差別

恥ずかしながら、我が母親のことを書く。

50年以上前、昭和45年前後。
当時は大阪万博の頃。
この当時は今で言う放送禁止用語が普通に会話として
飛び交っていた頃でも有る。そういう時代背景を理解して
いただきたい。また、そういう差別用語を生活の一部として
使ってもいたのだ。
戦後すぐの歌で言うと、笠置シヅ子の「買い物ブギ」などは
歌詞の最後に差別用語が出てくる。

少々脱線してしまいましたね。

母と買い物に行った時のこと、少し離れたところを
足を引きずりながら歩く人がいた。
子供というのは無邪気であり好奇心の塊だから、
自然と目で追いかけてしまうものだ。
そんな私を見て、すかさず母が言った言葉。
『あの人見てたら、あんたもああなるで!』

子供心に、なぜ見たら同じ様になるんだろうという疑問が
渦巻いたと同時に、訳の分からぬ罪悪感が芽生えても来た。

その当時はまだ戦後25年なわけで、傷痍軍人の姿も見かけることがあった。
ゴザを敷き、その上に両膝をついた状態で微動だにしない。
松葉杖を横に置いたり、義足を外して前に置く人もいた。
そしてお金を入れる空き缶が前に置いてある。

私の父が言うには、傷痍軍人のマネをして居た者もいたらしいが、
幼稚園児に見分けはつかない。
こういう人たちを見かけた場合も、母は私の手を引いて小走りに
通り過ぎた。もちろん理由は言わない。

子供ができない夫婦も障害者扱いで話すから、本当に厄介だった。
自分が全て、自分の言うことはすべて正義、地球が回ってるのも
私のおかげという考えの持ち主。悪いことは人のせい、
良いことは自分のおかげ。
戴き物で自分が気に入らなければ、相手に
「あなた、これ好きだったわよね。」と押し付けた挙げ句、
感謝しなさいと強要までしてくる。身内なら諦めも付くが、
他人に対してもこれを押し通すのだから、精神がどうかしてる。

この母も89歳、少々ボケてはいるが相変わらず気が強いし、
たまに差別的な言葉も入れる。老いても丸くはならん。
悪いところばかりがシッカリ残る形である。
世の中は姥捨て山の話で出てくるような、賢くて人の良い婆さんだけじゃ
ないんだぞ。

この母を上回るようなクズを、社会に出て見たことはない。
私には最強の反面教師である。

子供というのは、自分の親の所に生まれてくるのを選ぶらしいが、
私は前世が碌でもなかったのかもしれない。そう思わないと
母とは付き合えない。

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