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経験と人格 experience and person

なにごとかを経験するというのには境界的な側面がある。というのも、それは単にあらかじめ決まったタイプの値あるいはデータを取得するということではないし、そうかといって全く理解不能な新しいタイプの内容に触れるわけでもないからである。

新しい経験とは、表計算ソフトに行 row あるいはレコードを追加するようなものではなく、新しい表が発生して既存の表との関係付けをしなくてはならないようなものである。なぜならば、新しさというのは既存のカラム(列)に収まりきらないからである。

とはいっても、そもそも表に書かれた離散的な記号列に収まらないか、収められないようなものも無数にあり、記号をいくら表の上で動かしたり計算したりしても、データが原理的に無いようなことについては解が出ない。また、名簿をいくら操作してもそこに記名された人間集団を動かすことはほとんどできない(個人情報を漏洩させれば騒ぎにはなるだろうが、それも名簿を誰かが悪用することを予期してのことであって、名簿自体が悪さするわけではもちろんない)。

ところで、人格と物件とは根本的に異なるというのが古代ローマ法以来の我々の前提である。だから、人格と物件は別扱いしなければならない。その一方、貸し借りの無い自由な市民同士は法の下に平等でもある。これは希有な考え方である。なぜならば、我々は何にでも差異を見いだし、そこに落差をみて価値を見いだすからである。言い換えれば我々は原則として差別的であり、差別化をはかろうとする生き物である。そして、差別され整理整頓された財産を我々は帳簿に書き留める。

物件について、現代ではなおさらこの整理整頓が徹底されている。あらゆる物件は数えられ、貨幣の量によって測定されている。例えばペットや田畑やリゾート地の雑草ですらそうである。一方、人格に付帯するものも、様々に細かく区分され、労働やサービス、健康状態なども客観的に事細かに査定される。我々が肉体的存在であり、また我々が肉体を通じて他者に関心を持ち、ときにはそこに金銭を投じるということから、この現象は無くなることはないだろう。

それにもかかわらず、やはり人格は別扱いであり、平等である。根拠は法でも神でもよいが、少なくとも客観的な要件なしに人格は差別されるべきではないとされる。一方、我々は集団の一員としても、国民としても一人一人識別される。すなわち、他の誰かと間違われないように手配されている。それは当然、必要なだけの差異を使って「これだけの特徴を持つのはただ一人しかいない」とか「この番号が割り当てられているのはただ一人しかいない」というかたちで識別されるのである。人格において「平等」だというのは、我々の値打ちがただ一律に同じ same value だというだけではなく、我々がお互いに対称的、シンメトリーであることも含んでいる。

我々は相互に識別可能でありながら、それでいてどの属性、どの規定によっても差別されるべきでもなく、またどの属性も物件のように測定され消費されてしまう存在である。

私たちは名簿を書き留めるとき、例えば一番左の列に名前もしくはIDを書くかもしれない。そこから、右に何列かを追加して、そこに例えば年齢や身長や住所の列をつくるかもしれない。この右にある列はほとんど経験できるものだろう。年齢や身長は測定したり、証明したりできるものであるからだ。しかし、我々は名簿の一番左のIDが指示する何ものかは経験できない。IDは単なる記号だ。それが何かを指していて、それが持つ様々な属性は経験可能である。だから、IDは必要であり、我々の経験を支えている。しかし、IDが指示する何者かがあるとすれば、我々はそれを経験することはできない。

すると、そのような指示対象は無いのだと言いたくなるのだが、現に経験が成立していること、それから我々がそのIDが指示している持続的な人格を仮定していることから、なかなかそれを廃棄しきってしまうことは難しい。人格もまた真理のように隠蔽されたもののひとつであり、超経験的であるにもかかわらず、それがいったん発明されると、それの地位と権利を認めざるを得ないもののひとつである。

(1,718字、2023.12.06)


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