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名こそ流れて…「布引の滝」

「布引の滝」は神戸の誇り

「布引の滝」は、神戸を代表する名勝地で、新神戸駅の山側の生田川中流にかかる滝である。川上から順に、雄滝、夫婦滝、鼓ヶ滝、雌滝の4つの滝からなる。「布引の滝」は大都市の近くにある滝だが、「日本の滝百選」に選ばれていて、那智滝(和歌山県)、華厳滝(栃木県)と並び、「日本三大神滝」の一つとされている。というのがいわゆる「布引の滝」の観光案内となる。

私の大きな誤解の告白とは!

ここからは私の恥の告白ともなるのだが、実は百人一首の55番に「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」という一首がある。これは平安時代中期の公卿、大納言公任(だいなごんきんとう)の詠んだ歌で、現代的に言うと、「滝の音が聞こえなくなってから長い時間経つが、この滝の名声だけは、今でも人々の間に知れ渡っているな」といった内容だ。大納言公任というのは、藤原公任のことで藤原頼忠の長男として生まれ、藤原定頼の父でもあった。つまり歌人として高い評価があり「和漢朗詠集」「拾遺抄」「三十六人撰」といった優れた歌集の撰者であって、家集である「公任集」も有名な作品の一つとして知られている。官位は正二位・権大納言で、小倉百人一首では大納言公任と呼ばれている。

私はこの二つの歴史的事実、一つは「布引の滝」が神戸にある日本を代表する美しい滝の一つであること、もう一つは「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」という歌が百人一首の55番にあり、その作者は大納言公任であるということ、この二つを間違って理解していた。つまり私の記憶の中では、「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」という歌は、「布引の滝」を詠ったものだと信じていたのだった。神戸まで1時間もかからない場所に長く住んでいて、しかも幼いころより近在の六甲、摩耶にはしばしば出かけていながら、いい歳になるまでそんな誤解をし続けていたなど、自分でも信じられない気がする。
それだけではなく、親しい人と神戸に足を延ばしたときは、得意げに「布引の滝」の解説までしていたのだった。

名こそ流れて …の一首が取り上げた滝は、大覚寺の人工の滝

調べてみると、百人一首に詠われた「滝の流れ落ちる水音」は、「拾遺集」の詞書から、京都大覚寺にあった人工の滝を指していたものと考えられている。大覚寺は本来、嵯峨天皇(796~842)の離宮として造営された寺院だったのが、後に真言宗の管理となったようだ。この歌が詠まれたのは、離宮が造られてから200年後のことで、その時は滝は枯渇していたのだろうと思われる。現在大覚寺の滝跡は、「名こそ流れ…て」というこの歌にちなんで「名古曽(なこそ)の滝跡」と呼ばれおり、滝は造営の通りに復元されている。

そのことはともかく、私はなぜ長い間この歌を、大納言公任が「布引の滝」のことを詠んだものと確信し、すでに「布引の滝」は枯滝になっていると決めつけていたのかとそれが不思議でならない。子供のころからそう信じていたので、きっと先生か目上の人がそう間違って教えてくれたのだと思う。私の不注意もさることながら、だとすればきっとほかにも間違っていろんなことを目上の人から教えられて、今もそのまま信じていることが少なくないと思うのだ。


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