[四]労働=生き甲斐とはしない

労働とは、社会を構築するために必要なものであり、それは本来の生き甲斐といえるだろうか。いつの間にか今行っている労働が生き甲斐であると認識していないか。先にも述べた通り、私にとって社会とは生命維持装置であるため、それを構築するために労働が必要である。試しに現時点での全ての労働が自動化され、またはコンピュータによる置き換えができたとして、それでいて社会が安定するのならばそれは私にとって大変望ましいことだと考える。
一点注意しておきたい点は、生き甲斐を労働としている者についてだが、これは労働が全て置き換え可能になったとしても、それは労働による対価=現在では通貨を求めなければいいだけである。誰もその行為を禁止する訳ではないだろう。労働による対価を得ることでそこに居場所を見つけたような、そんな気分になるかもしれないが、それは生命維持装置の内部に取り込まれてしまっており、誰かの生命を維持するためだけに生きているようなものだ。もし全人類が生命維持装置に取り込まれてしまえば、それは全ての人間が誰かの生命を維持するためにお互いに支え合うこととなり、それは私にとって解せない世界である。私自身、「なぜ生きているのか」という問いに答えを持っていないが、「生きるために生きている」というのは腑に落ちない。いや、少し前までの私はそうやって生きてきたのだが、その先には何も無いと感じたし、それは生きている時点で目的達成しているのだから、それ以上生きる意味がわからなくなったのだ。生きる意味が指し示すその先には、生きる以外の何かがあるはずだという前提で私は今生きている。こんなもの想いに更けるためにも、私にとって優秀な生命維持装置はこの上なく必要なものである。しかもその生命維持装置が人間の手を煩わすことなく、コンピュータが管理して差支えないのであれば、私は生きるための労力以外に注力することができる。万が一、たどり着いた先に生きる意味など何もなかったとしても、その後はただ生きるか、もしくは命を絶てば良いため気が楽でもある。また、労働そのものをが消え失せたとしても、人間同士の繋がりが消えるわけでもなく、変わらずに生活していくのではないかと考える。

以上のことからコンピュータやAIの発展について賛同するし、これから先も進化していく様子を眺めることができるのは大変嬉しく思う。私はそういった技術や知識・学も持ち合わせてはいないが、それでもテクノロジーの発展に寄与できるよう賛同の意思表明をするし、微力ながらも声を上げていく。

タイトルからはかなり脱線してしまったが纏めるとする。
私にとって人間とは、コンピュータで置き換え不可能なものであるが、労働は置き換え可能である。どんなに細かく人間を分析したとしても、それは永遠に細かく玉ねぎを切り刻んだとしても永遠に玉ねぎであるのと同じで、”人間を作るための何か最小の一つ”というのは永遠にたどりつくことのない世界ではないのか。だからこそ私は私自身で探求するし、それが唯一、私自身にたどり着く方法ではないだろうか。

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