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香港と大阪で伝染病と戦った第二の男 その2

さて、今回は松田の事績を見ていくわけですが、その前に、香港での様子を他の資料で補足しておきます。

松王数男(1927)に、1902年当時の香港での検疫の様子が述べられているので、それを引用して置きます。前回同様、読みやすいように、送り仮名や新旧漢字、仮名遣い、句読点などは適宜変更しています。途中、ちょっと今日的な観点からは問題のある箇所もありますが、歴史的な資料として、そのまま掲載しておきます。

そもそも自分の「ペスト」に親しみだしたのは、四高の校門を出た翌年の明治34年4月1日、国立伝染病研究所(当時芝区愛宕下)入所以来でありますが、その翌35年3月には、英領香港政庁よりの聘に選ばれて、松田毅氏(現時は大阪府浜寺石神病院長)を主幹とする一行の8名に加わりて、同地の「ペスト」防疫に従事しましたが、木下博士のご追憶談にもある香港の「ケネデタウン・ホスピタル」はややその後増築せられたるが如く、自分らはこの病院と、それより少しく山手の中腹に新設せられある死体剖検所兼細菌室たる「パブリック・モーチャーレー」と、市内の各警察「オフヒース」とを常に手分けして巡廻したのでありますが、病院船Hygeiaはほとんどその頃は使用されず、ただ海面に白く化粧されたるまま浮び居るのみでありました。しかして当時最も感慨に堪えざりしものは、培養基に製造にあたり、明治27年我国派遣の研究員たる北里、青山両大家の一行が使用せられたりと称する歴史的記念のコフ氏蒸気消毒釜、直径わずかに1尺、高さ3尺くらいのもの1個ありて、これをば修理し使用してくれとのことで、やむなくこの記念物を謹んで修理使用することに致した次第であります。試験管は全島を駆り集めて僅々200本内外より無く、出来上がりたる「クルツール」は何様気温は高く釜は修理品であるから、毎回十数本多きは数十本も除外せねばならぬ有様で、随分これには悩まされたのであります。内地には豊富に「マウス」「モルモット」「ラッテン」などを使用して来た自分達は、何がさてこの島ではこれらの小動物は容易には得られず、頭から豚、牛の如き大動物を使用してくれとのことで、一驚を喫したのであるが、豚はよく罹りて豚体を通過せしめたる菌の標本などは実に美麗なるものが得られたのであります。屍体解剖所に運ばるる婦人「ペスト」屍体の纏足せる畸型足を片足なりとも標本に保存せんと思い、切断をやりかけましたが、それこそ「モッブ」が起こるからいけないとて、差し止められたこともありました。滞在半ヶ年、香港医大の卒業生らに実際的の執務を指導し、引き渡して自分らは帰朝したのであります。内地の「ペスト」屍体にはあまり見えないが、香港では気候の関係上よりか、所謂黒死病たる黒紫斑を前、側胸部などに著明に呈せるものを随分当時多く目撃したものであります。

四高は、旧制第四高等学校で、現在の金沢大学法文学部と理学部の前身です。松王は1901年に伝染病研究所に入所したことになるので、時期としては松田と同じ頃です。
木下博士とは、北里らとともに1984年に香港でペスト調査にあたった木下中正のことです。この木下の追憶談は、「日本傳染病學會雜誌2(1)」(1927)に掲載されています。この松王の回想によると、松田たち一行は、ケネディータウン病院、死体剖検所、各警察署で仕事をしていたことが分かります。おそらく、この死体剖検所はヒル・ロードにあったものだと思われ、シンプソンもここで仕事をしています。
また、松田が消毒釜が古くて困ったということを述べていましたが、松王の回想によると、それは北里らが持ち込んだものだったということが分かります。松田の講演でも検疫で苦労したことが伺えましたが、松王の回想では、そもそもその準備段階でも随分苦労したことが伺えます。

纏足を標本にしようとしたというのは、純粋に研究心からでしょうが、流石に暴動に成るから止めてくれと、現地スタップに止められています。

なお、クルツールは前回も出てきましたが、消毒用のクレゾールのことです。

下に、松王が言及している、「ほとんどその頃は使用されず、ただ海面に白く化粧されたるまま浮び居るのみ」の病院船ハイジーア号の写真を挙げておきます(gwulo.comの1905 - 1907 Louise Helen Petersen's photographsからの借り物です)。

さて、今回は松田毅氏の事績を述べることにします。

もちろん松田氏は大阪にゆかりの深い人物ですが、実はそれは大阪とのゆかりと云うよりは、恩師・石神亨との縁と言った方が正確だと思われます。

松田毅は明治7(1874)年に熊本県に生まれました。父・眞福は松田が生まれてから勉学に励み、医師として開業したといいます。

18歳のときに、許しを得て横浜の親類の大谷新八を頼って上京。大谷氏の薦めで、その友人である医師・石神亨より医学を学ぶこととなりました。これより松田と石神の縁が始まりました。時期的に、石神がヨーロッパより帰国、北里柴三郎の助手になった頃でしょう。

1893年、石神の薦めで、東京慈恵院医学校に入学します。その源流は、石神の恩師・高木兼寛によって設立された成医会講習所です。

1895年には陸軍歩兵第一連隊補充隊の予備徴員となりますが、程なく隊は解散となります。1896年に卒業し、医術開業後期試験にも合格(前記試験には1894年に合格済み)、翌年5月に開業免許を得ます。

石神が大阪に赴いた際には、手伝いで自らも大阪に赴いています。その後、石神が天王寺に石神病院を開設するに及んで、松田は熊本から家族を大阪に呼び寄せています。父・眞福も石神を手伝ったといいます(『松田毅博士追悼録』では、石神が痘苗製造所長に赴任したのを手伝い、その後天王寺に病院を開設に伴って家族を呼んだとなっているが、石神の事績研究では、天王寺の病院開設の方が痘苗製造所長就任より早く、痘苗製造所長就任の後に開設するのは浜寺の支院ですので、松田が手伝ったのは痘苗製造所長就任時の準備ではなく、桃山の石橋病院に間借りしていた1896年10月から翌年4月までの何処かではないかと思われます。その後5月に天王寺の一心寺の西に石神病院が開院するので、そのときに松田が家族を呼び寄せたのではないかと考えられます)。

明治32(1899)年に26歳で結婚、翌年には長女が誕生します。

この年、神戸と大阪でペストが発生、伝染病研究所長・北里柴三郎、同部長の志賀潔と守屋伍造、内務技師・高木友枝の4人が調査に赴いたのは前回記したとおりですが、遠山(1927)は、「明治三十二年(中略)十二月末、北里、志賀、石神諸氏と共に余は実地を見学すべく同地に赴いた」とあります。石神はすでに大阪在住ですので、大阪あるいは神戸で合流したのでしょう。とすれば、松田はこの時石神の病院を手伝っていたはずなので、やはりこの病禍に立ち向かっていたと考えていいでしょう。

明治34(1901)年に、伝染病研究所第一部事務取扱嘱託から伝染病研究所助手となっています(日本細菌學會(1901))。どうやら、石神を手伝って大阪に赴くよりも前から入所は決まっていたらしいですが、とすればやはり石神の推薦があったと考えるべきでしょう。

翌1902年4月から、英国政府からの要請で派遣された医師団の主任として半年香港に滞在しているのは、前回御紹介した通りです。11月に研究所で「香港談」として講演を行っているのがその内容です(松田(1903))。前回は『香港要覧』の数字で、1902年のペスト患者数を御紹介しましたが、日本細菌學會(1903)によると、1902年の香港のペスト患者は568名で死者は555名となっています。

なお、松田が香港出張のために神戸に滞在している間に、かねてからの病のために長女が亡くなってしまいます。しかし、これからの仕事のことがあったのでしょう、松田は長女が死んでも知らせないように家族に頼んでいたそうです。松田は覚悟はしていたのでしょうが、長女の死を知らぬまま香港へと旅立ったのでした。

1903年1月に、北里柴三郎の推挙で警視庁防疫事務官となり、翌年、日露戦争が始まると、陸軍三等軍医として招集され、広島県似島臨時陸軍検疫部支部勤務に勤務します(日本細菌學會(1904bc)。

その後、石神の招きに応じて、大阪の石神石神病院と研究所に勤めることとなります。この時石神は浜寺に支院を構えていました。松田はそちらにも籍を置いていたようで、論文は、度々「大阪石神病院浜寺支院」の所属で執筆されています。

この石神病院時代に、長男が誕生しています。「何事もなし貫くように」と「貫」と付けますが、訓読みでは「とおる」となって、石神と同じになるので、それを避けて音読みで「カン」としたといいます。また、この貫が長じて松田に開業医になろうかと相談した際、松田は、開業はいいが、自分は石神病院があるので手伝えないと言ったそうです。いかに石神を尊敬していたかが伺えます。

この頃、松田は石神と連名で盛んに論文を発表しています。

1909年には伝染病研究所所長の北里柴三郎が英国癩病会議、万国医学会に参加する際に、内務省技師内野仙一氏、大阪の医師緒方正清氏、神戸東山病院長天児民恵氏、内田重吉氏らとともに同行しています(日本細菌學會(1909))。そして松田はそのままドイツに留学し、コッホの元で学んでいます。

1910年にコッホが亡くなったときには丁度ドイツ滞在中で見舞いにも訪れている。

4月13日付の通信に、松田は次のように記しています(日本細菌學會(1910a))。

前略去る土曜日(4月9日)、コッホ先生は自宅に於いて心臓部の激痛を感じられ就床せられしが、熱心なる先生は月曜日には例の如く出勤せられ候処、俄然再び疼痛を発し帰宅、静養被致候。其後本日(水曜)まで御出勤無之候。病名は確かならず候えども、冠状動脈硬化とかの由に聞及候。本日は少しく御軽快せられし由に御座候。

また5月4日付けの通信でもコッホの容態に触れ(日本細菌學會(1910b))、

本月3日、先生を見舞いし時には容体余程悪しき方にて、一見非常の衰弱を認め得られ、心臓病の専門大家なる伯林大学教授クラウス氏主治医として日々附切り、非常に警戒を加え居られ候。

と記しています。しかし、コッホは5月27日に亡くなってしまいます。その臨終に立ち会ったのは、同じく伝染病研究所出身で、戦中は松田と同じ似鳥検疫所に軍医として勤務、同時期にやはりドイツに留学していた秦佐八郎でした。秦はこのドイツ時代に梅毒の特効薬を開発し、後にノーベル賞候補にも挙げられた人物です。秦はコッホ死去の後、すぐに帰国しています。残念ながら、松田はコッホの臨終の場には居合わせなかったようです。

その後も松田はドイツのグライフスワルド大学で研究を続け、大正元(1912)年にドクトルの学位を得て帰国します。

帰国後は、また石神病院及び研究所勤務となります。ただ、松田(1918)では、肩書を「獨逸ぐらいふすわるど大學衛生學教室/日本大阪石神研究所/ドクトル」と記しています。

大正2(1913)年のクリスマスに、高石教会で夫婦揃ってキリスト教の洗礼を受けています。これも石神の影響によるところでしょう。

1918年末に石神が亡くなると、石神病院長、同研究所所長の任を引き継ぎました。大阪結核予防会の仕事も、石神から引き継いでいます。

翌年には、論文「乾熱加蛋白ノ実験的血清学的反応推移—殊ニ過敏現象沈降反応及ビ補髄結合性抗体発生能力ニ就テ」によって京都大学より博士号を授与されました。

大正11(1922)年、石神の息子・康が所有する研究所財産一切を寄付する形で。財団法人石神記念医学研究所」を設立します。昭和2(1927)年には、天王寺の石神病院は外来のみとし、入院患者はすべて浜寺に移します。

この間、松田は石神病院と研究所を牽引し続けていました。

そして、昭和11(1936)年、東京慈恵会医科大学(松田が卒業した東京慈恵医院医学校が前身)を1930年に卒業後、結核治療とX線医療を修めた、石神の三男・等が帰阪。松田は病院の改築や製薬所の増築など、病院の発展に務め、その完成を待って、昭和15(1940)年3月に研究所長、翌年1月に病院長の職を等に譲ります。

これに安心したのか、松田は徐々に体調を崩し、1941年10月、68歳で亡くなりました。葬儀は石神病院葬として執り行われました。場所は、『松田毅博士追悼録』によると「大阪市西区江戸堀二丁目なる、大阪基督教会聖堂」ということですが、これはおそらく、江戸堀1丁目に今もある「日本基督教団大阪教会」ではないかと思われます。同教会は、ヴォーリズ設計事務所のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による1922年に竣工したロマネスク様式の建築が現在も残されています。

最後に付録として、松王數男の経歴を分かる限り記しておきます。
1900年、第四高等学校医学部卒。
1901年、国立伝染病研究所入所
1902年、松田と香港に出張。このとき、ドイツに向かう途中の金沢医学校教授・金子治の元の松王が尋ね、金子も研究室(というからケネディータウン病院だろう)を見学しています。
その後、防疫事務官として兵庫県検疫本部細菌室に勤め、1911年に清国奉天防疫医官となり、翌年帰国して大阪府防疫官となっています。大阪府防疫技師の肩書きで執筆している松王數男(1912c)には、「(前略)余ハ昨年一月下旬清國東三省総督府ノ傭聘に應じてシテ該地ノ防疫措置二野與シ傍ラ細菌室主任トシテ親シク患者屍體等ノ材料其他買収鼠族ノ検査に従事シ(後略)」とあります。
1903年山口県防疫官、1918年には、京都府の防疫技師に任じられています。
冒頭に回想を引用した1928年の時点では、神戸税関港務部港務官となっています。

【参考文献】

日本細菌學會(1901)「雑事」細菌學雜誌65,p312-321
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日本細菌學會(1904b) 「雑事」細菌學雜誌107号,p593-600
日本細菌學會(1904c) 「雑事」細菌学雑誌108,p52-61
日本細菌學會(1909)「雑事」細菌学雑誌165号,p551-558
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日本細菌學會(1910b)「雜事」細菌學雜誌176,p614-618
松田毅(1918)「乾熱加蛋白ノ實驗的血清學的反應推移 殊ニ過敏現象、沈降反應及ビ補結合性抗體發生能力ニ就テ」日本微生物學會雜誌9(1),p565-634
伴哲夫(1944)『松田毅博士追悼録』私家版
安井昌孝(1999)「石神亨とその周辺」日本醫事新報3922,p55-58
遠山椿吉(1927)「『ペスト』の思ひ出」日本傳染病學會雜誌2(1),p89-91
松王数男(1927)「『ペスト』瑣談」日本傳染病學會雜誌2(6),p638-643
官報(2363)1920年6月18日
Gwulo: Old Hong Kong(https://gwulo.com/)
十全會雜誌(1903)「金子教授の通信(二月七日ハルレ発 十全會宛)」十全會雜誌(27),p98-100
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松王數男(1911)「肺百斯篤患者ニ對スル綿紗覆口試驗」細菌學雜誌192,p734-738
松王數男(1912a)「肺百斯篤患者ニ對スル綿紗覆口試驗」十全會雜誌,17(3),p103-106
松王數男(1912b)「同一家屋ニ於テ人百斯篤ト驢百斯篤ト爆發的ニ發生セル一例」十全會雜誌17(6),p191-196
松王數男(1912c)「水上防疫ニ關スル調査事項報道」十全會雜誌,(70),p1-11
官報1913年5月14日
十全會雜誌(1918)「叙任及辞令」十全會雜誌23(10),p64-65
十全會雜誌(1918)「人事」十全會雜誌23(10),p66



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