教わり方を教われなかった
子供の頃から、人に何かを教わるのがヘタだった。具体的に言えば、テストの紙に決まった答えを書き込むのはなんとかできたが、実技の試験で練習通りにカラダを動かすなんて類のことはワケモワカラズやっていた。
「わからないことを質問する」というのも、なんだかよほどわかったことでないと質問する気になれなかった。ああいうのも、ワカラヌ!と思った瞬間に条件反射的に質問できたほうが、教師とのコミュニケーションもはかどるし、それで自学自習するやる気も出たことだろう。だが、私にはそういう〝筋肉〟のようなものもなかったし、職員室に入るのはずっと恥ずかしかった。
大学受験向けの予備校が出しているような受験参考書、要するに攻略本のようなものばかり読んで、なんとかペーパーテストをしのいでいるばかりだった。「先輩から教えを授かる」とか「指導教授に添削してもらって学ぶ」というのがまるでなかった。テストの答案を見直したこともほとんどない。それがどうやらもっとも学習効果が高いらしいと思ってはいた。しかし、もう二度と見たくないという嫌悪感があまりに強くて着手できなかったのだ。
書面になっていない、口伝で教えられる生々しい知識というものに恐怖心があったのかもしれない。例えば軍隊を描いた映画などをみると、隊長が隊員に作戦を簡潔に伝えたりしているが、果たして口で言って復唱もせずに伝わるものなのかと思ってしまう。あれはテンポを損なわないための演出だとして、仮に復唱などがあってもアタマの中に内容をおいておける気がとてもしない。
或る意味では「この教科は好きな先生に習ったから好きで、でも別の教科は嫌いな先生に習ったから嫌い」というのも無い。なぜならば、そもそも教師との人格的交流という体験の絶対量が欠けているからだ。
これらの困難は大人になって就職してからさらにひどくなった。現場で書面に書かれてない業務の知識を獲得していくという経験を通じて、結局失敗と怒られを通じてしか得られない知識というものがあり、そこで情緒的にはやり過ごして知識だけ貯めておけば次は何とかやれるか、少なくとも「前回こうだったので今回もそうしました」という弁解は立つところまで来た。「教わる」とは言えないレベルだが、経験から忍耐強く学ぶやり方を少しは身につけたというわけだ。
今の事務仕事でも、何をやるにも規定をみたり、エビデンスを残したりしなければならない。時間は比較的自由に使えるが、やったことやらなかったことについてはそれぞれ理由をつくれないといけない。慣れてしまえば楽ではあるが、慣れることができたのは失敗の積み重ねがあったからで、教科書で勉強したからでも先輩のアドバイスのおかげでもない。すべて、体当たりである。
(1,126字、2023.10.07)
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