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じこひはん

なんだか「~ごはん」ぽい。信仰と学問の話。

 親には申し訳ないばかりだが、ぼくはキリスト教にハマってしまった。その上で、今度は学問をやろうとして身の破綻を招いている。来世があるなら、来世まで頭を下げなくては、家族には申し訳が立たない。

 さて、信仰と学問の話。端的にいえば、若き日のぼくにとってキリスト教信仰は、神の御前での精神的な自己批判を意味した。まことにプロテスタント的である。その自己批判の上で、他なる伝統や教会を考えるにあたり、さらに自己批判を行うと、あっさりと、ぼくの自己は解体され消滅した。当然である。

 修練・陶冶されたことのないナイーヴな自分なんて、分厚い伝統の前には雲のように、雨粒になる前に蒸発して晴れてしまう。そんなわけで、ぼくは、やっとクリスチャンからキリスト教徒になった。何個かだけ知っているラテン語でいえば「Coram Deo」ったわけで、一面、消失こそ正しいのかも知れない。

 学問の浅瀬に足をひたすようになって、批判の意味をより厳密に適切に丁寧に考えるようになった。結果、コミュ障になった。聖書やキリスト教、宗教や歴史に関して問いかけを投げられた場面で、印象やイメージで話すことができない。歴史的・文献学的根拠を自他に求めてしまう。不自由になってしまった――真理は自由を与えるにもかかわらず。

 「象牙の塔」なんて言葉にも納得がいく。SDGs的にも絶滅危惧種の牙で作った塔なんて許されないだろう。

 ただ、いわゆる修士以上の訓練を受けた者には、ある程度までは歴史的・文献学的根拠をもって語ってほしいと考える。もっとも、そうなると、ぼくなんざが根拠をもって話せる範囲は、本当に狭小である。すべてが印象になってしまう。印象の話は、顔の美醜、体形の好みのような問題なので、気分である。だから、話すに値しないと思ってしまうし、話す内容がないと思う。

 事実、ぼくは、もはや誰かと何かを真剣に語ることができない。なぜなら自分がキリスト教について考えてきた程度には、あらゆる語彙や事物の背後に、深みと厚み、広さ、長さ、高さがあると思ってしまうからだ。

 結果的に「あうあうあ^~」としか言えない。それが本音である。当然、自分の専攻分野で誠実さと厳密さと丁寧さにおいて、遥かに上回る先達や同窓の友、後輩らがいることも知っている。だから、ますます話すテーマがない。「沈黙は金なり」の故事のとおり、黙ってさえいれば、愚かなぼくも少しは賢く見えるから、黙るしかなくなってしまう。

 ただ、モヤモヤ、うにょうにょ~と湧き上がる言葉はうたかたなので、波を認めて、それらを海上に放つしかない。だから、こうして独り言を残している。信仰も学問も自己批判は要であるが、あまりやり過ぎるとコミュニケーションを失ってしまう。

 一方で「自己批判」ない人とは、そもそも会話をあきらめてしまうし、話を聞く意味がない。たとえば、この前、友人から聞いた事例。

 国/都道府県の指示に従うコロナ対策優良飲食店で「マスク無し入店お断り」掲示あり。そこに自称・障碍者が来店した。店舗が「マスク無しなら、個室のみ利用または入店拒否」と伝えると、自称・障碍者が発狂した。「障害ゆえにマスク出来ない、入店拒否は差別!」と憤慨したのだ。いくら説明しても怒る障害者に業務が妨げられた店舗側はあきらめて「では差別で構いませんので、お引き取りください... 」と頭を下げて、入店拒否。後日、その店舗に、市の福祉課より事情聴取があった。

 率直な感想は「死ねばいいのに」だった。友人は笑いながら「隣人愛を奉じるキリスト教徒がそれを言うのはマズいw」と窘めてくれた。それはそうだ。しかし、いかなる理由や属性であれ自分の非を認めない存在とは距離を置くしかないと思うのだ。

 もちろん「自己批判」なんてものは、他人の目からは見えない。だから不明ではある。しかし、やはり、ある程度までは表面化する。たとえば、ぼくは太っている。多くの人は、ぼくを見て少食なんだろうとは思わない。それと同じである。

 どんな属性であれ、自分の非を認められない者は、残念ながら神様だって助けようがない。自他の非を認めることこそ、友誼への第一歩なのだから。

 以上、自己批判について、とりとめもなく綴った。信仰や学問において、そればかりやると沈黙せざるを得ないし、かといって、それがなければ、どの道、他者とのコミュニケーションが途絶する、というお話。

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