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ベトナム紀行文

今から10年前、ベトナムに行った直後に書いたのが、以下の文。それまで、国内旅行ばかりで、40歳を前に足をのばしたこの地があまりにも刺激的で、帰国直後、一気に書き上げたのでした。

乱筆も目立ちますが、自分の人生の岐路となった出来事を、備忘録的に再掲させていただきます。

(2013年4月20日 Facebookより転載)
ベトナム、ホーチミンで過ごし、思ったことをまとめました。思いが募り、くどい文章になってしまいましたが、現地の写真もあるのでぜひお読みください。

観光客である私たちから少しでもお金をとろうと、執拗に勧誘したり値段をつりあげたり、噂どおりホーチミンはそういう人ばかりの街でした。私は当初彼らを、冷ややかな目で見ていたのですが、現地で1週間近く過ごすなかで、そういう仕組みで世の中が形成されているベトナムという国に、清々しいたくましさを感じるようになりました。そして欧米的な自分たちの慣例を当てはめ考えていた自分が、とてもつまらない人間に思えてきました。

バイクタクシーは、下車時に市価より随分高い値段を要求したり、知人の店に連れて行き高額商品を買わせたり、言葉巧みにとくに日本人を狙っています。街のひとり歩きでは、彼らを相手にしていると先に進めないぐらい、大勢のバイクタクシーのしつこい勧誘にあいます。基本的に現地人はバイク持ちですから、相手は自ずと観光客です。彼らの画一的で強引な手法は、すでにガイドブックなどを介して観光客に知れ渡っており、きっと近頃はそれほど効率よく稼げていないはずです。それでも彼らがこの仕事を続けるのは、観光客とのコミュニケーションをたのしみながら、余計な背徳感など感じることなく仕事をしているからでしょう。

バイクタクシーに限らず、市場の屋台のおばちゃんも、私たちには現地人の倍の値段を笑顔でふっかけてきます。観光客に現地人より高い値段を請求することは、定価という概念が薄いベトナムのルールでは、とくに蔑まれることではありません。彼らにとっては「貰えるだけ貰う」という当たり前の行為なのです。私たち観光客は、自分たちの倫理観を持ちだして、いつも騙されたという思いをするわけですが、考えてみれば随分勝手な理屈です。観光といういわば現地の生活に土足で乗り込む行為をするわけですから、ルールは現地人が決めるべきです。そういう理屈がわかるまで、私にはしばらくの時間が必要でした。

観光地だからということもあるでしょうが、ホーチミンには驚くほどの数の商人がいました。商売といっても物を売るだけでなく、バイクタクシーのように労働力を客に提供する人もたくさんいて、ありとあらゆるところで商いが行われています。なかには「体重計を用意して測るだけの人」や「50mほどの小道専用の自転車タクシー」など、本当にそれで生計が賄われているのか尋ねてみたくなるような人もいたのですが(そういう意味ではホーチミン名物の各地の市場では、まったく同じ商品を売る店が無数にならんでおり、どうしてあれで商売が成り立つのか不思議でした)、私たちのように就職や起業といった、他人を巻き込んだ長いスパンでのお金の稼ぎかたしか念頭にない者からすると、その即物的で奇抜なアイデアに脱帽してしまうような場面が多くありました。

どの商売の人も、生活のため切実な真剣さがあるため、観光客である自分がその「獲物」であることに気づくと、恐怖心を抱かずにはいられないという場面も多いのですが、彼らのそういう自分たちの仕事を精一杯、そして笑顔で行う姿を、時間が経つにつれてとても羨ましく思うようになりました。ひとりひとりの人間に直接対面し、お金を稼ぐことを常に実感しながら生活する姿は、私にはとても魅力的に映りました。

とくに、ベトナム人の効率をあまり考えずにひたむきに働く姿には、いつも驚かされました。余計な野心を抱かず、目の前のことをコツコツ、そして精一杯。先々の心配ばかりし、何をつくり、何でお金を稼いでいるか、自分の立ち位置が見えなくなる瞬間がたびたび訪れる今の生活と比較し、そういう「心ここにあらず」の生活することの精神的な危さを改めて感じました。

ベトナム人のひたむきな姿勢は、「現地の食べ物がどれを食べても美味しい」という理由にも少なからず影響をあたえている気がします。娯楽文化が日本ほどあふれていなく、私たちからすれば単調に見えるベトナム人の生活ですが、仕事、遊び、食事など、生活の根幹を支えるそれぞれの営みを、すごくたいせつにしている気がします。ベトナムでは、少し前から「ガオ」という脚でやるバトミントンのような遊びが公園で流行っているのですが、夜中1時を過ぎてまで遊ぶ姿を毎日見ました。ほか、街中いたるところでひたすら将棋を指す人や、夕方いつも同じ場所同じメンバーで路上宴会を開く人びとの姿を見かけました。そういう、同じことをたんたんとこなすことができる国民性は、自ずと食に対する高めたのではないでしょうか(唯一まずかったのが、コンビニで売っていた極度に甘い「ウォーターメロンティー」)。

昨日は朝に帰国して、一日ゆっくりとテレビを見て過ごしていたのですが、CMの内容やその数の多さにあらためて驚かされました。チャンネルを変えさせないための行き過ぎた演出、明らかな誇大広告など、日本のCMはその手法が巧妙化しています。昨日一日、その現実を改めて直面したわけですが、考えてみれば手法は異なれども、人の隙をうかがってお金をくすねとろうとしていう姿勢は、日本人だって同じなわけです。それがベトナム人のように1対1で観光客を相手に商売するか、対面しない不特定多数を相手に商売をするかの違いです。先述のように、ベトナムの人の切実な思いで商品を勧める姿勢には、ときに恐怖心を覚えさせることもあるのですが、よくよく考えてみると、じつはCMを介して家庭で常に商売の対象として晒されている今の日本のほうが、手法が陰惨で、よっぽど恐ろしいことのように思えてきます。それに比べると、ホーチミンの人びとの搾取方法は単純明快でとても明るい‼

戦争から30数年しか経っていないベトナムでは、今なお街のいたるところでその被害を被った方を見かけます。また美術などの文化を見るなかでも(私が訪れた市内の美術館の作品を見る限りですが)、戦争の影響が色濃く表れています。観光地として発展を遂げるホーチミンの人びとは、そういうなか欧米やその文化の影響下にある人間を相手に生活しているわけですが、そこには戦争を経てこその「負」の感情が表れることも、稀にはあるのではないかと思います。それでも、屈託ない笑顔で、私たちを招きいれてくれる彼らの寛容さは、本当に敬意を払いたくなりますし、そういう背景を経て今のベトナムの力強さがあることを、私たちは少し頭の隅に置くべきなのではないかと思いました。

常夏のベトナムの人びとは、そこに育つ黄緑色の植物のように、力強く、そして美しく生きているように私には見えました。仕事にプライベートに、40を前に人生の岐路を迎えた今、その地を訪れたことは、とても大きな意義があったと思います。何が幸せで、何を目指して生きるべきなのか、そういう自分の立ち位置を測るという意味で、ベトナムの人たちの、ひたむきさや明るさが刺激的でした。

ありがとうベトナム‼ 人生に迷うとき、またその土地を踏みしめるでしょう。

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