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「お出迎え」の精神のたいせつさ

普段と同じように振る舞っているだけのに、疎外感を感じる。
知らず知らずのうちに、人は人を無意識に排除してしまっているようだ。


さて今日は「お出迎えの精神」について話をしてみたい。

このテーマのおしゃべり版も音声メディアhimalayaで配信してます。


ぼくは音声番組『コルクラボの温度』に、パーソナリティの1人として、1年半くらい参加させてもらっている。

参加する前から番組のことを知っており、リスナーとして楽しく放送を聴いていた。

『コルクラボの温度』を好んで聴いていた理由の1つに「一緒に会話をしてる感」がある。

『コルクラボの温度』に限らず、
ラジオを始めとした音声コンテンツには、「一体感を抱きやすい」という特徴がある。視覚情報がなく「音だけを楽しむ」という特質が、そのような効果を生んでいるのだと思う。

何も見えないので、場を想像するしかない。

どんな状況で話してるんだろう?
ソファに向かい合って話しているのかな。
今日はいつもと違う雑音が入り込んでいるけど、場所が違うのだろうか。

パーソナリティは、リスナーが想像した空間で話をしているのだ。

個人でも番組の配信を始めてから、音声コンテンツに対する興味がさらに深まった。いろんな番組を聴いてみた。

聴いてみて思ったのは、
「一緒にいるように感じられる番組」と、逆に「一緒にいないように感じられる番組」があるということ。

当然、前者の方が聴いてて心地がいい。

理由はなんだろうと考えてみた。
「一緒にいる感」はどこからくるのか。

それは、
「お出迎えの設計」だと気づいた。

もちろんこれだけではない。
これだけではないけども「初めてきたリスナー」にとっては最重要事項だと感じた。


『コルクラボの温度』は最初にオープニングの音楽(SE)が入る。

冒頭
「コンコン(ドアをノックする音)」
「どうぞ〜」

からSEが始まる。
この時点で、ぼくらリスナーは現場に招き入れられている。

挙句、
「初めて来たんですか?」
だの、
「ゆっくりしていきや」
だのSE中にも関わらず話しかけられ、こちらはすっかりお邪魔する気満々で、番組が始まる。この感じはテキストじゃ伝わらないので、ぜひ一度聴いてみてほしい。


ぼくが聴いていて「一緒にいない感じ」がしていた番組は、冒頭でクローズド感が出ていたことが分かった。

複数人で話す場合は「内輪感」として、
1人語り系の場合は「独り言感」として現れる。

初めて聴いた放送で
「そういえばこないだごめんね、寝坊して。」
「いいよいいよ。」

から始まってそっ閉じしたことがあったけど、
要するにそういうことだと思う。

コルクラボの温度のオープニングSEは顕著な例だけど、長く聴いていたいと思わせてくれる番組の冒頭には、必ず「お出迎え感」が演出されている。

これは、音声番組に限ったことではない。

冒頭にも書いたけど、人は普段と同じように振る舞っているだけで疎外感を感じられてしまう。

ぼくはコミュニティで、新規入会者のウェルカム担当をやっていたことがある。その際も、ネックになっていたのは同じテーマだった。

アウェーな環境において、自由に振る舞っていいと言われることほど、不自由なことはない。
アウェーでなくなるまでは、フォローが必要なのだ。

一方、
過度なお出迎えをされると、それはそれで不自由を感じる。出口を閉められたような気分になる。

社会生活においてはお出迎えのあんばいが大切なのだ。その点、音声配信は気楽だ。いくらお出迎えをしても出入り自由である。

自分の配信ではしゃべりたさが先行しすぎて、もろもろ疎かにしているなぁ。
と反省しつつ、人間関係においても入り口の設計を大事にしていきたい。

ではでは!


本文でも紹介しましたが、音声メディアhimalayaでもおしゃべりをしています。よかったら聞いてみてください。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!