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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の意味がわからなくて困ってる人たちへ

エヴァQを久しぶりに観た。
相変わらず意味が分からなかった。
多分これからも完全に理解できることはないだろう。
もしかしたら熱心なエヴァファンの方は全部分かっていて、「いやそれはお前が勉強不足だからだろ」と言われればまあそれまでなのだが、実際大半の視聴者は置いてきぼりなのは事実だろうと思う。

かと言って嫌いかといえば、うん、嫌いじゃない。

しかしこの映画を語るうえの前提として、僕はこの映画を脚本は破綻していると思っているというのはまず言っておく。


これは物語を観るうえでの視点に問題があるように思う。
基本的に僕らが映画を観るときは「主人公の視点」と「神の視点」の2つを使い分けて観ている。

エヴァQでいえば、主人公である碇シンジの視点で物語を観ているのだから、突然14年後に来て何が起きてるか分からないし、誰に説明を求めても教えてくれない。その孤独感やパニック状態に共感していくことは出来る。

しかし「神の視点」に立った時、つまり観客としてこの映画を俯瞰して観賞しようとした時も同様に、この映画は何が起こってるのか理解出来ないのだ。誰が何の思惑で、今どんな状況なのか映画的にも全く説明がされてない。

だからこの映画は分かりづらい。クソ映画認定されるのもさもありなんという訳だ。


しかしさっきは脚本として破綻していると言ったけれども、そもそも脚本って物語にとって必要なのか?ということをエヴァンゲリオンは昔のTVシリーズから問うてるように思う。

伏線も謎もストーリーもキャラクターも関係なく、ただ『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメがどういうことを伝えたかったのかということを原液そのままで提供してきたTVシリーズ最終回。
あれを飲み込めるか飲み込めないかで、エヴァQに対しての評価が真っ二つに分かれると思う。


もちろん僕は肯定派だ。
というか僕の場合はその「訳分からなさ」を楽しめている。決して「訳わかんねぇwww」と揚げ足を取って楽しんでいる訳じゃない。
分からないこと、言葉や理屈で説明出来ないこと、そういうものを楽しんでいる。

それは寝てる間に見る夢みたいなもので、理屈が通ってなくてもそこに意味を見出だすことは出来る。

これはまさにシュールレアリズムだ。
シュールレアリズムとは、フロイトの言うところ無意識(エス)の探求することを目的とした思想や学問のことを言う。
芸術ではダリやマグリットが有名で、例えば時計がぐにゃぐにゃになってたり人間の顔がリンゴに変わってたりする不思議な絵だ。
それは何を表現しているかというと、現実にはあり得ないもの、理屈や言葉という意識のフィルターを通す前の無意識の世界を絵として表現しているのだ。

エヴァンゲリオンもこれと全く同じだ。
その理屈の外にある超自然的で不条理な夢の世界に似た感覚を映像として表現している。
実際エヴァンゲリオンのTVシリーズは多くのフロイト的な心理学用語が出てくる。
つまりシュールレアリズムこそがエヴァンゲリオンのスタイルなのだとすれば、別に全ての描写に理屈がつけて理論を立てて説明をする必要がない、説明しようとすることにあまり意味がないのではないかと僕は解釈している。


しかしこうやってエヴァンゲリオンを分析するとその懐の深さに驚くし、それと同時にエヴァの面倒臭さが際立つ。

僕はこうやって精神分析的にエヴァンゲリオンを観ることが好きだが、一般的にはロボットアニメとしてだったり、ボーイミーツガールのセカイ系として観たり、親子愛やラブロマンスとして観たり、聖書を引用した神学的に観たりと様々で、そしてそのどれも正しい。

見る人によって「俺のエヴァ」が無数に存在して、それがもとは1つのアニメについての話なのだから、『新世紀エヴァンゲリオン』は語られるべくして語られるまさに現代の神話なんだなあと僕は思う訳です。

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