(短歌)村木道彦歌集を読む&「論ずる」についての葛藤

遅々として進まない短歌勉強ですが、わたしはようやく村木道彦さんまで行き当たりました。

何か色々ごちゃごちゃと書いてしまいたくなるんですが、気になったのを取り出して書く…という形式にしてみました。
(といいつつところどころで呟いてます。)

ひだりてからみぎてににもつもちかえてまたあるきだすときの優しさ

きみはきみばかりを愛しぼくはぼくばかりのおもいに逢う星の夜

川沿いをひとりくるときくさはらにるいるいとある貝のうらがわ

「貝のうらがわ」は海のそば、それから川、水辺の近くを通るわたしたちのそばにいつもあるのかもしれない。風景と自分、感覚が一体化してしまったような短歌…そういうのが好きなのです。

耳垢ひとつ内耳の奥に堕ちつつをほのぼのとして道ゆきにけり

ゆうぐれは芯もつごとし 野のかなたひとつともしをともすまどみゆ

失神という語はひどくみだらなり神を失うということなれば

ゾーリンゲンの剃刀あてつつわがほほに〈すがすがしき人生〉など思うなり

死にどころなしとてあゆみ行きたれば鶏舎を過ぎてのちにおう風

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら

これも以前見たことがあるけど若い人のものだと思っていました。歌集全体で、村木さんの主義を知った後で詠むとなるほどと思えてくる。軽薄さをよそおいつつ、かなしい。けど言葉がシンプルだから沁みてくる。

黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇

水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうえたるただ麦畑

スペアミント・ガムを噛みつつわかものがセックスというときのはやくち

失恋の〈われ〉をしばらく刑に処す アイスクリーム断ちという刑

とりあえずここまで…
この五首、並べるとしびれます。

村木さんの感じているのは身体のそのままの機能、それから自然を感じる感覚、人との絡みに対して少し距離をとり、それを表す語句がユーモア、というよりも自虐?おかしみ、たのしさ、そこにどこか哀しみがある。没入することで自分を失うことを恐れている、そういう感じも受ける。しかしわたしは何かこの感覚、分かるなあと思う。たとえばスポーツマンみたいにがしがしぶつかって言ったり、会ったその場でプリクラ撮ってイェーイってやるようなノリで人を知るみたいなことがどうしてもできない。恥ずかしかったり変なプライドがじゃまをしてなかなかうまく話せない、さらけ出せない。側からみると悩める中高生そのままの気持ちが、まだある、戸惑い。やっぱそういうとき、孤独を感じる時って短歌が光って見えるなあと思います。


◯追記◯論ずる…の難しさ。それと、歌集の読み方と関係性

歌集っていうのはなかなか手が届きにくいものだ。高いし、あまり売ってないし、古いのだと絶版になっていたりする…
ちょっと前に好きな歌人の歌集買うためにわたしは一万円払わざるをえなかったということがありました。おそらくそれは歌人からしても本意ではないだろうけど普段けちな自分がどーしても、今、買いたいと思ったんだからしかたがない。何度も読んでるし、後悔はしていないけど、そんなふうに探してみてもないっていうのが歌集っていうものだったりして、いろいろを「読みたい」と思うのに小説、エッセイのようにブックオフで100円とかパッと買いに行ったりも出来ない。やっぱり知ることで興味が湧き、触れることでもっと深く知りたいと思うもので、歌人を知るためには歌集を買うのが一番良いことだとは思うけど、そんなふうに、歌集っていうのはなかなか敷居が高いものであったりして、わたしのようないち生活者では、「よし、買うぞ!」と思わないと買えないものです。

いっとき、思っていたのは短歌の「私性」について。そういう文化のある中で短歌を読むということは歌の理解=作者の理解に直結しがちです。が、最近はそれは一体どうなんだろうと感じています。

丁寧な評も勿論ありますが、中にはそんなことをさらけ出して、又は暴いてしまっても良いの?みたいなものもあって、食傷気味になってしまうことがある。「評」を人生込みで語ることってもしかして、けっこう乱暴に知識を自分のモノにするってことなんじゃないだろうかと感じてしまうのである。そしてそれは逆に、歌を作るときには「わたし自身」を受け入れてもらいたいという方向にも向かうのだと感じる。自分の場合はそうでした。

安直にああ、わかった。分かったよこれ。そんな風に考えて「これは、こういうことだ」なんていう。でもあなたにそれが、そのままで詠めますか。 なんていうか、その暴けばもう抵抗できまいというような安直なこころの動きと、ここまで人を細微に書いてしまい、かえるの解剖図みたいに人の人生と感情を自由きままに暴いてしまったもののうえで「好き」または「きらい」みたいにいう乱暴さにはやっと咲いてる花をむやみやたらに抜いてなんの感情も抱けないような感じがしてしまい、人間ってものに対して虚しくなるんである。もうだから、やってることとしてはSNS上のファックと変わりないようなことをもしかして「人を論ずる」時にやってしまってることが、もしかするとないだろうか。その時は分かっていなかったけど何か「ああ、いやだ」っていう感情は、人が人を食らう、または人をさらけ出しすぎることで感じてた気持ちだったんだと今では思う。

それだけで忘れられていってはいけないように歌を読んでて思うことがある。しかし、そういうのも先人達の綺麗な歌を読んだ時に「はっ」とさせられたことによる。
てわけでわたしの感じたこととして、

・他人の何かを煽るような歌は、青い(若い)
・言いたくなる気持ちを抑えて、自分の気持ちをひもとく
・人の人生、感情はその人にしかないもので、暴いてはいけない(それは、心理学という専門の領域です)

というのを自分自身も気を付けたいなと感じているのでした。じゃあ短歌において何を紐解けば良いのかというと、語句選びやもっと推敲するための技術、知識みたいなものでしょうか。とにかく「人」を扱うというのはなかなか重くて恐ろしげなことだとわたしは感じています。

自分の場合は何か本当に自分の好きな歌に対しては言及することが苦手で、「なんか好きだ」くらいしか言ってなかった気がする。何か言うことで余計なことになってしまいそうに感じてたんですね。いや、言ってた…か……な?

まあ、とにかく、やっぱ自分が感想もらえると単純になんだとしてもうれしいので感想をなるべく素直に書いてみてもいいんじゃないかみたいな感じに今はなってます。
短歌っていう世界に対して、考えが泥濘にはまりそうになることがある。かろうじて短歌二年生のわたしであった。

※春日井健さんの「われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みてみたり」の少年院の歌に刺激を受けて作った筆者の連作「風呂敷を広げた絵空事の街」https://note.mu/wwtspp/n/n105672acd084です。なんというか、これを読んで青年特有の潔癖さがうらやましいと感じてしまったわたしなのである。「われよりも熱き血の子は許しがたく」そういう感情は自分にもあるかもしれない。で、女カバー、ていう感じです。こういう読みかたもあってよいのではないでしょうか。(ただ、あまりマジでぶん殴って来られるテイストで読まれると困る)

それから、こちらは三浦しをんさん「きみはポラリス」を読んで作った連作。わたしは同性愛者ではありませんが、イメージとしてそんな感覚「あるかもね?」で読んでいます。これも創作、デフォルメである。
https://note.mu/wwtspp/n/nfa6c70f323c6
女性という存在はわたしにとっていつも遠く感じられる。

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ポエム、詩、短歌などを作ります。 最近歴史に興味があります。