ぎだい:「こころはどこにある? 頭?心ぞう?」

悩んでいることがひとつある。

私は何かと考えるのが好きだ。考え込むことが好きだし、結論が出ようが出まいがぐるぐる思考を巡らせていると楽しい。

そこに、誰かを巻き込んで議論するのも楽しい。相手と意見が一致していても、違っていても、流れるように思いついたことを共有する時間が好きだったりする。究極、その議題やテーマに対しての結論はいらなくて、シンプルに言葉を交わすラリーのような状態が心地よい。

ちょっと自己中心的かもしれないけれど、議論とジャッジメントはまったく別のプロセスだと思っている。何かを決めるとき、そのほとんどが既に適切な選択が実はあるから、むしろ議論はいらない。その最適解についてのリスクや効率的なストラテジーさえ共有できればいい。答えの見えている課題に対して、議論するのは、ちょっと無駄でさえある感じがする。

だから、私が議論をする目的で準備した話題やテーマについて会話するとき、その趣旨とは別種の規定だったりジャッジがなされると、しんどい時がある。たとえば、「考えすぎだよ」と言われることだ。

私が何かを人と話したいとき、実は私は悩んでいない。でも、「悩み」と捉えられることが少なくなかったりする。本当に迷っているときに、ヒントをもらえるのは心底ありがたいのだけれど、議論の最中に「ああ君は考えすぎな人間だね」とか「そう悩むなって」と言われたとき、私の脳内でピリオド終了のホーンが鳴り響いて、あっけなくその灯火は消えてしまう。

なので、私が議論をふっかける時は、私のそのヘンテコでわがままなファイトスタイルについて、相手から理解を得ている状態じゃないと安心できない。この前、私が考えていることを、しくじって他人に話してしまったことがある。そこで「なんでそんなに自己肯定感低いの?」といわれたときに、心から反省した。その後、「君は色気がないからダメなんだ」と笑ってしまいそうなほどこき下ろされ、それはそれで「色気とは何か」と言う議題が新たに頭の中に浮かび上がってきて興味深かった。でも、その人が発した空気感に寄り添えば、まったくそんな議論を楽しむためのフックでもなさそうだったので、苦し紛れにいろいろ自己開示してみたけれど、どんどん自分の話したいことや言葉から遠ざかっていくような感触に襲われた。私の発した言葉が、すべて何かしらへと判定されていき、「ああでもない」「こうでもない」と相手の球筋に合わせていくなかで、シンプルに退屈してしまった。

でも、相手は、まったく悪くない。身勝手な逡巡を垂れ流して見せてしまった私が完全に悪い。10分後には真逆のことを言っていたり明確な結論がなくても、会話のなかで生まれるパンチラインや、その先のどこかでまた別の誰かと話したりするためのネタが見つかりさえすればそれだけでいい、というのが私の目的な訳だから、そんなことをしたくない相手に議論を強要することが一番のミスだった。

ところで、色気について考えてみよう。前回の失敗した議論のなかで、相手の言う色気とは何なのか、私は実はまだ正確には理解しきれていない。そもそも、色気についてあんまり考えてみたことがなかった。ちょっと考えてみたけれど、私にとって色気は、見た目やダイレクトな性的魅力とは直結していなさそうだ。もちろん、みてくれとか風貌とか醸し出す雰囲気みたいな意味でのビジョナリーな特徴はいくつかありそうだけれど、パーツや種類に分別したり、点数的に見つけ出すことはできない。

どちらかというと、所作だったり言葉の端々が、その人のものになっているかどうかが色気を醸し出すひとつの鍵なんじゃないかな、と思っている。冗談とか、相槌とか、そういう「会話の緩み」の部分にこそ色気は宿るんじゃないかな、とか。これはまた知性や教養とも少し違っていて、まだまだ言語化できない。これはとても面白い議題を得た。

それと、コケティッシュだったりセクシーだったり、そういうファッショナブルな意味合いでの色気は、本当にまったくないと思うから、あながち相手の見解は間違っていない。それに、会話の隙間にあるなんとも言えない色気だったら私は持っているのか、といわれればそれもまったく未熟だと思うので、結局色気がないことには間違いないのかもしれない。恐れ入りました。

ないものねだりもそこそこに、「考え事」と「悩み」を同一視されがちなのは、少し厄介な問題だ。心から心配してくれる人からのアドバイスや心のこもった警告は、ハッとするので耳に残っている。でも、相手目線でのジャッジからもたらされる「私についての規定」は、そこはかとなく退屈さを含んでいて、議論をふっかけてしまったことを申し訳なく感じてしまう。あなたの時間を奪ってしまってごめんなさい。と打ち切りたくなるし、実際に止めてしまうこともある。そして、私のそのリアクションはさらに相手から見れば「自信のない人が私の話なんか…と打ちひしがれている」ように映ることもあるようだ。さらに退屈のインフレーションが起こっていく。そこで価値が加速度的に極限まで下がってしまうのは、時間だったりするのかしら。

私は、意外とシンプルなのかもしれない。判断や直感がシンプルだから、変に考え込むことが楽しいのかもしれない。ジャッジのない議論は楽しい。楽しいからふっかけてしまう。なんて荒くれた当たり屋みたいなんだろうか。

ひとつ思い出したことがある。小学生の高学年の頃、担任が「こころは体のどこにあるか」というテーマを挙げたときに、頭か心臓部分かを選んで議論をした授業があった。こころ、という言葉から連想されるように、クラスメイトの多くは心臓の部分を指差していたけれど、私は頑なに頭だと思っていた。たしか、その後みんなで「どうしてそう思うのか」についても話し合った気がするけれど、私の意見は「頭」のまま変わることがなかったし、今聞かれても、どう考えても頭だとしか思えない。

緊張したり恋したりして、心臓がドキドキする感覚もわかるけど、頭で考えている副作用的なものなんじゃないの?というのが当時からの私の意見だった。胸に手を当てて考える、という言葉だって、胸に手を当てながら、頭で考えているじゃないか!みたいな。私、頑固なんだろうか。でも、頑固に直結する熟語だって「頭」じゃないか。

そうやって今日も深い時間までまったく意味も価値も答えもないことを考えて、明日の朝や仕事のことなんか何にも考えないで生きている。多分これからもそうやって何にも考えずに考えながら生きていくんだろうな、と思う。