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馨佳観察 5月8日

 バタン、という扉の音が室内に響くと、壁際に丸まった布団がもぞもぞと動き出した。
「けーかー。まだ寝てんのかー」
 たった3歩の廊下を抜け、弁当屋のロゴが入った袋をデスクの上に置いて振り返る。
 布団の塊の脇にある目覚まし時計が指しているのは、11時を少し過ぎたあたり。カーテンが開かれた南向きの窓からは、明るい日差しが降り注ぎ、少しずつ室内の空気を温め始めている。
「ほら馨佳、起きろって」
 しゃがみ込み、掛け布団を思いっきり捲り上げると、唸り声とともに上目遣いに睨まれた。
「……来るって聞いてない」
「言ってねえからな」
「自由すぎ」
「おまえほどじゃないだろ。また朝方まで仕事かよ」
「んー……」
 眉間に皺が寄るくらいぎゅうっと目を瞑りながら、全身でぐいっと伸びをする。そんな馨佳を横目に、ベランダに続く大きな窓と網戸を開けると、新鮮な風がふわりと部屋へ流れ込んできた。
 季節は春を通り過ぎ、やわらかな緑がそこかしこに目立ち始めている。この家に足を運ぶようになって3度目の夏が近づいていた。初めて目にしたときに建設途中だったはずの川沿いのマンションは、今年に入ってすぐに入居が開始されたらしい。
「で、今日は何の用事なの」
 寝ぐせのついた髪を梳かさないままゴムでくくった馨佳が、ベランダへ足を投げ出して座る。それに倣って、俺もその場へ腰を下ろした。
「様子見てこいって言われた?」
「まあ、そんなとこ」
「ふうん……めんどくさい人だね。自分は絶対来ないくせに」
 言葉とは裏腹に、ほんの少し口元が緩んでいる。めんどくさいのはおまえも一緒だろう、と思ったけれど、口には出さずにおいた。
「今日は休みなのか」
「うん。洗濯と掃除しなきゃなあって思いながらゴロゴロしてて、きっとあっという間に夕方になっちゃうところだった。ありがと」
「いーえ。弁当買ってきたから一緒に食おう」
「お、やったー!顔洗ってくる!」
 ぴょん、と擬音が付きそうな勢いで立ち上がり、洗面所へ消えていく馨佳の後ろ姿を見て、小さな溜め息がこぼれてしまった。
 2つ年上の彼女のことを、可愛らしいなと思うときもある。きちんと身なりを整えた姿は、なかなか綺麗な人だとも思っている。けれどそれ以上に、見ていて苦しくなることのほうが多い。何があったとしても、決して本当のことは打ち明けてくれないと知っているからだ。
 俺はただ、彼女のことを見守り、彼女が話したいことを聞く。そうやって積み重ねてきたこの3年近い時間を、きっとこれからも続けていくのだろう。

 見返りがなくても、報われることがなくても。
 人は、自分の気持ちひとつで生きていける。

 ――これは、そんな馨佳を通して見つけてきた、何気ない日々の記録だ。


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