[五]意図的に疑問を捨てる<風貌について>

音楽を制作する人間または演奏する人間の風貌をどのように捉えるか。

主に気になった点は以下
 ・私自身が音楽を制作する際の風貌
 ・音楽を制作する部屋の見た目
 ・音楽を聴くときの機材の見た目や質感、スタイル

これらに気を配る必要があるのかどうかについてだが、相手へ何か伝える段階で見た目というのが手段として活きるのであろう。私自身が音楽を聴くときに、演奏者や製作者の見てくれを気にしないため、私が音楽を公開する際の佇まいをどうするべきかということだ。
映像作品との共作の場合は視覚情報なので、見た目というのは最重要項目といってよいが、音楽単体で音楽そのものを感じ取る際に視覚情報で何かを補う必要があるのかどうかが疑問である。また、視覚情報を頼りにせねばならないということであれば、そもそも音楽単品で辿り着ける場所というのは限られており、そこから先には別の専門的知識をもった人物と共作せねばならないということだ。私自身が試すべきことは、音楽単体でどこまでやれるのか、行き止まりがあるのならば行き止まりを見つけることである。その時にようやく、手を貸してくれる人物が現れるかもしれない。

ということで、私は音楽単体で行き止まりまたは楽園を探しに出かけるのだが、その時に風貌や見た目を気にする必要があるのかという疑問に戻る。
この疑問を一旦解決するために、”風貌を気にしていない風貌で表に出ればよいのではないか”と考えたが、それこそが意図的に作られた風貌であり、むしろ風貌を気にしており、気を取られているのであるかのようだ。

結論として、本当に見てくれに気を取られないのであれば、「こんな疑問を抱く必要もなく、私の風貌をどのようにしたらよいか」と悩む必要がない。これは生まれた疑問から逃げたわけではなく、この疑問を解決できる方法はその疑問自体を捨てることという唯一の結論と私は考える。

どのように無意識を気取ろうと頑張ってみても、無意識を意識した瞬間に矛盾するためだ。

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