チェックアウトにうってつけの日
人間って意外ときちんとカレンダーや時計に管理されているのかもしれない。
去年を振り返ってみようとしたけれど、あんまり振り返らなくていいかなと思った。今日は起きて、昨日から予定していたスケジュール帳を買いに出かけた。毎年新年一発目にやっている、大好きなスゴロク企画のラジオを聴きながら駅前の本屋へと向かう。それらしいやつを選び、帰りがけにローソンで赤玉パンチとソーダと、ずっと探していたマサラチャイのピノみたいなアイスクリームを買って家に戻る。
スケジュール帳でカレンダーを眺めていると、だんだん気持ちがしゃきっとしてきた。ひめくりのように生活していた年末あたりの時期から、なんとなくリセットできそうな予感がしている。
その後、サリンジャーの伝記映画をみた。元旦に帰省した時、『ナインストーリーズ』をお供にしていたのだけれど、ふと調べてみたらサリンジャーの誕生日が元旦だったので驚いた。映画はすごくよかった。ライ麦〜は、例えば「こじらせ小説ウゲッ」みたいなパブリックイメージがちょっと強いような気がする。でもきっとその実、1984みたいに、読まずに固定されたイメージだけを持っている、みたいな感じが大抵なんだと思う。『バナナフィッシュにうってつけの日』を書き上げるシーンは、本当に鳥肌が立った。
特に「作家の声が物語を上回ったら、それはエゴになる」という言葉が鋭かった。他にもいろいろ、面白いヒントが隠れていた。サリンジャーの絶頂も後世もアンビバレントで、人間関係も安定していなくて、おそらく本人はこうやって本人について描かれることを最も嫌がるだろうな(日本語訳ですら解説や著者紹介まで掲載しないようにと本人からディレクションがあったというから、自身の半生を整理整頓・再構成した映画なんておそらく絶対に許さないだろう)、というところまで見えてきた。そういう部分において、いやらしい感じを映画に見受けながら、この、サリンジャーへの二律背反なリスペクトがややこしくこじれているのが、おもしろかった。
なぜ今さら年末年始の出来事を振り返ってみたかというと、去年一度だけお世話になったある方が、さっき、2021年を振り返る投稿をSNSでしているのを見かけたからだった。下半期あたりは本当に大変忙しくしていた方で、私以上に色々な人と関わりながら仕事をしているはずのその人が、たった10枚の写真の中に、私との仕事の様子をおさめてくれていた。本当に、心から、じーんときてしまった。
ここ数ヶ月、灰みたいになっていた仕事への気持ちに、水を与えてくれる感じがした。ああ、忘れずにいてくれたんだなあと。あんなに忙しくて、あんなに忙しいのに私が無理をいってギャラもほとんど度外視で受けてもらった仕事で、企画が通ったことが嬉しくて記念にマーチのTシャツを買ったりお礼の手紙を書いたり、手持ちの何十企画かのなかでも明らかに贔屓目にしてしまっていたのは引目だったけれど、でも心意気がマジだったのに、当日今までで一番しくじって、機材を交換したり何度もストップさせてしまったりして、本当に最低な仕事をしてしまったのに、毎日休みなく動いているその人の記憶のうちの10枚に入れてもらえたことは、純粋に、とても、嬉しかった。
私はこういう瞬間を精算と呼んでいる。精算は、自分の期さないタイミングでこうやってやってくる。これまでも、精算の瞬間に、私は少しずつ生き延びてきた。そういう瞬間に数回巡り合えているというだけでも、私は幸福だと思う。稼ぎより買物より評価より、こういう瞬間のために仕事をしていたい。
彼女のおかげで、今年も頑張れそうだ。正直、これからも私頑張れるのか、少し不安な気持ちを抱えたまま年を跨いでいた。どんなに変化を加えても、どんなに向き合っても、そして逆にどんなに向き合わず思考をやめてしまったとしても、これからも仕事をして生きていくことへの自信を、ほんの少しだけ失いかけていた。でも、大丈夫そうだ。なんとかなりそうだ。ひょっとすると、私はちゃんと、ちゃんと自分なりの仕事をしていたのかもしれない、って少しだけ思えた。
そしてまた人に救われてしまった。私はいつも助けてもらってばかりだ。ありがとうございますリストの名前がどんどん増えていく。そして、これは多分相当ラッキーでハッピーなことだ。今、私の気持ちの全部をかき集めても、スタジオコーストにへばりついたままのチューイングガムとか、シケモクとか、ポケットの底でくしゃくしゃになったティッシュペーパーみたいにチープな感じかもしれないけれど(ちょっとやりすぎなほどの描写)、いつかもうちょっとマシなものを贈れるように、いつか私もどうにかして精算を誰かに贈れるように、ついでに自分自身を精算できるようになるために、ゆっくり歩いていきたい。今年の抱負というか寿命までの抱負ができた。