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呼和浩特──騎馬民族の祈り

内蒙古、3月の冬へ

 北京でも桜が咲き始めた頃、私は内蒙古自治区の省都、呼和浩特に向かう列車の中にいた。かつて騎馬民族が駆け巡った大地の鉄路は、春とは思えぬ冷気に支配されていた。

計画的な無計画

 今回の旅行はいつになく突発的なものだった。木曜日の夕方に放課して、金曜日に授業がない授業予定を組んでいる時分で、金曜の夜まで予定がないというタイミングだったのである。
 「つまり木曜の夜に出て、金曜日に高速鉄道で帰ってくればどこにでもいけるのでは?」と授業中に考えたら最後、気づいたらスマホの画面には往復の切符予約完了画面が表示されていた。常々限界旅行オタクは考えることを知らないなと思ってしまう。

青年氏との出会い

なぜそう配置したのか

 今回の旅は北京西駅から始まる。行って分かったが、どうやら大学からのアクセスが便利な普通駅は北京西駅みたいだ。慣れた手付きで荷物検査などを済ませると、正直言って北京駅よりも庶民的で快適な駅構内が出迎える。それにしてもマクドナルドの向かいにケンタッキーを置く設計はどうにかした方がいい。

 駅構内で一時間ほど待機した後に車内へ。──やはり寝台列車は客車列車に限る。しかし成長激しい中国でいつまで客車式寝台列車が運用され続けるのか、まあ当分は安泰だろう。──今日泊まる寝台には母娘の家族と北京出張帰りの青年、あとは帰省っぽいおじさんの三組がいた。
 特にこの青年がとても面白く、日本のお笑いに興味を持っている日本通ときた。まだ中国語が拙い私との会話では、時折英語や日本後で補助を入れたりしつつ、日本のバラエティや民間経済などについて数時間程度も盛り上がった。因みに彼は最近の日本の回転寿司での迷惑行為に思いを致していたので本当にやめましょう。彼との話が呼和浩特に移ると、市内の美味しいモンゴル料理店に行かないかとのお誘いが。知らない人にホイホイついて行くのはリスクではあるが今回は当地の治安や相手の知識の多さや態度的にリスクは低いと考え承諾した。

チベット仏教、門前町を歩く

中国の門前町。

 明け方、車内も寒くなりつつある中、呼和浩特駅に到着。仕事があるからと青年氏とはここで一旦別れ、自分は一路市内のチベット仏教寺院に向かう。

 ──なぜチベットから離れた内蒙古、モンゴルでチベット仏教が受容されているかと言えば、これはモンゴル帝国の時代に遡ることができる。騎馬遊牧民族たるモンゴル族は、中国は当然、チベットにもその勢力を伸ばした。その時にチベット仏教が深く信仰されていることに目をつけ、彼らはその宗教を受容したのである。まるで歴代の将軍が国家統治の権威付けのために天皇を崇拝し続けたようなものなのかもしれない。──
 
 市内中心部に近いところに位置する大招寺は、このチベット仏教を代表する内蒙古の寺院だ。またこの周辺は観光地として整備されており、特に骨董店が多く店を構えている。平日の朝にも関わらず営業していた店に入ると、何故か朝鮮の勲章がチラホラと置いてある(詳しい人によると内蒙古は朝鮮族もそれなりに住んでいるのでその影響かもしれないとの由)。しかも地方ということもあってか北京の骨董市に比べ値段もそれなりに安い。これもなにかの縁だと思い、とりあえず勲章を一つ購入した。

呼和浩特──騎馬民族の祈り

大招寺には静かな祈りの風が漂う。

 骨董商が並ぶ門前町を進むと、ひときわ大きいチベット仏教寺院に着く。大招寺と呼ばれるこの寺院は当地で初のチベット寺院にして最大の規模だという。足を踏み入れるとチベット仏教のイコンでもあるきれいな五色の布が舞う境内に出た。本堂には黄金色の仏像がいくつも並び、その左右には彩度の強い仏教画が広がっている。

 ──日本の仏教寺院と異なり、チベット仏教では五体投地で仏に祈りを捧げる。地に体が付き、ただでさえ大きい仏像が更に大きく移り、しかしそれでも仏像からは慈悲を感じる。騎馬民族として常在戦場だった彼らは、この祈りの時間がある種心地よい休憩になっていたのではないだろうか。──

 本堂を出て出口に向かう。時間ももうすぐ午前10時に差し掛かろうかという時点で、寺院の境内横にあるお堂では仏僧による読経が行われていた。その別堂では日本のより遥かに大きい線香が売られていた。線香を購入し、すでに参拝していた中国人の見様見真似で自分も線香を供える。線香の透き通った、懐かしい香りは線香の大きさに見合わない細い白煙と共に内蒙古の大地に吸い込まれた。

"狂野"のモンゴル料理

まるごと切ってきただろ!って肉。

 寺院の周りにあった街を散策していたら車中であった青年氏との約束の時間になったので向かう。彼に案内された店は伝統的なモンゴル料理をカジュアルに提供する、日本でいうと郷土料理を出すカジュアル居酒屋みたいな店だった。──国内旅行をしている時分からそうだったが、このような位置付けの店が一番有り難い。だいたいアクセスも便利なことが多いように思う。──幸いにも店のすぐ近くが高鉄駅だったので余裕を持って楽しめた。

 モンゴル料理がどういうものだったかを一言で言えば、限りなく素材の味を活かした"狂野"(ワイルド)な料理に他ならない。モンゴル茶として提供されたものは、多少の香草などを入れた乳茶のようなものが入った鍋から好きにすくい取るものだったし、モンゴル式焼肉は、肋骨が何本も付いたとても大きいブロック肉を、削いで食べるというスタイルに終始した。
 思うに、この地では古代からこれが彼らの最大のもてなしなのだろう。自分らが客人のために取ってくる食材に自信があり、──もちろん香辛料や調味料が手に入り辛かったのもあるだろうが──それをそのまま客人に食べてもらうことに、喜びを感じていたのかもしれない。
 しかしそれにしても量が多い。この文化圏を共有するモンゴルは多くの力士を輩出しているが、こんなに栄養に良さそうな食事をモリモリ食べていたらそれは、まあそうなるだろう。

夏の内蒙古を想う

 「次は夏に内蒙古のオルドスに来てくれ!」という青年氏に別れを告げ、高鉄で北京へ帰る。まだ残雪が見える内蒙古を抜け、段々と無機質なビル群と、薄っすらと黄色く覆われた世界が見えてくる。いつの間にか彼の言う青と緑しかないオルドスの大自然に焦がれた。

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