの遊びが隠され、文字と日常とを巧妙に結びつけた作者の得意顔を見逃してはならない。

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