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語呂合わせの心性

 トランプ前米国大統領(現候補)の暗殺未遂事件は衝撃的だった。ひとびとが騒ぐ中、東北かどこかで寺社巡りの画像をあげている人が書いていた。「ガザでは何人も吹っ飛ばされて死んでいるのに、トランプひとり撃たれたくらいで世界はハチの巣をつついた騒ぎ」と。なるほど、たしかに。ぼくらは自分たちの見たいものしか見ないのだ。

 トランプが撃たれたニュースをみて助かったと聞いて、故・安倍首相が何か目に見えない力で助けたならば、それはほとんどドラマのようでおもしろいなと思い、思わずSNSに「これが本当のoperation”トモダチ”」とつぶやいて消した。米国には世話になったし、賛否両論是々非々あれ、われらが元首相へのリスペクトを欠いているからだ。

 ところが英語で似たような内容が流れてきた。トランプ候補が撃たれた瞬間、安倍さんの声を聴いた、そんな風が吹いた、安倍さんを思い出して首を動かして九死に一生を得た…等々。

 笑ってはいけないが、可笑しかった。誰もかれも似たようなことを考える。宗教的感性、または思考の傾向なんてものは、ほとんど人類共通なのかもしれない。人類という身体的特質こそが、ぼくらの可能性であり限界なのだ。

 その後、しばらくして信心深い?米国人らが、おもしろいことを言い出したことに気づく。「弾丸は午後6時11分に発射された」から新約聖書、エペソ書6章11節を見よ、と。文脈もあるので前後を引用しよう。口語訳には、このようにある。

 10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
 11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。… … 18絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

口語訳 新約聖書エペソ人への手紙6章10節以降

 エペソ書の当該箇所の本来の意味は、様々な誘惑に立ち向かうために、キリスト教倫理に固く立ち、清く謙遜に祈れ、それが悪魔に対する戦いである、といった具合である。

 ところが上掲ポストをした人には、事件発生時刻が、エペソ書の6章11節を指示しているように思われた。つまり、今回の暗殺未遂は悪魔の仕業である。しかし、なお助かったトランプ氏は、まさに神に愛され守られた人物である。投稿者には、そういう意味になったようだ。

 当然、すぐに批判が殺到した。流れ弾に当たって亡くなった方、ケガをした人は、死ぬべきだったのか、と。いいかえれば、信仰的な運命論と天譴論は表裏一体なのだ。そこに批判が殺到した。

 たしかに人生には、神にしかわからない、神のせいにするしかない事柄が多すぎる。アフリカの貧しい土地に生まれ、テロリストに両親を殺され強姦され性奴隷とされたあげくエイズに感染し、心身ともに深い傷を負わされた14才の少女について、人間は何も語ることができない。否、神でさえ語ることができないのではないか。この狂った現実を、信仰的な運命として考えることは、あまりにも人間離れしている。少なくとも近代人の感性としては理解しがたい。しかし信仰の陥穽としては、やはり、どこかで受け入れてしまう。神以外に責任の宛先がないからだ。

 そんなことを思いながら米国人のトランプ氏暗殺未遂をめぐる語呂合わせについて考える。せっかくなので旧新約聖書の6章11節を全部確認して、おもしろいものを見つけてきた。

創世記
6:11 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 12神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。

なるほど、それっぽい。今回の事件を暗示しているようにも読める。

伝道者の書=コヘレトのことば
6:11 言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。 12人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。

 トランプ氏は選挙活動中だったのだから、むしろ、こちらの箇所は状況にふさわしいのかもしれない。多弁でむなしい人物としてトランプ氏が責められているように読める。

イザヤ書
6:11-12 それゆえ、わたしの身には主の怒りが満ち、それを忍ぶのに、うみつかれている。「それをちまたにいる子供らと、集まっている若い人々とに漏らせ。夫も妻も、老いた人も、年のひじょうに進んだ人も捕えられ、12 彼らの家と畑と妻とは共に他人に渡る。わたしが手を伸ばして、この地に住む者を撃つからである」と主は言われる。

 こちらは6章11節ではなく12節に「撃つ」とある。11-12節は連結して解釈すべきなので、この箇所をとれば、トランプは神の怒りによって撃たれたというべきである

アモス書
6:11 見よ、主は命じて、大きな家を撃って、みじんとなし、小さな家を撃って、切れ切れとされる。

ミカ書
6:11 不正なはかりを用い、偽りのおもしを入れた袋を用いる人をわたしは罪なしとするだろうか。

 預言者アモスの6章11節をとれば、神の命令で共和党、または大きな家(ホワイトハウス)が撃たれた、と解釈すべきか。ミカ書なら、トランプ氏の今までの罪の結果だ、と言わんばかりだ。

 とまあ、こんな感じで色々とトランプと旧約聖書を結びつけるには都合の悪そうなことが書かれている。一方、新約聖書では、それなりに前向きに解釈できそうな箇所もある。

ローマ人への手紙
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 トランプ氏は九死に一生を得た。それゆえ、今回の狙撃によって、トランプ氏は、神に向かって生きる、神に選ばれたのだ、と読めそうである。ロマ書のほうがトランプ氏を聖書になぞらえた模範として採るなら、通りがよいかもしれない。

 以上のように旧新約聖書66巻、そのほか第二正典、偽典などあげればキリがない。都合よく現実を聖書に読み込める箇所もあれば、意味不明になる箇所もある。たとえば、第一サムエル記である。

6:11 主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。

 おそらく第一サムエル記6章11節とトランプ氏狙撃を結びつけるのは不可能である。つまり事件の発生時刻から米国大統領選挙の正当性を聖書に結びつけて読み込むのはムリがある。ところで、こんな箇所もあることを言い忘れていた。「初めにことばがあった。ことばは神であった」という冒頭の区で有名・大人気のヨハネの福音書だ。

ヨハネ福音書 6章11節
 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。

 エペソを採用すれば、トランプ氏は神の使徒のように読める。ヨハネ福音書を採用すると、イエスはトランプ氏が撃たれたことを感謝して思わず人々に食事を分け与えたことになる。現在の歴史的事件を聖書に結び付けて解釈することが如何に無駄か、お分かりいただけただろうか。

 というわけで、今回の暗殺未遂で亡くなられた方の御遺族、また故・安倍首相の御遺族に深い慰めがあるように祈りたい。そしてトランプ氏が回復し、米国大統領選が御心に適うように、同様に、ぼくらの国の政治の躁鬱もまた改善されるようにと祈る。

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

 ぼくらに求められているのは、暇と脊髄反射の語呂合わせではなく、ハトのように素直で、ヘビのように賢い市民、社会に仕える管理者としての投票と生活なのだ。そして何より、キリスト教信仰の固有性としての希望を発露することである。希望とは、善をあきらめないことである。

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