大学進学で上京してくるまで、いわゆる地方都市に住んでいた。あらかたの施設が整備されていて生活に不十分のない、田舎ながらもかなりナイスな街だ。進学後も年1〜2回ペースでいまだに帰省しているが、東京という日本の中枢を知ってからもかなり住み良い街だという認識は揺るがない(観光客が多いのは地元民としては正直、謎ではある。どこへ行くのだろうか…)。
 そんな地元だが、生活を送っていた当時は気づかなかった不思議な風習がある。商業施設や公園など市の中心地へ赴くことを「街に行く」という言い方をするのだ。今更ながら「どこの?」って感じだ。それでも当時は全く違和感なく使っていたし、「街」と言われて目的地がはっきり認識できていた。

 なぜその言い回しの違和感に気づいたかといえば、上京後の実体験に伴ってである。東京には「街」がたくさんあるからだ。地元の「街」規模の街が数駅間隔でバンバンあり、さらに大規模の新宿・渋谷・池袋といった大都会まで存在していて「街」が特定できないのだ。この「街」という言い方は地方都市特有の表現方法なのかもしれない。他の地方都市出身の方にもお聞かせ願いたいところだ。きっと各々の「街」があるに違いない。
 当時の「街」はかなりコンパクトで自宅から徒歩で30分、自転車で15分くらいの移動で大半の目的を達成することができていた。アレが欲しいからあそこ、アレが食べたいからあの店、といった具合に非常にシンプルだった。上京してからは、大型書店も楽器屋も無印良品もたくさんある。これに慣れるまでは、いつも「すごいな…」と田舎者特有の感嘆をもらし、その選択肢の多さにアタフタしたものであった。10年弱暮らしてようやく電車にも何となく乗れるようになり、目的地も何となく決められるようになった。先日、車で郊外へ出かけ、真っ暗な道を通って帰宅する際、東京へ突入してにわかに明るくなりだした時に「帰ってきた感」を覚えるくらいには都会に染まった気がする。それでも馴染みの「街」は未だできてないし、「街」は依然としてかつて過ごした彼処を指している。

 移動手段はもっぱら電車になったが、それでも歩くのは未だに好きだ。時々、自宅から新宿・渋谷・池袋まで歩いて赴いたりする(池袋が多い)。住宅街オブ住宅街といった趣の居住区に暮らす私であるが、そんな自宅から大都会へ歩いて移動すると悲喜交々いろいろな気持ちになる。ナイスな飲食店を見つけて心躍ったり、公園で戯れる子供らをみて、童心に帰ってノスタルジックでしんみりとした感情になったり、「こんな細道通るの?」というちょったした恐怖心などさまざまだ。特にグッとくるのは住宅街から高層ビル群へ移り変わる街並みのグラデーションだ。特に自宅〜新宿間でそれを感じることが多く、何とも言えない不思議な気持ちになる。
 公共交通機関で訪れたことのある両地点を実際に歩くことで間の情報を補完し、当たり前ではあるが「本当に地続きなんだな」と再認識するのだ。その見知った箇所たちが繋がったときの快感が堪らない。脳内地図とでも言おうか。小さな「街」で育った私には東京はあまりに懐が深い。その脳内地図の探求に果てはないかもしれない。

 昨日は渋谷まで歩いて、ナンバーガールの解散ライブのライブビューイングを映画館で見た。3年ぶりの映画館。歩き疲れた身体を柔らかなシートが包み、轟音の中、少しウトウトしてしまった。「失敗した…」と思った。電車で行けばよかったね。それでも、足の重さとともに4度にわたる透明少女を心身に刻みつけた。再々結成もありそうな雰囲気だったので、今度は生で見たいものだ。
帰路はもちろん電車にした。暗くて寒かったので。

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