見出し画像

クリスチャンの「自信」

 ある宗教的信仰と「自信」を持つことに何か相関があるか。おそらく、ある。が、「自信」の持ちようは人間の気分や天気と同じで千姿万態だから、あまり論じても仕方ない。ただ今朝ふと考えた。

 大人になるとは、自己の実存(現実存在)を外に仮託しないことだ。そう定義していいかもしれない。自分の身体や言語(=来歴or経験)や何かに、実存を賭け得る根拠を持つこと。たとえば、それが社会的にはダメで残念であっても、それを受容して生活すること。つまり、これがミニマムな「自信の形式」である。

 キルケゴールあたりは、たしか「人間」の定義を「自分との関係」と要約していた。ティリッヒは、それを「自分を持つ」と表現していたような気がする。無論、これらは学術的な語彙だから、一般的・通俗的な意味だけでは理解できない。そこには哲学的な手続きがある。学部で哲学をかじっていても少々難解な話だろう。

 「キリスト教」信仰と「自信」を持つことに何か相関があるか。このあたり、仏教に詳しい友人らに聞いてみたい。が、今は遠回りに、僕なりの素朴な見解を述べたい。便宜上、自信を「生活と実存」に分解して考えてみる。

 仏教とキリスト教は思想として対極にある。なぜなら仏教は、どのような仏教であれ、究極的には「縁と空」の覚知へといたり、キリスト教は逆に「現実」の承認へと至るからだ。

 とくに洋の東西について語りたいわけではない。「東洋/西洋」は歴史的概念だから、シルクロード交渉史、または文学や美術など適切な学問的文脈がなければ語れない。気になる人は岩村忍や谷川徹三あたりが著してくれたので参照されたい。話を戻す。ぼくが指摘したいことは、洋の東西を問わず、人間の「生活と実存」に関する認知の問題である。

 仏教とキリスト教。より大雑把にいえば、ヒンドゥー教(含・仏教)とアブラハムの宗教(含・キリスト教)―――この二つの巨大な宗教的伝統の中には「生活と実存」に関する対極的な見方が存在する。少なくとも、ぼくにはそう見える。

 その違いは、シンプルに「歴史」理解に現れる。前者は、無限に散らばる轟々と廻る時空の水車であり、後者はある程度まで方向の定まった、無数の傍流・支流と分岐を持つ大河である。「歴史」は水のように両者を流れている。

 おそらく仏教は、その水面に映える自分の顔は「縁と空」だ、という。キリスト教は、その波に揺れる自画像は冬の吐息のように儚いが、たしかに存在することを信じてよい、という。

 一方は、適切な知的・身体的修養による受容と諦観であり、他方は痛みを伴う認知だ。仏教とキリスト教における「実存」は、このようにして起動する。奇妙で可笑しな言い方かもしれないが、どちらも到達点は明確であり、プロセスも理論化され、歴史的経験の蓄積がある。

 「キリスト教」信仰と「自信」を持つことに何か相関があるか。確かにある。キリスト教は、究極的次元から「せい(聖/生/成/性/世/政/星」を肯定する。すなわち究極的な「意味」を肯定する宗教である。

 だから、相当の毒親でない限り「自信」を持ちやすい。しかし、同時に西側における偏った「原罪」の教理化・内面化は、修道士の精神を凡百木端の民草にも求めてしまう。

 歴史的な実例としては、宗教改革者マルティン・ルターである。宗教的に追い詰められた彼の記録は、見ていると哀れに思えてくる。とはいえ、彼の病執的な「原罪」による自己破壊は、新たな「意味」の到来によって突破される。

 かくしてルターの「生活と実存」は文字通り、新たに生まれ変わった。傲慢な晩年の彼の姿をみると、キリスト教信仰との格闘が、ルターの実存を起動し、生活を変えたことは明らかである。もちろん「ルターは大衆でない、事実、修道士だ」との指摘は受け入れる。しかし、それは主題でない。

 一方、「実存」という思想の実感が「生活」には無関係な人々もある。労働する/生殖する/参拝する(≒生活する)多くの人々にとって「実存」は、あまり問題になることはない。仕事、家庭、死生に関する物語が明確だからだ。いいかえれば彼らには「生活者としての実感」が、ありありと存在している。

 翻って、それがない人々が、ここでいう「実存=思想の実感」を求めてしまう。つまり「実存」とは、ある種の煩悶と懊悩を抱える哲学的自己のことだ。「実存」に拘るのは、仕事がなく、家庭もなく、参拝もしない人かもしれない。べ、べべ、別に、大学院生をディスってるわけじゃないんだからねっ…///

 シンプルに考えれば、仕事・家庭・参拝のうち、ひとつが欠ける程度なら、気に病まずに生活していける。しかし、この内ふたつが欠けると危うくなる。

 たとえば、独身でとくに趣味も欲望もなく仕事だけをしている人は、心を病みやすいかもしれない。安定したアメリカ人を考えると分かりやすい。収入があり家族関係が良好で教会へ行く人間の「実存」は、最良の意味で「生活者」だ。

 余談ながら、これは人間がホームレスになる条件と似ている。職業、家族、住居、この3つのうち2つをほぼ同時に失うと、人の「生活と実存」は急速に危うくなる。結果、ホームレスになることもある。以前、社会福祉の関連で聞いたように思う。

 どうすれば「自信」を持てるのか。または、どうすれば「生活と実存」を適切に加減できるのか。もっとも簡単なのは、長生きすることだ。どんな人でも、文句と糞尿をたれながら長生きすれば、遅咲きの「自信」を得てしまう。次に簡単なのは「伴侶を得て、子をなす」ことである。

 「自己の実存(現実存在)を外に仮託しない」「自分の身体、言語、来歴に、実存を賭け得る根拠を持つ」だの何だの、しゃらくさいことを言わなくてもいい。長生きしていれば、必然的に「自信」を必要とする場面を受け流しながら、いつのまにか、どうにもならない自分に辿りついてしまう。そんな自分が社会的にはダメで残念であれど、結局、腹は減るから食べて、眠くなるから寝ている自分に出会ってしまう。

 または家庭を持ち子をなせば、否が応でも「子」という現実存在に振り回されていく。「私」は「役割」に回収される。表面上もかなり奥深いところまでも「役割」が筋肉となり「私」を支えてくれる。

 つまり「実存」だけに偏って生きてきた人は、こんな加齢や結婚という「自信の形式」で「生活」を得ていく。そして「生活と実存」の塩梅が「生活」の重力によって調整されるとき、気づけば「自信」が醸成されている。それはミニマムな「自分」を超える。最大化された自分の範囲を含む「自信」となる。奇妙な言い方だが、いつも通る道路のアスファルトの固さ、それを整備してくれる会社や誰かがいること、他者やその仕事への信頼を含む「自信」である。

 大人になること、自信を持つこと。それは信者の特権ではない。すべての生活者の形式である。屹立する独立不羈なる者であり、社会的動物でもあることを受け入れること。

 と、ここまで書いて、仮題が「クリスチャンの自信」だと思い出した。「神に愛されている」「聖書には、このようにある」という内容を期待して、本記事を開きハズレを引いた人もあっただろう。ただ、改めてタイトルを考えるのは面倒なので、このまま公開としたい。なぜなら、ぼくは「クリスチャンの自信」を持っているからである。

 以上、人類が直面する二つの巨大な宗教的伝統における「自信」について、「生活と実存」という、まことに日本的でニッチな語彙から連想を述べた。来週末までには今期の研究を終わらせて「トムとジェリー」を観に行きたい。

※有料設定ですが全文無料です。研究と執筆継続のため、ご支援ください。

ここから先は

0字

¥ 500

無料公開分は、お気持ちで投げ銭してくださいませ。研究用資料の購入費として頂戴します。非正規雇用で二つ仕事をしながら研究なので大変助かります。よろしくお願いいたします。