【一聞百見】邪馬台国「大和説」序章の纒向遺跡 考古学者・石野博信さん

江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。

前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半~248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。

古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。

「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」

そこで、建設事業担当者を説得しにいった。

「もし工事中に遺跡が発見されたら、文化財保護法の規定で工事を中止しなければならない。そうしたら余計にお金がかかると説明しました。ちょっと遠回りする方法ですけどね」

こうして調査費500万円を、県と国が買収する用地費に含めることが認められたが、調査の担い手がいない。当時、橿考研の調査員はたった5人。それもすべて発掘現場にでていた。

「やむを得ず自分でやることにしましたが、内心はうれしかった。事務より発掘の方が好きですから」

しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。

「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」

《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》

歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」

発掘現場で恩師と出会い

半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。

「あれは、もしかしたら死んでますよ」と、少年時代の無鉄砲さを振り返る。

10代のとき。「渡波考古郷土研究会」を立ち上げ、貝塚の発掘や地元の廃坑を仲間3人と探検して遊んでいた。その際、1人が洞窟内で滑り落ちて溺れそうになったのだ。「何も調べずに現地に行くのは危険だと反省会をしました」。だが、遺跡や遺構への探究熱はとどまるところを知らない。

「旧制石巻中学に入ってからは、図書館に通い始めました」

図書館に2冊あった考古学の本を全文丸ごと写して勉強会を開催。「世界考古学大系という20冊本があって、それを見るのが楽しみでしたね。世界っちゅうのは広いなあと」

高校卒業後は商売人だった父親の跡を継ぐつもりだったが、「大学は出ておけ」という父の言葉で関西学院大(兵庫県)に進学。夏休み前の掲示板に加茂遺跡(同県川西市)の発掘調査員募集が張り出され、「参加するだけならいいだろうと調査に加わったのが、運のつきだった」と笑う。

発掘現場では、軍靴の泥を落とした折り畳みナイフをズボンで拭き、そのままリンゴの皮をむいていた「田舎風のおじさん」に話しかけられた。

「これは石斧(せきふ)やないか」。ただの石と思って捨てた石斧の破片を手に声をかけてきたのは、名前だけ知っていた橿原考古学研究所初代所長の末永雅雄さん(1897~1991年)。以後40年にわたって考古学の師匠となる人との出会いだった。

その後の10年は発掘調査地を求めて遺跡を転々とする日々を送った。「泊まりがけでご飯を食べさせてもらえて、同時に発掘もできるのはありがたいと思っていました」

定職に就こうとしない石野さんを見かね、関西学院大の恩師で考古学者の武藤誠さん(1907~95年)は、兵庫県西宮市にあった私立高校の校長と交渉し、日本史の教師のポストを紹介してくれた。

ようやく定職に就き、同じ学校で国語を教えていた幸子さんと結婚。就職から5年がたった頃、後の田能遺跡(兵庫県尼崎市)で工事が始まり、弥生時代の木棺が次々に出土したことを新聞報道で知る。

「現場に行ったら工事の真っ最中。で、来いともいわれていないのに、発掘に参加することにしました。高校は勝手にやめてしまいました」

食べていくあてはなかったが、幸子さんは「夜の蝶になって食べさせてあげる」といってくれた。「夜の蝶」は銀座の酒場に生きる女性を描いた映画のタイトルだ。「冗談だろうとは思ったけど、とっさにそんなことを言ってくれてびっくりした」

実は、関西大大学院に入学する際、「家の仕事は継がないことにしたので入学金を貸してください」と、末永さんにお金を借り、幸子さんの退職金で全額返済していた。発掘への情熱を受け入れてくれた幸子さんには感謝しかない。「嫁さんには一生頭が上がらないです」

邪馬台国、尽きぬロマン

ようやく得た高校教師の定職をなげうって、昭和40年に飛び込んだのが、田能(たの)遺跡(兵庫県尼崎市)の発掘調査だ。弥生時代の木棺埋葬の風習を明らかにするなど国史跡の指定(同44年)につながる重要な発見が得られ、工業用水配水場の建設で壊される予定だった遺跡の一部も守られた。ただ、調査は1年で終わり、アルバイト収入は途絶えた。

ちょうどその頃、兵庫県教育委員会の文化財審議委員をしていた恩師の武藤誠・関西学院大教授が、兵庫県で発掘調査の臨時職員を3人探していると教えてくれた。「幸いでした」。つくづく人の縁に恵まれたと感じている。

昭和40年代に入ると、高度経済成長期の開発に伴う埋蔵文化財調査の需要が急増。兵庫県では、山陽新幹線と中国自動車道の建設に伴う遺跡分布調査が急務となった。

「臨時職員3人で尼崎から赤穂まで、土器のかけらを探して歩き回りました」

4年目に、兵庫県の考古学専門職員第1号として正規職員になったが、その翌年に常勤職員の募集があった奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)に移る。「上司には、せっかく苦労して入れた人間をよそに出すわけにいかないと怒られましたが、どうしても奈良で調査をしたかったんです」

当時の橿考研は、末永雅雄所長の下、網干善教さん、伊達宗泰さん、森浩一さんらそうそうたる面々が出入りしていた。

「森さんたちは末永先生が集めた給与ゼロの発掘要員で、高校教師などの本職をもちながら日曜日に手弁当で奈良を発掘していました。車で遺物を運ぶのを見て、森さんは『便利になったな』と。それまで遺物はリヤカーで研究所に運んでいましたからね」

奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2~3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。

橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。

シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。

邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。

「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」

寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)

【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4~23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19~26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。

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