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カレーから見る世界史6(スパイスの王コショウ)

カレーの刺激を生み出しているもう一つのスパイスが「コショウ」である。

コショウとヒハツ

「コショウ」として用いられているものは、主にインド南西部、現在のマラバール地方原産の「黒コショウ(Piper nigrum)」(これを加工したのが白コショウ)である。

これとは別に、インド北東地域原産の「長コショウ(Piper longum)」の黒コショウと、長コショウ(インドナガコチョウ、ヒハツ)がある。

長コショウはインドでは紀元前10世紀ごろから用いられており、古代ギリシャでも薬用として用いられていた。

また、インドネシアなどに産する「ジャワナガコショウ(ヒハツモドキ)という長コショウの近縁種もあり、これは沖縄などにも自生しており、「ピパーチ」と呼ばれている。


主な成分

コショウは、香気(精油)成分として、サビネン、リモネン、β-カリオフィレン、α-ピネン、β-ピネン、3-カレン、オイゲノール、ジンギベレンなどの揮発性成分を、非揮発性成分として、ピペリン、ピペラニン、ピペロングミン、ジピペラミドなど、主に辛味成分を含んでいる。

この中でコショウに最も特徴的なのは「ピペリン」である。

コショウの機能性は以下の通り。

・食欲増進・食嗜好性向上効果:サビネンなどの香気成分とピペリンなどの辛味成分によってもたらされる大きな効果。
・抗酸化機能:N-フェルロイ・チラミン、フェルペリン、N-フェルロイ・ピペリジンなどフェノール性アミド類
・抗菌・抗カビ機能:ピペリン、ピペルノナリンなど
・抗炎症・鎮静・抗痙攣作用:ピペロングミンなど
・制癌作用:ピペロングミンなど
・胃粘膜保護機能:ピペリンなど
・エネルギー代謝亢進機能:ピペリンなど
・肝障害抑制機能:ピペルカバミドB、ピペルカバミドD、ピペルカバミドG、ピペログミニンなど


ヨーロッパにとってのコショウ

ヨーロッパ諸国では、主たる食べ物は家畜の肉であった。

これは、人間には食べることのできないイネ科の植物、つまり「牧草」と呼ばれる植物を食べさせることで、育成して食料とすることができるというのが大きな利点であった。

つまり。家畜とは「生きた在庫」であった。

しかし、冬には牧草は枯れてしまう。草を刈って保存しておくことは、近代以前は技術的な問題からごく限られた量、期間しか不可能だった。

そこで、家畜は冬になると肉にして保存した。しかしこれも乾燥させたり、塩漬けにしてり、保存方法を工夫しなければ長期間は保存ができない。

ハムもそうした保存方法の一つであった。

そこで注目されたのが、スパイスやハーブの持つ抗菌・抗カビ機能である。

スパイスを利用することで、肉をより長期間おいしく保存することができるということに人々が気づいたのである。

また、脱臭機能や香り付け機能も有用であった。

実はカレーがイギリスに根付いた理由の一つに腐りかけた肉の臭いと味をごまかせるというのがあるという説があるほどである。

当時は週の初めに食料を買って使いまわすという習慣であったという。
そうすると週末になってくると肉は痛んできる。そこでカレーにすることによって「ごまかした」というのです。そうすると週末には「カレーの日」がやってくることになる。なお、海上自衛隊の金曜日のカレーは週休二日が一般的になった比較的最近のことである。

有名なシャーロック・ホームズの「海軍文書事件(海軍条約文書事件)」の中で、朝食にカレーを食べる場面がある。これも、肉が傷んできたのをなんとかしのいだ、ハドソン夫人のやりくりの賜物ではないかという考察が存在している。

テーブルの準備が出来て、私がベルを鳴らそうとした時、ハドソン夫人が紅茶とコーヒーを持って入ってきた。数分後、彼女はフードをかぶせた朝食を三つ運んできた。そして私たちは全員テーブルについた。ホームズは空腹で、私は興味津々で、フェルプスは落ち込んでがっくりしていた。
「ハドソンさんは機転が利くね」ホームズがカレー味チキンの皿の覆いを取って言った。「彼女の食事はそれほど種類は多くないが、スコットランド女性みたいに朝食の工夫がいい。君は何だ?ワトソン」
「ハムエッグだ」私は答えた。
「そりゃいい!何を食べますか、フェルプスさん、 ―― カレーのチキンですか卵ですか、それとも自分のを?」
(「海軍条約文書」コンプリート・シャーロック・ホームズ)

防腐、抗菌、香り付け、消臭、辛味付けという点で、もっとも威力を発揮したのがコショウであった。

しかし、先にも述べたが、コショウはインド南西部原産で、長コショウもインド北東部原産で、熱帯地域でなければ栽培できない植物である。

そのため、はるばる熱帯地域から運ぶしかなかった。
しかし、アフリカ南端を回るインド航路が開拓されるまでは、アラブやペルシャの商人が中継ぎして、地中海に運んでいたため、そこで通行税などがかけられていた。したがって、どうしても高価にならざるを得なかった。この頃には、金とコショウは等価であったとも言われている。

そんなヨーロッパの人々にとって一つの朗報がもたらされる。

マルコ・ポーロの『東方見聞録』(1299年)である。

この中には、モルッカ諸島などのスパイス生産地についての情報が記されているが、これはヨーロッパ人が始めて接した生産地の「生」の情報であった。

中間の輸送を独占していたアラブ人は秘密主義を貫いていたため、ヨーロッパの人々はスパイスの木がどこにどんな形で生えているかも知らなかったのである。
『東方見聞録』は様々な言語に翻訳されヨーロッパ全土に広まります。そして15世紀末からの大航海時代をもたらすことになります。

大航海時代へ

イタリアのジェノバに生まれたクリストファー・ コロンブスは地球を西回りに進めば、アジアやインドに到達できると考え、スペインの援助を取り付けて1492年に第一回目の航海に出発し、アメリカ大陸へ到達した。

そして翌年には2回目の航海を行った。この一連の航海がトウガラシを世界に広めるきっかけになったことはすでに述べたとおりである。

この2回目の航海で、カリブ海のリーワード諸島のマリーガーラント島に上陸し、クローブ(丁子)によく似た木を発見している。もしかしたら、それはオールスパイスの木であったかもしれないが、オールスパイスの実がなるのは夏で、コロンブス一行が到着したのは残念ながら11月であった。

コロンブスは 1504 年までの間に4 回の航海を行ったが、南北アメリカ大陸を回避する航路を発見することができず、ついにアジアへ到達することはできなっかた。しかし、「新大陸発見」はヨーロッパの人々の新航路発見への冒険心に火をつけた。

ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが 1486年にアフリカ大陸最南端の喜望峰へ達したのを受けて、1498年バスコ・ダ・ ガマがついにインド西海岸のカリカットに到達した。

これによって、アラブ人やペルシャ人に「中間搾取」されることなくスパイスを手に入れることができるようになった。
この航路は後に「スパイス・ロード」と呼ばれるようになった。この航路の確立が中東世界の衰退のきっかけとなる。

そして、このバスコ・ダ・ガマのインド航路の発見がきっかけになり、ポルトガルはインド沿岸の支配権を獲得する。
この時に活躍はしたものの故国で評価が得られなかったマゼランは、1519年にスペイン王室の支援を取り付けて世界一周に挑むこととなる。
1520年10月には南米最南端のマゼラン海峡を発見、太平洋を横断して1521年3月にグァム島へ到達する。
マゼラン自身はフィリピンのセブ島で戦死しするが、船団は香料諸島とも呼ばれた念願のモルッカ諸島に到達。1522年9月、ついに世界一周を果たした船団がスペインにたどり着いたとき、残っていたのは「ヴィクトリア号」の乗員18名だけであった。
しかし、それでも彼らが持ち帰ったスパイスはスペインに莫大な利益をもたらしました。またこの航海によって地球が球体であることが立証された。

スパイス戦争

多くの船乗りたちの犠牲の上に、東回り西回りともにインド・アジアへの航路が開拓され、ヨーロッパでは香辛料の入手が比較的容易になった。

これによって今まで薬用だったスパイスが肉の貯蔵用として一般大衆までもが利用できるようになった。

時を同じくして、奴隷を用いた植民地での砂糖や果物の栽培が始まり、食は生命維持のためだけではなく楽しみという意味を持ち始め、人々はよりおいしいものを求めるようになった。味や香りを逸れてくれるスパイスの需要は益々高まった。

カルダモン、ジンジャー、シナモンなど香気成分に富むいくつかのスパイスは各地で栽培されるようになったが、コショウ、クローブ、ナツメグは熱帯地方でしか栽培することができないものである。
入手が容易になり需要も高まったことによって、ヨーロッパ各国はその争奪戦を繰り広げることになる。東南アジアにおける「スパイス戦争」と呼ばれる争いの始まりである。

この争いでリードしていたのはポルトガルとスペインであった。
両国は1494年には教皇の仲介で「トルデシリャス条約」を締結し、西経46度37分(教皇子午線)を境に東側はポルトガル、西側はスペインが新発見の土地を領有した。マゼランの世界一周の後の1529年にはサラゴサ条約によって東経144度30分に第二の境界線を引き、完全に世界を二分した。

後れを取ったイギリスは北航路の開拓も試みるものの失敗、16世紀後半には海賊行為を行ってスペイン、ポルトガル両国の領域を侵食し、1600年に東インド会社を設立し、モルッカを拠点にアジアへの進出を本格化する。

その後、スペインから独立したオランダも1602年に東インド会社を設立、モルッカ諸島に進出。ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点に、アジアとのスパイス貿易を握る。その後、西インド会社も設立し、17世紀半ばまでには、極東のスパイス貿易を独占するに至った。

スパイスの原産地を巡る争いは熾烈を極た。ポルトガル、スペイン、オランダが相次いで日本にやってきたのは正にその競争の最中であった。

この熾烈を極めたスパイス戦争も、やがていくつかの要因によって自然消滅することになる。

一つにはコショウに変わるスパイスとしてトウガラシが登場したことである。
もう一つは、技術の進歩である。蒸気船の登場により大量輸送が可能になるとコショウの価格は下落し、コショウに対する貴族たちの熱も冷めていったのである。
そしてもう一つが栽培地の拡大である。1770年にはフランスが苗木を密かに持ち出してインド洋上の植民地の島々へ移殖したのを皮切りに、南米や西インド諸島などでも栽培を始めた。イギリスやアラブ人たちも東南アジアやアフリカに盗木移植を進めた。
1797年にはアメリカもスマトラ島でコショウを発見する。
その結果、19世紀中頃には植民地でのスパイス生産の方が原産地を上回るようになる。このあたりの事情はトウガラシもほぼ同様である。

そうすると、スパイス原産地を領土化する意味がなくなり、スパイス戦争は自然消滅したのである。

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