人の繋がりは鍋なのか、やみ鍋なのか。
どーも、しゃびです。
やや季節外れですが、お鍋って美味しいですよね。出汁が具に染み込んでいて、統一感のある味わいがある。
一方で、闇鍋は…
イベント的な色合いが強いので、メロンだのチョコレートだのいろんなものが入ってる。
闇鍋はだいたいまずい。
まずくて楽しい。
人の集まりはどうだろう。
鍋的な集まりと闇鍋的な集まりがあったとしたら。
例えば企業は鍋的だ。特に古い企業であればあるほど。
ぼくはとても古くからある会社に勤めてるけど、会社特有の文化が染み込んでいる。会社の中では文化に沿った態度を求められる。
鍋特有の良さもある。
会社内の意思の疎通も取りやすいし、長く取引をしているお客さんにとっても安心感がある。
おそらく村社会なんかも鍋的だったのではないかと思う。村特有の豊かな風土がある一方で、村八分という言葉もあるように、出汁の染み込んでいない村人はやってけない。
では今増えている、オンラインコミュニティなんかはどうだろう。場所によりけりなのだろうけど、より個が立っているという意味では闇鍋的とも言えそうだ。でも、コミュニティである以上文化や風土があり、馴染まない人は辞めていく。
古い組織や村社会ほどの同調性はないけど、鍋的な部分もありそうだ。
今は村が失われて人も都市に集中し、リモート出社も増え、鍋的な容器が失われつつある。
でも人は繋がりを求める生き物だ。
鍋的な繋がりがなくなったとしたならば、どのような繋がりができていくのだろう。際立った個が溶け合って混濁した闇鍋的な繋がりだろうか。
必ずしも鍋のように溶け合う必要もないのかもしれない。
スイカを闇鍋に入れてしまったら水分として溶けて消えてしまうだろう。
鍋的な集まりは個を薄める。
調和はできるが、不和が見えなくなる。
もしかしたら、よりアラカルト的な集まりが現代的な繋がりなのかもしれない。もはや「集まり」と「集まり」の境目すらも曖昧な、連続的な繋がり。
村がなければ八部にされないし、器がなければまずい出し汁にもならない。
メロンとスイカ、同じウリだけど全然食感が違うね。と言った具合に、個と個がお互いの違いやおんなじを共有し理解し合っていくような繋がりが自然であるような気がするんです。
おしゃべり版もあります。
良かったら聴いてみてね。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!