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なぜアウトプットしたいのか。

1対nのアウトプットが苦手だった。

nはどう評価するだろう?
nに足元を見られるのではないか?
nに知らないうちに嫌われているのではないか?

noteやtwitter、コミュニティ内ブログ、あらゆる発信において自意識過剰に陥った。

穴が開くほど見直して、
誤字脱字がないか。
意図しない受け取り方をされる表現はないか。
同語反復は下手クソに見えるぞ。

穴の空いた文章は、もういいんだか悪いんだか自分でも分からなくなっていた。

数ヶ月前から、音声コンテンツの毎日投稿を自分に課した。毎日と決めたのは、余白を設けた途端にサボる自分が目に浮かぶからだ。

一度目を録ってみる。
「なんか…えー…なんだろ…んー…あー」

ひでぇ出来である。
しかし、気にしていては毎日続かない。
えーいままよと投稿する。

翌日またネタを考える。
あまり面白いとは思えないネタである。
えーいままよ。

そんなことを100回繰り返してみた。
ある事実に気づいた。

批判的なnなんていない。
そもそも批判されるほど聴かれてない。

気が楽になった。
厳しい目を向けているのは、ぼくだけだった。

そしたら、あんなこともやりたい、こんなこともやりたいと楽しくなってきた。
下手な自分も伸び代だと思えるようになった。

もう一つ気づきがあった。
nに怯えてた時の自分の発信。
チェックにチェックを重ねて、体裁を整えた自分の発信は、「見られたい自分の姿」では決してなかった。

そもそも見られたい相手はnではなかった。


ぼくはぼくに見られたかった。


下手くそな自分。
声が高くて滑らかじゃない自分。
回りくどい自分。

そのようなことも含めて、自分の現在地を知りたい。工夫して少し良くなった自分も知りたい。

自分を面白がりたい。


ぼくにとって発信とは、nに「優秀な自分」を見せつけるものではなく「自分に向けたエンタメ」だった。

この好き勝手書いてる文章が、上手いかどうかは大事ではなくて、

「なるほどこんな感じなのね。じゃあ次は少し手直ししてみよう」

というくらいのものでよい。

しかし同時にぼくは大変わがままなことに、
「人と繋がること」を熱望している。

でも残念ながら僕の身は一つだ。自己紹介をして回るには世界が広すぎる。

ぼくに向けたエンタメは、ぼくの「分身」にもなってくれそうだ。あちこちに置き散らかしておけば、物好きな誰かと繋がれるかもしれない。

そんな淡い期待も抱きつつ、今日もこうして置き散らかしを続けている。

これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!