【THE古墳】箸墓の主は…卑弥呼、次の女王それとも「男王」


邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)の墓との説が戦前から唱えられている最古の巨大前方後円墳の箸墓古墳(3世紀後半、墳丘長約280メートル)。宮内庁は第7代孝霊天皇の娘、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として祀(まつ)る。多くの陵墓が天皇や皇子という男性を被葬者とするなか、舌をかみそうな、どこか謎めいた名の女性というところが、卑弥呼へのロマンをかきたてる。ただし、築造年代などから、卑弥呼の次の女王「臺与(とよ)」、さらに次の「男王」との説もあり議論は尽きない。古墳に眠る主は?

「卑弥呼死す」と同時期か

「卑弥呼の墓である可能性は極めて高い」。古墳研究の第一人者、白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は明言する。中国の歴史書・魏志倭人伝などから、卑弥呼の死去は248年ごろ。白石さんは、同古墳を3世紀半ばの築造とみて、倭人伝の記述とも合致するという。

古墳や集落などあらゆる遺跡から出土する土器は、考古学では年代を絞り込むうえで最も重要な「物差し」。

白石さんは、箸墓古墳で出土した土器の型式による推定年代とともに、これらの土器に付着した放射性炭素の残存量を測定して割り出された「240~260年」という年代に着目する。「3世紀半ばという土器から推定した年代は、放射性炭素年代測定という科学的手法でも裏付けられた」と話す。

卑弥呼について魏志倭人伝は「鬼道(きどう)に事(つか)え(呪術をつかさどった)」と記述。箸墓古墳の被葬者として宮内庁が指定する孝霊天皇の娘について日本書紀は、国造りの神ともいわれる大物主神(おおものぬしのかみ)の妻としており、神と対話ができる巫女(みこ)である点は、いかにも卑弥呼に通じる。

盤石でなかった卑弥呼政権

「箸墓古墳の築造は、卑弥呼の没年より数十年新しい」として、卑弥呼説に否定的なのが同古墳のお膝元にある桜井市纒向(まきむく)学研究センターの寺沢薫所長だ。

平成7年に同古墳の発掘を担当し、出土した土器などを詳細に研究した結果、「260~270年代」と推定する。白石さんの説と大きく変わらないようにみえるが、「卑弥呼をめぐっては、築造時期が数十年違うだけで被葬者が変わってくる」と寺沢さん。

魏志倭人伝には「卑弥呼死す。大いなる塚を作る」と記され、死去(248年ごろ)からほどなく墓が造られたとみられている。箸墓古墳を卑弥呼の墓とすると、死去から10~20年以上も後に造られたことになり、倭人伝の記述とも合わないという。

考古学の世界では、同じ土器であっても、いつの年代のものと考えるかは研究者によって異なることがしばしばある。それを科学的に証明しようとするのが放射性炭素年代測定とされるが、年単位まで絞り込むのは難しい。寺沢さんは「数十年の差が出る例が他の遺跡でもあり、必ずしも確定的ではない」と疑問視する。

卑弥呼でないとすれば、果たして被葬者は-。

「候補は2人いる」と寺沢さん。築造年代などからみて、卑弥呼の次の女王・臺与か、その次の男王を挙げたうえで、「どちらかといえば男王の可能性が高い」という。

臺与について魏志倭人伝はこう記す。「卑弥呼死す。男王を立てたが国中が承服せず、卑弥呼の宗女(一族の女性)、年十三の臺与を立てて王とし、国中がようやく治まった」。臺与の次の王について魏志倭人伝に記録はないが、中国の歴史書「梁書(りょうしょ)」に「臺与の後に男王を立てた」と書かれている。

寺沢さんは「卑弥呼も臺与も大きな力は持っていたが、どちらも即位にあたって争いがあり、後継という点でも不安定だった」と指摘。特に卑弥呼は、ライバルの狗奴(くな)国と戦闘状態だったことが魏志倭人伝に記されている。

「政治的に不安定な状況で、箸墓のような巨大な前方後円墳を築けるだろうか」と寺沢さん。「臺与の次に男王が政権のトップに立ったことで、後継も含めて体制が安定した。だからこそ箸墓古墳を築くことができたのでは」と話す。

ただし、日本書紀は箸墓古墳の被葬者を孝霊天皇の「娘」と明記。「被葬者が男性との想定は反論される余地があるかもしれないが、日本書紀が編纂(へんさん)されたのは奈良時代。箸墓古墳の時代から400年以上たっており、絶対ではないだろう」とする。

卑弥呼の墓については、箸墓古墳の北側に築かれた纒向古墳群のうち、3世紀中頃の前方後円墳の中にあるとみる。

神秘のベールまとう古墳

「卑弥呼の没年と箸墓古墳の年代が合致するかどうか、何ともいえない」というのは、石野博信・奈良県立橿原考古学研究所元副所長。卑弥呼が君臨した邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡を長年にわたって調査した。「あれだけ巨大な古墳を造るのだから、中国の文献に出てくるような卑弥呼クラスの人物が葬られたことは間違いない」と話す。

箸墓古墳について日本書紀は、「昼は人が造り、夜は神が造った」と記し、ひときわ神がかり的に描く。石野さんは「被葬者だけでなく、古墳そのものに物語性がある。古代の人たちは、突然出現した300メートル近い巨大古墳を特別な存在とし、神に結びつけたのではないか」と思いをめぐらせた。(小畑三秋)

 ◇

日本書紀が伝える箸墓古墳 倭迹迹日百襲姫命は、夫の大物主神がいつも夜に現れるのを不思議に思い、お顔を見たいと言うと、夫は「櫛箱(くしばこ)の中に入るので驚かないでほしい」と答える。姫が箱を開けると小さな蛇がいたので思わず叫んだ。夫は「おまえは私に恥をかかせたな」と言い残して三輪山(桜井市)に帰っていった。ショックを受けた姫がしゃがみ込むと、そこに箸があり、陰部を突いて死んでしまった。人々は姫の墓を「箸墓」と呼んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?