近代日本とキリスト教 序の解題
研究に直接かかわる内容として『近代日本とキリスト教』がある。久山康(1915-1994)は、関西学院大学の優れた宗教学者・教育者だった。1956年、久山の発案・司会のもと、座談会『近代日本とキリスト教』が開催された。
参加者に名を連ねるのは錚々たる面々である。高坂正顕、山谷省吾、亀井勝一郎、小塩力、椎名麟三、隅谷三喜男、猪木正道、北森嘉蔵、武田清子、西谷啓治、武藤一雄、遠藤周作。彼らが明治・大正・昭和・戦後のキリスト教・戦後日本精神史を縦横無尽に語り尽くし、丁寧な補足をもって書籍化したもの、それが『近代日本とキリスト教』全四部作である。
六十有余年を経た今、あらためて四部作を読むと何が見えるのか。彼らが共有し了解していた前提――文献学的現在との距離は、そのまま六十有余年後のぼくらとの歴史的距離を示すだろう。
何が問われ、何が失われ、何があり得たのか。「平成」二回分の時代を遡り、当代一流の作家たちが何を考えていたのか、それをメモ書き程度に記す。
全体の序
全体の序は、敗戦の衝撃から立ち上がる新しい日本には二つの研究が必要だと始まっている。すなわち「社会科学」と「宗教」の立場から『近代的世界を根柢より把握し批判するために』『日本の精神史を探る』必要を問うている。『キリスト教を措いて新しい文学の運動も、社会主義の運動も考えることはできない』明治時代であったにも関わらず、文学も政治もキリスト教から分離した。
最大の問題は、キリスト教信仰が、キェルケゴールやドストエフスキイの確信したように、人間の究極の生存根拠であり、さらにまた新しい日本建設の真の基盤であることを確信しながら、しかもプロテスタント開教百年を迎えんとする今日、キリスト教はその教勢少しも振わず、祖国のこの未曾有の転機に際して、殆ど何等の力ある働きをも為しえないことである。
平たくいえば、なぜキリスト教は日本で流行らないのか。本書はこの問いを『近代日本史全体の動きの只中で検討しようと意図した』ものだ。それゆえ、教会内だけでなくキリスト教の外から、有識者として哲学の高坂、批評・文芸の亀井、ロシア・ドイツ思想の猪木が請われて座っている。
いいかえれば「近代精神とキリスト教」の共同研究を志した座談会、それが『近代日本とキリスト教』だった。
討議の課題
なぜ日本ではキリスト教が流行らないのか。久山は、上掲の目的のために参集した学者たちに、何を問えば問題を明らかにできるのかと順次問う。
亀井勝一郎いわく『明治、大正、昭和の三代に形成された「近代日本人」とは何か』『この三代を民族の一大変貌期というふうに考えて、その独自性を摘出してみたい』。その際、少なくとも三つの問題がある。
第一は、観念的な混血作用からどういう性格が生まれて来たか、つまり現代文明の混乱と危機の問題。第二は、倫理的宗教的空白の問題。明治以来、国民の自発性に基づいた宗教・倫理の在り方がなかったのではないか。第三は、東洋と日本の関係。日本の「近代化」は、東洋において、どのように機能し役割を果たしたのか。
亀井によれば、とくに第二の問題『宗教的あるいは道徳的空白状態』、その空白への「危機の意識」こそが、明治にはプロテスタンティズム、大正のヒューマニズム、昭和のコミュニズムの呼び水となった。同時に、亀井は、これらへのリアクションとして国粋主義と民族主義を置く。加えて、何れも日本では迫害を経験し、戦後一挙に息を吹き返して「民族の危機意識」と結びつこうとしている。なぜなら、日本人一般に強い信仰が見当たらないからである。
亀井は、この強い信仰の不在による思想潮流の状態を「日本固有の混乱」と名付け、全体の口火を切っている。
【感想】
亀井の発言を裏返せば、近代化における「宗教の不在」こそが、日本の固有性を担保する。アブラハムの宗教の不在、それらとの距離こそが日本の固有性の中身である。言うまでまでもなく「宗教」とは、西周が翻訳し名指したそれである。加えて「日本」「民族」「固有性」の用語法、元号による時代区分における恣意性は、現在では問わざるを得ない。しかし、ある程度の妥当性は読み取り可能だから、棄却するほどの内容ではない。むしろ、平成を終えて令和を迎えたいま、よりビビッドに「元号」という意味世界の形が見えてくるように思える。
亀井は「日本の固有性」を、アブラハムの宗教の不在に置くことで、「なぜ日本ではキリスト教が流行らないのか」という問いを言い換えている。すなわち「日本性」性が最大化され、もっとも現れる場、近代国家「明治・大正・昭和」期における「技術≧宗教」の関係に注目したのだ。
以下は、余談である。歴史研究であれ思想研究であれ、過去というテクストを読むには、その話者の内在的論理を貫徹し、主体が見ていた意味世界を明確化し、その価値を最大化することは前提である。現代の価値観ではあり得ない表現なり発言なりがあったとしても、それは何一つ問題とならない。
まずテクストの前提する意味世界と思想の価値を最大化し、その内在的論理そのものによって思想を再帰的に批判しなくては、それは批判にはならない。この手間を省くあらゆる批判「的」行為は、よくて非難、往々にしてお気持ちの表明にしかならない。非難とお気持ちは感傷であって、学術的に取り扱えない。
話を戻す。この批判的読解を他なる時空と連絡し、文明における価値転倒と救済を行うとき、それは批評となる。
無論、文献学的・歴史的な学術的厳密さは当然である。しかし、それを踏まえた上で、用語法と事実誤認に拘泥する者は、そもそも思想には向いていない。問題はテクストではなくて、無能な読み手の側にある。
(次の発言の解題、感想へと続く)
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