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馨佳観察 11月29日

 バックヤードに入ると、ちょうど店長が丸椅子から立ち上がったところだった。
「お、来たな」
「半月も休んですみません」
「いんや。どうだったよ?」
「はあ、まあ、良かったんじゃないかと……馨佳さんが観に来てくれたのはちょっとびっくりしましたけど」
 細長いロッカーの扉を開け、ハンガーに上着を掛ける。リュックの中から引っ張り出したユニフォームは、まだほんの少し柔軟剤の香りが残っている気がした。
「あー、あいつもともと滝田のファンだしな。滝田作品は今までもけっこう観に行ってんだよ」
「ウチの劇団の主宰とおんなじってことですね」
「そうそう」
 まあ脚本の良し悪しなんて俺にはよくわからない世界だけど、と付け加えると、店長は左肩を回しながらフロアへ出て行った。

 久しぶりの出勤で、少し緊張する。ここでアルバイトを始めた頃は、ネクタイの結び方もままならなかったことを思い出す。どうやら今では手が覚えてしまったようで、スムーズに整えられたことにほっとした。
 ちょっと裕福なサークルの先輩に紹介されて、このバーで働くことになったのが半年前。店長や自分の親と同年代の、40代から50代の大人が通う店という印象だ。きっと自力で仕事を探していたら、こんな場所には辿り着かなかっただろう。大学を卒業するまでの2年だけ、しかも劇団の公演でまとまった休みを取る時期があるという条件で、採用を決めてくれた店長にはとても感謝している。
 スタッフは、店長とアルバイトで合計5人。基本は2人体制で、時間帯や曜日によって調整される。今日は金曜日だから、オープンから3人体制になる予定だった。
 ホワイトボードに貼られているシフト表を見ると、どうやら馨佳さんが1時間前に出勤してオープン準備を手伝っているようだ。さっき入ってきたときは見かけなかった。買い物にでも出ていたのだろうか。
 滝田さんのファンだったという事実があるにせよ、まだそんなに親しいわけじゃないのに劇場へ来てくれて、焼き菓子の差し入れまでいただいてしまった。その日は慌ただしくて挨拶しかできなかったので、会ったらあらためてお礼を伝えようと思っていた。

 オープンまであと10分。
 フロアに出ると、馨佳さんがバーカウンターに立っていた。手元で携帯電話を操作している。
「あ、馨佳さん、おはようございます」
「あー、おはよー。こないだはお疲れ様」
 顔を上げてにこりと微笑む彼女の、黒いボブカットの隙間で華奢なピアスが揺れた。
 店長はキッチンスペースにいるようだ。カウンター越しに奥を覗くと、作業をしている背中が見えた。
「あの、先日は差し入れまでありがとうございました。美味しかったです」
「気に入ってくれたならよかった。お芝居上手なんだね、びっくりしたよ」
「あー……ありがとうございます。卒業したらやめるんで、それまでにまた来てもらえたら嬉しいです」
「あ、そうなの? 勿体ない」
 そんなふうに言ってもらえて嬉しいような、歯痒いような思いで苦笑いを返した瞬間、ピコン、という音が聞こえた。
「しまった、マナーモードにしてなかった」
 そう言いながら画面に視線を落とした彼女の口元が、ふっと緩むのが見えた。
「もしや、彼氏さんですか」
「え? ああ、そんなのいないよ、友だちから。仕事がんばってって」
 携帯電話のサイドボタンを押して、ズボンの後ろポケットにしまうと、馨佳さんは俺の背後を指差した。
「私グラス拭き終わらせるから、入り口掃除のほう任せてもいいかな? ほうき終わったら開けていいから」
「わかりました」
 頷いて、入り口脇のクローゼットに隠してあるほうきとちりとりを持って外に出た。
 もうこの時間は辺りが暗くなっている。地上へ続く階段を登りきると、冷たい風が頬を撫で、足元の落ち葉をさらっていった。
 階段上からいちばん下の段までほうきで掃いて、ドアにかかっている小さな看板をひっくり返す。オレンジ色の淡い照明に浮かび上がる『open』の文字は、どことなく優しい雰囲気に見えた。
 ここを居場所だと思う人たちの気持ちが、少しわかる気がした。

 この時はまだ、彼女について何も知らなかった。
 知ることになるとは、思っていなかった。


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