まゆげのコアラとストリートファイト

ほしいものリストに追加されるアイテムはどんどん増えていくのに、目先の誘惑に負けて小銭を溶かしてしまいがちだ。本当は、加湿できる空気清浄機とか、でかい蓋付の筒形ゴミ箱とか、小綺麗な革の財布とか、いつかお金が貯まったら買おうと思っているのに。

でも、気づいたら、インスタでふらっと見かけた絶対履かないボックススカートとか、他人の目の触れるところでは身につけづらいファングッズとか、そういう、ちまちました小物で浪費してしまっている。冷蔵庫にはじゅうぶん食材があるのに、4時間に一度コンビニに行ったり、Uber Eatsしちゃうとかも、とてもよくないとは思っている。

さっき50円で売っている小袋のベビースターラーメンを買って、もそもそ食べていたら、1本とても長いやつが入っていた。これ!と誰かに見せたくなったのに、私は一人暮らしだったので、とても残念だった。

ベビースターとか、マックのフライドポテトとか、中身に一本ものすごく長いやつがあると人に見せたくなるのはなんでだろう。量的に得したような気分になるから?と仮説を持ったけど、実際のところ、例えば腹ぺこの状態で"ご飯の大盛り無料"定食に巡り合った時の心境とはちょっと違う気分だ。

無料オプションで好きなだけよそった山盛りの白飯を、すぐさま人に見せたいとは思わない。

どちらかというと、これらは作為的ではあるけれど、星形のピュレグミとかピノとか、そっちの感覚に似ている。あと、コアラのマーチに入っているまゆげのコアラとか。特別なやつきた!みたいな感じ。ガリガリ君とかの当たり棒にも似ている。なんというか、他とは違うことの優位性? 差異に対する、ちょっぴりお子様感覚な優越感というか。

ちなみに親友と遊んでいた時(私はアラサーですが)、コアラのマーチに入っているまゆげのコアラのことを親友が知らなかったので、私がその価値について強く語りながらつまんだコアラが、まゆげ生やしだった時の衝撃は忘れられない。

よくよく調べてみると、まゆげのコアラが入っていること自体はそんなにラッキーな割合でもないらしいけど、でも、当該のコアラ氏のことをまさに話しながらつまんだ1/n個に、まゆげが生えていたのはとても運命的な展開だった。

ところで、日本のヒップホップの限界を感じたポップスターが、お茶の間の前で涙を流していたという。どうしても見られなくて、そう何か言うならまず見てから言え、っていわれそうだ。だけど、そのポップスターが、英訳すると「スラット」くらいグロいタイトルの曲のMVを出していることを私は知っている。

私は初めてそのMVを見せられたときに、ああこういう感じなんだと思っていた。なので、今回の件を知って正直ちょっと面食らってしまった。

日本っていうコンテクストには、どこまでの人間が該当し、どれくらいの人間がとりこぼされるんだろう。私はそのポップスターの曲もたまに聞くし、きっと伝えたかったこともなんとなく認識できるような気はするのだけれども、そんな逡巡よりもMoment Joonや鎮座DOPENESS達が出てたRed BullのRASENをリピートする方が、なんとなく自分にとっては心地よい感じがする。

プロレスとストリートファイトの違いは、格闘技に疎い私でも、なんとなく分かる。シナリオやキャラクターを暗黙の了解とした、広告と観客を必要とするショーの世界でも、人は当たり前に傷つくし怒りを感じることだってある。またその一方で、自分や周囲の大切な人々の命を守るために切実に闘う時は、その体裁に有無をいわせようがない。さもないと殺されてしまう状況だとしたら、それは必死の抵抗だ。

話は戻るけど、ベビースターとかマックのポテトの中身が全部長かったら、それはもう全然誰かに見せたくなるもんではないような気がする。私にとっては、長いやつが嬉しいのか、他のものが短いからこそ嬉しい、つまり短いやつがいいのか、どっちなんだろう。

日常には、私たちを取り巻く現象がたくさんある。それは電車を巡って起こるテロルだったり、いつまでも終わらない青春の代償としての奨学金返済だったり、年々増えてく大きな水害だったり、一向にうだつの上がらない投票率だったり。

面前の恐怖を真面目にリストアップしていきつつも、結局、目の前の日常にとらわれながら私は生きている。仕事しんどい、とか、頭痛なんで治んないの、とか、自信なんて一生持てない気がする、とか、まじでお金たまんないねえ、とか。

何も考えずに楽しく生きるためには、考えなくちゃいけないことがいくらなんでも多すぎるような気がするけど、50円のベビースターラーメンに入っていたちょっとだけ長いやつでそれなりに楽しめているので、もうちょっといけるかな、とも思う。