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継続時間より着手頻度 more tries make more progressions

今日は10月31日である。本題に入る前に近況を一言入れると、最近オセロ(リバーシ)の学習をしている。オセロの競技性として、古典的な定石や考え方を知っていれば99%の「ルールだけ知っている人」(日本に6000万人いるとも言われる)には負けなくなるという特徴がある。しかし、昨日(30日)はその残りの1%の人と対戦し惨敗した。そういうわけでこの記事を執筆しているときもひどく気分が落ちている。

さて、大学受験をしていた遥か昔には、一日に何時間も一人で勉強する、しかもそれを何日も何ヶ月も継続できる人がいると聞いて信じられなかった。というのも、机に向かって学習する(一人で座学する)ということが当時の私には5分続くかあやしかったからである。

思い出せる珍しかったこととしては、小学生の夏休みに一度だけ過集中?できたことがあって、そのときは一日10時間以上算数の教科書の問題を解き続けていた。異常な時期であった。もちろんその学年の問題はすべて解いてしまった。しかし、算数の問題だけたくさん解けてもしょうがない。それ自体で叱られはしなかったが、添削する方も勝手に持ってこられてもたいへんなわけで、それ以降は私自身も同じように「燃えて」座学に取り組むということはなくなってしまった。せいぜい中学のときの一夜漬けがせいぜいで一夜漬けで対応できない学習量になるともはや耐えられなくなり、高校では落ちこぼれた(という話は知り合いには何度かしたことがある)。

それからは集中してひとつのことを仕上げる(以前に書いた記事で言えばトップダウン的で計画的)ことはあまり目指さなくなった。元から学校の課題などでも目指せないような集中力のない児童だったこともある。なんでも間に合わせ・いい加減で済ませるようになってしまった。返事も生返事ばかりで、中身・実行が伴わない。それでも外見?だけは利口そうにみえるようで本の口真似をすると「頭がいい」という評価をもらった。きっとそのうちの何割かは他に誉め言葉がみつからなかったという意味の社交辞令だろう。

発達障害の診断をもらい、工場の現場に入って、或る意味では言い訳がきかない、そして極めてわかりやすいモノづくりを体験したことでコツコツ反復すること、自分が嫌でも過ごさなければならない退屈な環境を改善する喜びを学んだと言える。それでも体調は悪かったが、試行錯誤の末、関西から関東に引っ越し、所得は倍になった。

工場にいたときから、ボトムアップで作業を蓄積して上達することの重要さ、また経済的には貯蓄の重要さを学んでいた。それまでは優秀な他人の叩き出す夢のような成果ばかりを望んでいたが、今はもうそれは夢は夢として、方向性としてしかみていない。言わば航海の指針にはするが、そこに到達することは無い北極星のようなものだ。

よく言われるような、目標から逆算して今日はこれをやる、明日はこれをやるというのは私には一際難しいようだ。なぜならば、私には短期間の集中力が無いからだ。似たようなことをひたすら反復して短時間でできるようになったり、運良くコツをつかんだりしていくことを重ねていくしかない。それでどこにいけるのだろう。まだ何もわからない。

ところで、昨日(30日)はオセロで対戦し惨敗した。そういうわけでこの記事を執筆しているときもひどく気分が落ちている。

(1,375字、2023年10月31日、No53)

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