シリアル・キラーと深夜のスーパーマーケット

しっ、静かに。僕は今、追われてるんだ。

君の名前を聞く暇もなく、今すぐ僕はここから離れなくちゃいけない。

なんで追われてるのかって顔をしているね? そう、それは…

おっと、いけない。香ばしい匂いがしてきた。君も感じる? この焦げたカラメルみたいな匂いは、奴らがすぐ近くにいる証拠だ。すぐ行かないと、見つかってしまう。もうさよならだ。君だって、面倒なことに巻き込まれたくないだろ?

…何? 一晩かくまう、だって? そんな、君を危険な目に遭わせるわけにはいかないよ。そんな目をしたって駄目だよ。これは遊びじゃないんだから…。

ーージリリリリリリッ、ジリリリリリリッ。

しまった。奴ら、すぐそばにいる。もう包囲されてるかもしれない。仕方ない。一晩だけ助けてくれ。だけど、もしも奴らに見つかったら、僕と一緒に地獄に落ちる覚悟はできているかい? 

***

ナンシーは、この街でもちょっとした有名人らしい。なぜなら彼女がこの街一番のギャングファミリーの愛息子と付き合っていたからだ。僕がディナーで地下パブに行っても、偵察のためにクラブに行っても、客の若者達からはいつもギャングの息子とナンシーの噂が話題に上がってくるほどだった。あの大男にぴったりとくっついて離れないナンシーは、小馬鹿にしたような笑い方で人を嘲る厄介者らしく、周囲の奴らに相当のやっかみを買っているようだった。

それにナンシーは、いつもきらびやかなドレスを身にまとい、真っ赤なリップで血のように赤いドリンクを飲んでいるらしい。ワイン、レッドアイ、クランベリージュース…そんな彼女のあだ名は、「ヴァンパイア・ナンシー」だ。彼女自身もその通り名がまんざらでもないらしく、「血を吸われたくなかったら金を出しな!」といった勢いで自由気ままに振る舞い、その度に皆を困らせている。

もしも今、僕の目の前でホワイトブロンドの髪をボサボサにして、マスカラとアイシャドウがドロドロに溶けて滲んだ目元をこすりながら、延々と言葉にならない罵詈雑言を弱々しく並べ立てている酔っ払いが、噂のヴァンパイア女なのだとしたら、ちょっと拍子抜けだ。右肩からはだけた上品なシルバーのキャミソールワンピースを着て、嘘みたいにとんがった鋭利なハイヒールを脱いだ裸足のまま、ずっと「あの女が!」とか「本当にこの世界は終わりだわ」とかいいながら、切子細工のウィスキーグラスにクランベリージュースを注いでいる。

「あの…助けてくれてありがとう。おかげで今夜はなんとかなりそうだよ」

「酷すぎるわ。私がいちばんなのに。私だけがいちばんなのに!」

「あの、大丈夫?」

「私は捨てられたのよ。いや、裏切られた。あいつは私との大切なルールを破ったの。そんなの私の方から願い下げに決まってる。だから、捨てられたなんて、そんなことないわ!」

「……」

「私はぜったい、許さない。これは、あいつを殺した復讐の血よ。これを飲んだら、私の勝ちよ。私は無敵なんだからね」

ナンシーはそう言うと、クランベリージュースをなみなみと注いだウィスキーグラスをソファに座っていた僕に渡した。受け取ったグラスは、彼女の指紋の脂でべとべとになっている。そして彼女はもう片方の手で持っていたグラスを傾け、ごくごくと飲み干していく。体内で分解したアルコールのせいか、嘘みたいに真っ青な肌をした彼女の首元が上下に動くのがちょっとグロテスクだ。

「ありがとう」

僕はそういうと、クランベリージュースを少しすすった。酸っぱくて生ぬるくて、常温でキッチンのカウンターに置きっぱなしだったことがわかる。

「君はナンシーだね?」

僕がそう聞くと、ナンシーはへの字口で音のないゲップをしてから「そうよ」といった。

「君の話、街のみんなから聞いたよ。人気者なんだね」

僕がそういうと、彼女はメイクがぐちゃぐちゃのままの顔でこちらを向き、さっきのへの字口のまま僕を睨む。目の焦点がちょっと合っていない。

「何が人気者よ。あいつらみんな、私じゃなくて男の方ばっか見てたのよ。別れた瞬間、目もくれない。クラブ・カーニバルのバーテンも、たった1杯ぽっきりのクランベリージュースに金を取るようになったのよ!」

僕はナンシーの顔を見る。人工的に生やした豊かなアイラッシュ以外、メイクはほとんど崩れているのに、彼女の唇だけはくっきりと血色がよく瑞々しかった。口の端から少しだけクランベリージュースが垂れている。全然血液のようではなかったけど、まるで血が混じった涙みたいに見えた。

「お金を払って飲むクランベリージュースの味はどうだった?」

「今のあんたは、どうなのよ。それ美味しい?」

「美味しいけど、ちょっとぬるいかな。あと、夜じゃなくて朝食に飲みたいなと思うよ」

「私、これまでクランベリジュースが美味しいかどうかなんて、気にしたことがなかったわ」

「好きで飲んでるんじゃなかったの?」

「もちろん好きよ」

「オレンジジュースよりも?」

「…私、オレンジジュースなんて最後にいつ飲んだか覚えてもいないわ」

ナンシーはさっきよりちょっと冷静になったみたいだった。すると彼女は自分の髪を少し撫でて落ち着かせながら、冷蔵庫に向かっていき、とつぜん大きな声で叫んだ。

「アイスクリームが、ないわ!」

ソファーから僕が振り向くと、彼女が信じられないくらい目をまん丸に開いてこっちを見ている。思わず僕は吹き出してしまった。彼女は間髪入れずに話しだす。

「このままじゃダメ。私は今からバニラアイスクリームのお得用パックをお腹がはち切れるまで、好きなだけ食べ続けないと、じゃないと、私、あいつを殺しに行っちゃう! もしくは、今殺せる1番近くの人を、ぶっ殺しちゃうかも」

僕はとっさに、彼女が履いていたハイヒールを思い出した。太い注射針のように、先が鋭くとんがっている痛そうなやつだ。地面に突き刺さるんじゃないかってほど。歩くたびにキィン、キィン、と金属音を鳴らす武器みたいなあのヒールで刺されたら、本当に命はないかもしれない。ヴァンパイア・ヴィランな彼女を落ち着かせるために、そして自分自身の命を救うために、僕は今すぐ2リットルサイズのお得用バニラアイスクリームをスーパーマーケットで調達しなければならない。

「追っ手はもうどこかへ行っただろうし、スーパーに行ってくるよ」

僕がそういうと、彼女は「何よ」と素っ気なく返事した。

「私はアイスクリームも自分で買えないほどダメな女だっていいたいの?バカね。あんたなんてスプーン1本で殺しちゃうよ」

そういうと、彼女はそこらへんにあったタオルで顔を拭い、眼鏡をかける。床に落ちていたスキニージーンズを履いて髪をひとつに束ね、灰色のジップアップのパーカーを羽織って、さっきまで僕がビビっていたニードル・ヒールには目もくれず、メッシュのスニーカーを履いてこっちを見た。

「いくわよ」

そういうと、彼女は家の外に出て階段を降り、ツカツカと歩き出した。さっきまでの彼女とは思えないくらい、しっかりとした足取りだ。ポケットに手を突っ込んだまま、静かに朝を待つ真っ暗な街をスタスタ歩いていく彼女に僕は情けなく急ぎ足でついていく。角を曲がり、通りを抜け、5分ほど進むと24時間営業のスーパーマーケットにたどり着いた。だが、彼女はスーパーマーケットの正面をそれて、裏に回っていく。「ここで待ってて」と、僕は裏口の目の前に立たされた。建物の内側から会話が聞こえてくる。

「やあ、ナンシー。あれ、今日はシフトじゃなかったよね」

「ええ、ちょっと忘れ物をしちゃってて」

「おお、そうかい。こんな時間に来なくても!油断してると、悪い連中に襲われるぞ?」

「大丈夫。平気よ。いつもシフト入ってるんだから、結局毎度のことでしょ?」

「君は本当に大した子だよ。同じナンシーでも、こんな違うもんかねえ。この街には、人の心なんか読めない悪魔みたいな女もいるんだからな。やつも女だからって、気を抜くなよ。あいつのバックには……」

「はいはい。ありがとうね」

ドアを開閉する音が中から聞こえ、ナンシーは外に出てきた。紙袋を両手に抱えている。僕はそれを無言で受け取り、またナンシーについていく。今度はスーパーマーケットの正面入口に向かい、彼女はカゴとカートを一式セットして押して店内を歩き始める。

スーパーでしか聞くことができないチープで軽やかなBGMとともに、蛍光灯に照らされたクリーンな店内ディスプレイ。フレッシュなイチゴやブロッコリー、バナナ。野菜やフルーツのコーナーをぬけて、チーズやクリーム、バターが並ぶエリアへ。ナンシーはそこも何も言わずに通り過ぎる。その先のミルクやジュースのコーナー横にある、大きな冷凍庫の棚から、大きなパックのバニラアイスクリームを一箱取り出し、カートにいれる。そのまま冷凍庫のドアを閉め、それ以外何も買わずにレジを目指した。

家に戻ると、「その袋てきとーに置いておいて」と言われたので、キッチンに入って紙袋の中身を取り出した。クランベリージュースのパック2つに、よく熟れたトマトが3つ、全粒粉の硬そうなパン、そしてクランチタイプのドライフルーツ入りシリアルが1箱。トマトを冷蔵庫にしまう頃には、彼女はソファに座って膝にたたんだバスタオルを敷き、2リットルのバニラアイスを抱えてスプーンを突き刺しては頬張っていた。会話はない。彼女がおもむろにテレビをつける。メタリックな掃除機を仰々しく宣伝するセースルマンの甲高い声が耳を刺した。

「スーパーで働いているんだね」

「……」

「どうして有名なことを隠しているの?」

「…ときどき、ソレが邪魔になることだってあるのよ」

「本当の君はどっちなの?」

僕が尋ねると、彼女は黙った。アイスクリームを2、3杯スプーンですくって口に入れる。テレビでは、まあスゴイ!なんて革新的なの!と、モニター役のおばさんが歓声を上げる。

「どれも本当の私よ。かっこいい男の子を好きになるのも、大学で数学を勉強してる時も、クラブで死ぬほど飲んで馬鹿騒ぎするのも、スーパーでヨーグルトを品出ししてる私も、ぜんぶ私。どれも偽物じゃないし、どれも嘘じゃないのよ。あと、隠してるわけでもない」

「彼は、君をどう見ていたの?」

「彼は……その時の私だけを見ていてくれた。それ以上を求めたりしなかった。私も気楽だったし、安心していた……」

ナンシーはアイスクリームを食べるスプーンの手を止めて、パックごと僕によこしてきた。アイスクリームは溶けて少しゆるくなっていたけど、全然減っていなかった。僕はスプーンでアイスクリームの球体を作り、クランベリージュースが半分くらい残っていた彼女のグラスに落としてやった。彼女は少し驚き、グラスを持ってしばらくSサイズのお手製クランベリーフロートを眺め、アイスクリームのてっぺんをちょっとなめた。元々溶けかけていたアイスクリームはクランベリージュースに溶け込み、ぶくぶくと泡を立てて乳化し、液体をぼそぼそしたピンク色に染めている。

「これはヤツの生き血と脂肪ね」

ナンシーはそう呟いてグラスに口をつけた。上唇が少し、アイスクリームでミルク色に汚れる。彼女はこちらを見たまま口角を少し上げて、満足そうな顔をした。まるでフランス映画のヒロインみたいだ。

「さて、行かなくちゃ」

僕はそう呟き、コートを肩にかける。ナンシーはソファに腰かけたまま左手をあげてひらひらとはためかせた。