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名前の不思議

名前、あるいは固有名詞の不思議さについて幾つか書き留めておきたい。


物の名前、一般名詞、必然性/偶然性

物とその名前との関係は必然的だろうか。それとも偶然的だろうか。

一見、物とその名前との関係は偶然的に見える。なぜならば、例えばペットに対して名前をつけるとき、それはどんな名前をつけてもよいとされるからだし、あるいは同じ物に異なる言語や方言でまったく異なる名前が割り当てられていることもあるからである。

一方で、例えば、慣れ親しんだペット個体に対して、あるいは自分との結びつきが強いペットに対して、もはやその特徴(=内包、規定)ではなく、名前でしかそれを表現できないことがある。つまり、同じ特徴を持った他の物と交換不可能だと思えるほど愛着を持ったペットは、もはやその名前でしか表すことができない。なぜならば、唯一無二のペットが亡くなったとき、「また類似の特徴を持った別の個体を飼えばよい」というわけにはいかないからである。この段階においては、名前はもはやそのペットの諸々の特徴から独立しており、名前はそのペットに外挿(がいそう)されたものではもはやなく、そのペットの存在とぴったり張り付いた必然的なもの、他では有り得ない記号列となっている。

故に、当初は事物に対して偶然に名付けられた名前も、時間を経ることによって、事物の諸特徴(これらは変化し得るし、偶然的である)から独立して必然(=可能性を排除した無様相)になり得る。名前は偶然と必然との二項対立を越境する。

さらに事後的に考えてみると、或る時点までは事物は名前に対して偶然的な関係(=変更可能な関係)であり、それからしばらくして必然的な関係に入るということから逆算することもできる。そうすると、今必然的にその名前でしかあり得ないと思われているような事物(個体)についても、その名前を遡及的に以前は「偶然的」なものだったであろうとみなすことができる。

人の名前、個人名、プライベート/パブリック

人間の名前、人名についてはどうだろうか。ここでは名前はプライベートであると同時にパブリックな存在でもある。

名前のプライベートな側面というのは、自分の名前は自分のもの(所有物)であるという意識である。我々は自分の名前にこだわる。自分の名前を他人が使うことを気にする。他人が自分の名前を茶化したり、あるいはわずかに間違うだけでも自分自身の内面が侵されたように感じることがある。だから、自分の名前というものは、自分の内面、自分の心に深く食い込んでいて、我々はそれに愛着を持っているとも言える。つまり、名前は我々のプライベートな部分、魂の部分に踏み込んでいる。だから、我々は自分の名前がどう扱われるべきかについて、他人に口出しされずに決めることができる権利を持っているように思われる。それは社会的な立ち居振る舞いや物理的な身体のあり方によって規制されない、独立した自分の名前に対する〝尊厳〟であり、プライベートな権利である。

一方、私の名前というものは、いったん名付けられてしまえば、それを使うのはもはや私自身ではなく、ほとんどが他人たちである。ここでは名前はパブリックなものだ。名前はその所有者の自由にはならない。それどころか、私は自分自身の名前を恣意的に変えることのは難しい。名前は公共的なものなのであって、さまざまな規制に縛られている(例えば日本人の名前はそれに使える文字が限られている)。あるいは、他の人と名前があまりにも重複していれば不便な思いをすることもある。また、名前が「売れて」有名になると、それはますます公共的なものになって、自分でコントロール不可能になってしまう。

故に、名前は私自身の特殊な内面性(=アイデンティティ)に紐付く私秘的なものであると同時に、公共の場において私の身体や発言を指し示し識別するためのIDとして私自身にも自由にならない公共性を帯びている。

神様の名前、神の存在証明、概念/無概念

神様の名前について考えてみると、一つの考え方としては人間が神様に勝手に名前を与えたり、神様の特徴を認識してそれにちなんだ名前を与えることは立場の上下からみて傲慢であるとも考えられる。だから、神の名前は神自身から人間に授けられることになる(例えば旧約聖書ではモーセはシナイ山で神からその名前を教えてもらった)。

それは人間が神の名を呼んで祈ることができるようにするためであるとも考えられるが、しかし神の名を呼ぶことを畏れ、控えめにしたユダヤ人たちは、長い歴史のうちに文字として記された神の名を正確にどう発音してよいか、忘れてしまったという。

神の名前を正しく認識し、呼ぶということは重要なことである。それは例えば日々祈祷するということひとつをとってもそうだ。ところが、我々は神の特徴というのを必ずしも知っているわけではない。いや、むしろ全く知らないというのが人間として謙虚な態度になるだろう。もしかすると、我々が知っていると思っている神の特徴は偽物の神の特徴かもしれない。偽物の神は〝デミウルゴス〟と呼ばれたり、偶像と呼ばれたりする。それらを崇拝してはならない。

だから、偶像崇拝を回避して、本物の神の特徴、我々が祈るべき神にふさわしい特徴をどうにかして見つけなければならない。そして、「神の存在証明」のような試みが歴史上何度か行われてきたが、それも神の正しい特徴認識を前提としなければ、(たとえ証明が成功していたとしても)偽の神の存在を証明したことにしかならないだろう。

神が世界の設計者であるとか、世界の第一原因(=自己原因)であるといった特徴づけというのは、我々の経験の延長で神に何がしか良き特徴づけをしようとしているに過ぎない。一方で中世の神学者アンセルムスは神の特徴として「偉大さ」と「存在」だけを考えたが、これらは彼の存在論的証明の中で我々の経験を常に超越するようなものとして作動する装置であった。

我々の経験を考えるたびに超越するような装置というものは常に我々の概念を超え出ている。だから我々が名前で呼ぼうとすればするほど、それは名前で呼び切れない余剰を呼び起こす……そういう気がしている。ここについては私の中でも詰め切れていない。

虚構の名前と夢の名前、純粋外延/純粋内包

ところで、いわゆる「空名の問題」と呼ばれているものがある。例えば「シャーロック・ホームズ」という架空の人名には意味があるのか? 意味があるとしたらその指示対象はいかなるものであるか?というものである。

我々が「ホームズ」の指示対象として何を表象するかについては、例えば、その小説を読めば様々な属性や記述の束を得ることができるが、いったい「ホームズ」として通用している意味はそれについて話す人々の間で共有されているのかとか、ホームズの頭髪が何本であるかまで確定されている必要があるのかなどが論点になってきた。

ひとつ言えそうだと私が思うのは、小説などの虚構の中に固有名詞らしき単語が出てきたときは何か純粋な「個体の型」「個体の設計図」のようなものから、ひとつのっぺらぼうの個体を鋳造して、様々な性質をそこに帰属させられる基体をつくっているのではないかということである。これは言ってみれば純粋な外延あるいは純粋な質料であるとも言えよう。

一方、話は飛ぶが、眠ってみる夢で耳にする名前は「純粋な内包」であると私は考えている。なぜならば、夢においては実在しない人物に出会ったりするからである(例えば「現実では長男であるはずの私の兄」や「現実では一人っ子であるはずの友人の妹」に出会う。もちろん会ったこともなく、それ故に実在するかどうかわからない人々にもまるで旧知の友人のように接することもある)。このような表象は現実には存在しない──すなわち外延が存在しないのだから、純粋な内包と呼ぶのがふさわしいだろう。

このように純粋な外延と純粋な内包という形で並べてみるといかにも対照的であるようだが、両者は識別不可能ではないか──そういう気もしてくる。

語り得ないもの

固有名詞は語り得るものと語り得ないものとの限界に立っている。

というのも、およそ語り得るものは何らかの特徴(内包)を持っているが、固有名詞はそれらの特徴から独立しているからである。

例えばダートマスという地名を考えてみると、それが指す町はダート川の河口にあるが故にそう命名されたという。しかし、仮にダート川が消滅したとしても、「ダートマス」が消滅するとは限らないだろう。だから、我々は「ダートマス」という固有名詞の指示対象について「ダート川の河口にある」とかその他移ろい得る特徴付けを使うことはできないのである。

ダート川が消えても、ダートマスはダートマスであるとしか言いようがない。そこに永続しているのはその名前だけなのである。

参考文献

村岡晋一『名前の哲学』講談社選書メチエ719、2020。
入不二基義『現実性の問題』筑摩書房、2020。
谷口一平「ゾンビに語りうることと、A変容」「永井均先生古希記念ワークショップ:私・今・現実」発表PDF、2022。


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