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法の支配 vs. 法治国家 Rule of law vs. State of law

最近はフランシス・フクヤマの『リベラリズムへの不満』(2023)を読んでいる。近年の「リベラル批判」を概観し、簡潔に素描した上で、それらの批判や反対派にも一定の妥当性あるいは正当性があり、またリベラリズムも完璧なものではなく不十分だが、それでもリベラルな民主主義が擁護されるべきであると論じたものである。読みやすい。

そもそもリベラリズムとは何なのかについて多くの乱れた解釈があるが、フクヤマはリベラリズムとはまずもって「法の支配 Rule of law」だと規定する。

法の支配とは、法秩序が行政権力に優越することであり、たとえ民主的な手続きを経て選ばれた行政権力(例えば米国の大統領)であったとしても、既存の実定法がそれを制約するということである。かつ、そのような法秩序の運用は立法機関(議会)と司法(裁判所)によって支えられている。

法の支配における法とは、自然法を基礎とするものであり、例えば、自分自身の身体や財産の所有権を担保するものである。これは当たり前のことに思われるかもしれないが、たとえ民主的に私有財産権などが制約されることは十分あり得る。しかし、法の支配においては私有財産権のような基本的な人権はたとえ民主的な手続きを経たとしても自然法の一部としての普遍的な人権によって制約されるため、私有財産権は担保されるのである。例えば、米国の内戦=南北戦争時に民主的に奴隷制が肯定されているという論者に対し、リンカーンは独立宣言を参照し、

われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。

米国独立宣言(1776)

という平等の普遍的正義は当時の民主的選択に優越するとして戦争を進めた。これはリベラリズムの普遍主義、また法の支配の実践と言えるだろう。

このような英米系とされる自然権に立脚し、かつ普遍主義の「法の支配」に対して、欧州大陸系の「法治国家」論あるいは法治主義は言葉は似ているが、毛色が異なるものである。

「法の支配」においては、法は実在する。なぜならば、法は自然権として人類に先立って存在するのであって、だからこそ個別の自然法は「発見」されるし、人権もまた「発見」されたと考えるのである。いや、理論的な構成として、あるいは普遍主義を貫徹するためにそう考えざるを得ないのである。

一方、ドイツの「法治国家」論も行政権力を法によって制限すべきであるという点では法の支配と共通するのだが、法の外部に普遍的な善悪の基準を持っていないという極めて大きな違いがある(いわゆる悪法も法であると考える)。法は民主的に成立し得るが、その法が普遍的な正義にかなうかどうかについては頓着しない。なぜならば、法とは飽くまで行政権力の暴走を止めるための道具でしかないからである。

したがって、法が行政権を制限する必要に先立って実在しているとは考えない。なぜならば、法は行政権を成約するための道具として、その都度技術的に「発明」されるだけだからである。このような立場は法実証主義 legal positivism と呼ばれるだろう。また、このような立場からみれば、「自然権」などという考え方は妄想として捉えられるだろう。例えば普遍的な人権は普遍的な政府(世界政府)によって担保されなければならないが、現在はそれを担当する機関は存在しないからである。すなわち、世界警察もなく、国連常備軍も2024年現在まで存在していない。

とはいえ、そのような「妄想」が神話あるいはタテマエとして、つまりテキストとして存在しないことには、現在世界中で起こっている武力紛争に対してどの程度の正当性を与えたらいいのか、どの程度の大義名分があり、それらに対して第三国は援助すべきなのかどうかを記録し、評価できないだろう。他のもっとマシな枠組みがあればいいのだが、現在のところ、「法の支配」を英米が世界の他の地域に押し付けることによって一定の秩序が成立しているのが、ひとつの現実でもある。

(1,689字、2024.09.18)

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