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一貫性は生活してることだけ

 若いうちから宗教にコミットしてしまった人々に対して、何かいうことがあるとすれば「変わってもいいよ」ってことだ。ビートたけしのCMじゃないが「変化を楽しもう」ってやつだ。

 若いうちに宗教的な感化を受けて、ある種の倫理基準を内面化してしまうと、あとで苦労する。いろんなパターンがあると思うが、親子関係やら金の使い方、異性との付き合い方がそうだと思う。「生活」を始めていくときに、神なり何なりの抑圧的で超越的なものの爪痕が、重りとして残ることがある。

 それを「傷つく」というエモくもバカバカしい表現で選ぶむきもあるが、まあ、生活していくことは多かれ少なかれ心身の消耗戦であるから、特段、声を大にするようなことではない。誰もみな、自分の容姿に出自に学歴に収入に性格に関係に、何かに少し傷ついて暮らしている。いわば毎日小さな死が溜まっていく。いつか、その死が溜まり切るとお迎えが来るのかもしれない。

 そう思うと「宗教」は、まさに、そのような毎日たまる小さな死を覆していく方法なり能力、または仕組みである。ただ、ややこしいのは、多くの場合、その「宗教」が、若者にとっては「死の加速装置」になり得ることだ。典型的には宗教二世のこじれた感情なり、鬱屈した思春期なりの思い出をあげられるだろう。または現代のイスラエル人にとっての「タナッハ」教育の問題。

 ぼくの場合は「聖書」や「教会」がそうだった。先に誤解のないように言わなくてはならないが、ぼくは、自分に信仰を与える場となった教会、それを認めてくれた家族に心底感謝している。それは揺るぎない。

 その上で、微妙なこともある。若者は、拙い青年期なりの純粋でナイーブな信心深さのゆえに、真に受けてしまって自縄自縛に陥ってしまうことがある。

 ぼくもそうだった。ただ、時間はかかったけれど、見聞を広め学びを深めれば、そんなものは自己解除できると知った。たとえば、ぼくは2回も留年している。母親に泣かれた日はキツかった。自分の愚かさをどこまでも噛みしめた。

 では、なぜ大学を辞めなかったのか。なぜなら大学にぼくを導いた神を信じていたからだ。いや、より正確にいえば、そのような言説を真に受けたからだ。しかし、あるとき「キリスト者の大学生としての自覚と使命に生きよ」とぼくに宣う伝道者がいった。「辞めると思っていたよ」と。

 少々おどろき、そして笑ってしまった。「え、辞めてよかったのw神様の導き云々って言ってたじゃん」と。またはこんな具体例もある。よくある話だ。「聖書にはこう書いてあります!これが神の御心です!」と舌鋒鋭くわめく牧師たち。ぼくも最低限の神学教育を受けて思うが、え、読めない箇所、解釈が不可能な箇所たくさんあるやん。「それ、神様の御心でも何でもなく(釈義能力と誠実さの足りない)あなたの意見ですよね?」(タラコ並感)講壇から聴衆に無限の忠誠を求めていた人物が、そもそも誠実さに欠けていた、というパターンである。

 いま大人として思う。彼らに存在する一貫性は「生活している」ことだけだ。その時々で神の名を騙り、老婆心ながらのアドバイスをときに笑顔で、または神妙な顔でふりまいていく。それが彼らの生活の方法なのだ。

 とくに、それを批判したいとは思っていない。なぜなら、そういう仕事だから。いわば芸人に近い。芸人の仕事は聴衆や他者の揚げ足をとり、揶揄しながら、それを芸として披露することだ。しかし、それは悪い芸だと思う。良い芸は、もっと緻密な知性と誠実さ、いわば創造性にあふれたものだろう。知らんけど。

 「一貫性は生活していることだけ」、それでよい。人間なので、誰もが変化する。または変わらないように見えていたものを別の角度で眺めるときも来る。それでよいと思う。

 よく教会的なカウンセリングでいわれる「~に傷がある」なんて言葉は笑ってトイレに流せばいい。目に見えない傷なんてのは、気のせいである。気のせいでないなら教会よりは心療内科へいったほうがいい。

 若いうちに宗教的な感化を受けて、ある種の倫理基準を内面化してしまうと、あとで苦労する。親子、異性、金銭など「生活」に関わるところに超越的で抑圧的なものを見つけたら、その重りを下して置いていくことを考えてほしい。どうしても愛着と執着があるなら、自分が持てる重さだけを持っていけばいい。あとは捨てるか置いとけば、誰かが持って行くのだから。

 ということで「人は生活のために自然と変化する」、または「偉そうに宣うバカを見つけたら、そいつも生活のために言ってるよ、と半額割引くらいで見るのがオススメだ」というお話。「変化」自体は良いことだし、変化を楽しめるくらいの余裕がほしいと思う日曜午前。今日も宿直の仕事である。

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