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オンライン上に居座り続ける黒歴史から考えるSNS論

おはようございます。

今日の朝は、いつもよりさらに良い朝でした。

昨日の夜に仕事の仕込みをしていたので、朝起きてから気分が軽く、どんどん作業を進めることができました。

やることが片付いていなくて自分を責める気持ちになることも多々ある一方、少しずつでもできたことに目を向けると、一気に心が軽くなります。

「出来たよシール」を一枚ずつ貼って、誇らしい顔をする権利は、子どもだけのものではないのかもしれません。

今日は、TABIPPOコミュマネゼミDay2で学んだことを中心に書いてみようと思います。

①私が消したいSNSたちのこと

(参考画像は bizSPA!フレッシュ:20代が「復活してほしい」と思うSNSを調査。より)

ここ数年、アウトプットして良いかどうか迷って、面倒になって、やってなかった自分のことを振り返るきっかけをいただいたように思います。

特にSNSでの発信については、自分が考えたり思ったりしていることを身近な誰かに伝える役割以上に、見守られている、さらには監視されていると感じる心が私にはあります。

前略プロフィールというサイトが流行した時代がありましたが、ふと思い出し、頑張って過去の自分の作ったサイトにたどり着き、無事に削除したのも数年前の話です。この頃はいわゆるガラケー時代で、あのビット感漂うビジュアルが懐古されます。

学生時代はmixiにずいぶんお世話になりましたが、いつの間にか使わなくなってしまいました。当時の友人とはmixiでつながっていたのですが、今は連絡の取りようがありません。こちらは削除せずアカウントが残ったままだと思われますが、ログイン情報が全く思い出せず手詰まり状態です。

2008年から使っていたFacebookは、今は限定的な使い方しておらず、自分の意図しない誰かに全部を見られてしまうことへの恐怖がいつもあります。自分が見聞きし感じたことを発信していた時に、とても身近な人から「それを書くのはやめたほうがいい」と指摘されたことがあって以降、オープンに発信するのが嫌になってしまいました。

2009年にはtwitterアカウントを開設し、しばらく運用を続けていたのに、ある日突然全部嫌になって、アカウントを非公開にし、ほどなく削除しました。今は鍵付きアカウントを使っていますが、もはやtwitterでやる意味が見いだせていません。

ふりかえってみると、メールアドレスの交換を私はもう数年しておらず、その時々で連絡を取り合う人たちとは、FacebookやLINE、TumblrなどのSNSや、Slack、Chatworkなどで事足りていることに気づきます。

ずいぶん前に、twitter禁止のイベント、とかが横行していた時期があって、もしかしたら、私の認識はその時代で止まってしまっているのかもしれない。

主催者に聞かなきゃいけないのか、とか書いちゃいけないことがあるのかどうか、とか、気を使い過ぎていて、実は今もオンラインで表現をするのが辛いです。

②コピペ・複製してでもこの世に残したいもの

せっかく最近時間をかけて、まとめて発信できるようになってきたnoteもいつか消してしまうかもしれない。「誰かに伝えたい気持ちが満たされた時点で、その文章の役割は果たされた」と片付けてしまうのか。あるいは、「誰にどんなことを言われようが、私がその時感じ、考えたことに偽りはなかった」と高を括ってインターネットの片隅に居座り続けるのか。

『源氏物語』が今日読むことができるのは、中世 500 年の間の写本活動のおかげである。紫式部が書いたであろう原本は、鎌倉時代にはなくなっていた。そのほかの平安時代の文学書の大半は歌集などを除くと原本は紛失していた。しかし、誰かが副本をつくっておいてくれたおかげで本文は残った。ただし、写すという手作業には必ずミスがつきまとう。まして物語は、勝手に改作してしまうこともよくあった。
そのため、良い写しも悪い写しも残されて、どれが原作に近いのかわから
なくなる。 (成蹊大学:日本探求特別講義

私は日本語・日本文学を専攻していたことがあったので、写本の歴史のことをとても興味深く捉えています。

この文章を残しておきたい、という欲求を持つ人たちの連鎖が実を結び、今日私たちは古典文学を紐解くことができるのです。

でも、今残っているものはほんのわずか。それ以外の膨大な文化遺産は、たまたま焼失したか、あるいはどこかで隠されてしまい、その歴史を追えてしまったのでしょう。

今私はほとんどの活動をパソコンとインターネットのオンライン上で行っています。これからどんなことが起こるかは誰にもわかりませんが、もし、何かのはずみに電気やネットが使えない生活を今後一生続けなければならないとなったとき、これまでのオンライン上のカルチャーは一瞬にして失われてしまうでしょう。

例えば50年後、私が後期高齢者になったときに、「あの時やっていたことを孫・ひ孫たちに見せてみたい」と願ったら、それは実現するのでしょうか。

文章、写真、データをCD-Rに保存しておく?

どこに置いておくのでしょう。

HDDは?

寿命ってあるのでしょうか。

クラウドに保存しておくのが一番?

今使用しているサービスが永久に残り続ける保証はどこにもありません。

何と儚いものなのでしょう。

でも、そこまでして残しておきたいものって何なのでしょうか。コミュニケーションとしての役割を終えた膨大な言葉たちは、その後一切価値を生み出すことはないのでしょうか?私はそうは思いません。

真心を交換するだけでなく、時に傷つけあい、場合によっては絶交・絶縁の引き金となってしまう、そんな言葉のやり取りは、それだけで価値のあるものだと感じます。さらに、コミュニケーション履歴からの学びを概念化させることにより、当事者以外にも多くの示唆を与えるでしょう。

③SNSを駆使するコミュニティマネージャー

今回、TABIPPOのアラシさんの話を聞くことができ、SNSとの付き合い方で見習いたいポイントを得ることができました。

アラシさんは、一日3~40回くらいtwitterをチェックしている中毒者。かつ、FacebookにTiktokも巡回しているというSNSパトロール隊です。

以下、アラシさんのTipsをシェアしていただきました。

1:絡むべし
SNSはコミュニケーションの場。一方的な発信だけになるのはNG。雑談を楽しむことを意識する。(その方が楽しい)
Twitter:いいね、リプライ、引用RT
インスタ:いいね、コメント、スタンプ
2:絡ませるべし
一方的な発信にせず、こちらから質問や相談をする。アンケートやクイズを出すのも良い。
リプライがきた後もコミュニケーションを続けるのがポイント。
旅先どこに行こうか。日々の疑問を検索せずに、「誰か知らない?」と発信する。

自分で検索するのは手軽ですが、「自分の興味範囲のものしかものが出てこないから、人に聞くと新たな気づきが得られる」という声も上がりました。

私自身は、手早く調べちゃいたいタイプなので、そういった視点があることは興味深く感じます。

3:ハッシュタグを活用すべし
コミュニティで共通のハッシュタグを設定するのは必須項目。
コミュニティ全員の投稿を追いきれないこともあるため、ハッシュタグを検索してその投稿に対していいね・リプライをする。
たまには共通のハッシュタグをつけて身内投稿・愛を伝える。

「結局は愛だな」

4:人間らしさ/自分らしさを出すべし
やわらかい繋がりをつくるために、いわゆる「意識の高い」系の有益なツイートだけにならないようにする。いいねを稼ぐツイートは疲れるし、大変なのでSNSをやりたくなくなってくる。大切なのは、自分が楽しむこと。
「思ったことをそっとつぶやく」
共感、真面目臭さだけではなく、おもしろそうだと思うことの自己開示。
自分ってこういう人だよ、足りない部分があるよと発信することで、相手にも安心して自己開示してもらう

Twitterはがんばらない運用が基本なのだそう。でも、たまに「これは、いいね狙ってるでしょう」という投稿もありますよね。

⑤応援される発信をすべし
見て気持ちのいい投稿を心がけ、ネガティブな部分は出さないのが基本。
真面目なこともたまにはつぶやくことで、自分を応援してくれる人が集まってくる。
まずはやりたいことを言葉にしよう。
Twitterを活用していると、とにかくハッピー!!

とにかくハッピー!!素敵です。

上の方でうじうじ書いていた自分のSNS観がグラグラと揺らぎます。

おわりに

自分が苦手だと感じていてうまく内省できないこと。

じっくり向き合うことを避けていたこと。

そんな苦しい部分に目を向ける時間になりました。

そして今浮かび上がった問い、それは、『自分がオンライン上に残す「駄文」が人知れず息をひそめて、生きながらえることを良しとするかどうか』ということでした。

私が息を吹き込んだ言葉たちが、私ではない誰かの目に触れたときに、何が起こってしまうのか責任が持てない。そんな意識があったかというところまで掘り下げることができました。

なんでこんなに苦しいのに、言葉を生み出してしまうんだろう。

きっと、止めることはできない。自分にさえも。

臆病な私は、それでも何かの証を生み出し続けたい。

それはコンテンツそのものでもいい、コミュニケーションの軌跡でもいい。

でも、その証を残し続けるかどうかはまた別問題。

もしかしたら、私はいつか、このnoteもまた、全部削除してしまうかもしれません。

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