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一貫性や無矛盾性が基準なら批判はできますが、感情・価値観が基準なら、お互いの立場の違いの言い合いにしかなりませんよね。

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感情に訴えかけて扇動する、ということについてタイムリーな記事がネット上で掲載されていましたね。立憲民主党の議員さんの発言を擁護する意見で「手のひら返しだ!」という批判に対して、矛盾や辻褄の合わないことを言ってもいい、と取れる内容のものです。

当該人物は、ちょっと前に書いたコラムで扱った、誹謗中傷批判に対して「同調圧力だ!」と返した件に関連する人だったので、ちょっと気にして様子を見ていたのですが、確かにちょっとおかしいな、と思うところはありました。自分の意見は「中立だ」とか「客観的だ」とか「普遍的だ」とか、自分で言うあたりがです。その特徴からして、おそらく自分を絶対視するタイプの人なのではないかと推測できると思います。全部自分が基準なで、その時々の感情や状況によって、言うことがコロコロ変わるという感じですね。今回のこともそうでした。今回、議員さんがオリンピック開催反対の立場だったのにも関わらず、金メダルを獲得した人を称賛して「手のひら返しだ!」という批判が出たことに対して異を唱えたわけですが、その人、ちょっと前に、世論がオリンピック開催に慎重なのに、いざ開催されて熱狂したら手のひら返しだ、という記事に賛同していました。今回のと、その前の、構図は同じなのに、なぜ今回のはよくて、前のはダメなのでしょうか? 論理的には全く理解不能ですよね。だからこその、矛盾や辻褄が合わなくてもいい発言なのかもしれませんが……。

今回の件での収穫は、感情や価値観で物事を判断する人は、一貫性や無矛盾性の必要性を理解できない、ということがわかったということです。その人の発言からもわかるのですが、自分の感情や価値観で物事を判断する人は、自分の仲間やお気に入り、同じ価値観の人のみを信用し、信頼するということです。いますよね、傍から見て、全然有能でもないし、ウソも平気でつく人を、やたら能力があるとか信頼できるとか褒めちぎる人。明らかに依怙贔屓なのに、友達だから庇ってるんじゃない、とか言い張る人。当然そういう人たちの築く社会は、同じ価値観に基づいた、縁故優先の人治主義になると思います。

それに反して、違う価値観の人同士というのは、考え方が違うため、話がかみ合わなかったりして、なかなか信頼関係を築けなかったりします。そんななかで、では相手のどこに信頼性を見出せばいいかというと、言ってることに矛盾がないとか、一貫性があるということの他にないでしょう。それは約束事を守るということにも通じますよね。つまりこっちは法治主義ということです。まあ、どっちが正しいという話ではありませんが……。

しかし、多様性の尊重ということを考えた場合、前者では到底それは実現できないことだけは確実だと思います。その人も口では『多様性』ということを盛んに言っていましたが、所詮は口先だけだったということでしょう。なにせ、自分の好きなお笑い以外はオワコン発言をした人ですから。結局、自分の価値観優先が、骨の髄まで浸み込んでいたということですね。

これくらい言えば、もう読む気は失せますか?


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