7.震える弥生

 加古のアパートまで着いたときには、もう20時前だった。慶菜は疲れたのか居眠りをしている。『女の子にしては、きょうはずいぶん歩いたからな』と思い、優しく
「着いたよ」と揺すって起こした。
「あ、ごめん、寝てた」
「僕の部屋に行って、きみがシャワー浴びたりしている間に車を返して来るから」
「うん。ご飯はどうするの?」
「飯はタイマーで炊けている。あとは悪いけど買ってあるコンビニ総菜でいいかな」
「全然いいわよ」と欠伸をする。
加古は助手席側に行ってドアを開けて手を貸す。
「疲れたでしょ」
「大丈夫。よ、る、は、よ、る」と区切る癖が出た。
 106号の加古の部屋に入り、シャワーの使い方を教える。室内はできる限り片付けておいた。
「10分程度で帰ると思う。鍵かけて行くから部屋からは出ないでね」
「わかった~」と風呂場のほうから反響した声で返事がした。
 加古も運転疲れが出ていたが、「よ、る、は、よ、る」だ。車を返し、レンタカー代金もカードで払う。2万円以上の支払いだ。『バイトもちゃんとしなきゃ』と思った。ちょうど春休み限定の熟講師の目星は付いていた。早く決めないと他人に持って行かれる。自分の自転車でアパートに戻ると、慶菜はもう服を着て待っていた。纏めていた髪は解いている。
「パンツ脱いで洗ったの、干していい?」
「ああ、脱衣場に干せるよ」
そう答えると、慶菜はポーチを持って立った。戻ってくると
「恥ずかしいからあんまり見ないでよ」と言う。
「うん」とは返事したものの、シャワーのときに嫌でも目に入る。が、言わなかった。
「だからいまノーパン」
「夕飯の前に犯すぞ」と冗談で言うと、
「うそうそ。替えの下着穿いてるわよ。でも服着たままはいいかも」と意外な反応。
「いまはスカートの中、見えないように気を付けてくれよ」
「はい」わりと素直に答えるところに品がある。
 21時過ぎに夕飯を終えた加古は、シャワーを浴びた。慶菜はベッドを椅子代わりにテレビを見ている。レースのTバックが干してあったが気にしない。いや見ると眼の毒だから。
 潮風に当たって全身がベトついている。髪を洗うと時間がかかるので、顔と体を念入りに洗った。そういえば慶菜はメイクを落としていない。一昨日も始めはそうだったな、と気付いた。できればすっぴんでしたくはない女心だろう。彼女はノーメイクでも十分美しかったが。
 部屋に戻ると、
「スマホ鳴ってたわよ」と言う。
スマホを見ると岩田からの着信だった。折り返すとすぐ出た。
「加古です。電話頂きましたよね」
「ああ、いまちょっといいかな」返事を待たず岩田は続けた。
「その後、身の危険はないか。何かあってからでは遅い。じつは、ウチの車両が不審車を追跡中、故意に追突されたんだ。覆面と知っててやったようで。しかも逃げられた」
「アズキ色のワゴンですか?」
「なぜわかる!」電話の向こうで岩田が声を荒げた。
 慶菜にあまり聞かせたくないと思い、加古はキッチンへと立った。
「きょうデートだったので車を借りたんですけど、迎えに行く途中で尾行されてるかもと思った車がそれだからです。その車はうまく巻きましたが」
「そうか。ナンバーまでは見てないよな」
「品川ナンバーなのはわかりましたけど。ミラーで見て」
「そこまでわかればウチの車載カメラとの照合で捕まえられる」
「僕はどうすれば?」
「身辺に十分注意して。彼女も含めてだ。できればきみと彼女の関係も知られないほうがいい」
「わかりました。何かあったら必ず連絡します」と電話を終えた。
 部屋に戻ると、慶菜が心配そうに、
「何かあったの?自転車のブレーキ?」と問いかける。
今後のこともあると思い、加古は、あった事実を全部話した。
「だから、きみも僕の彼女と知られると何があるかわからないから気を付けよう。ここを出るのも見られないように。次から待ち合わせは大学とかで。演劇部の稽古に通うときも注意してね」
 そこまで一気に言うと、もう隠し事はにゃあこ関係のことだけ。ある意味肩の荷が下りた。23時頃まで事件の話をして、さすがに「アイグレー」は極秘と思ったので言わなかったが、慶菜は、高校のクラスメイトだった多和田茜と矢野元教授の話をした。何がどうとは言えないが、怪しいなとは感じた。英文科。ただし相手は矢野。大学のラウンジ。キャビンアテンダントの話が本当だとしても、心に引っ掛かるものがある。覚えておこうと思った。
 日付が変わる前にテレビを消し、部屋を暗めにした。LEDなので、10段階に調節できる。ラブホでも明るいままだったから、今更見えてどうのということはない。
「ねえ、ちょっと襲うみたいにして」と彼女は真顔で言う。
「そういうの好き?」
「好きじゃないと思うけど体験はしてみたい。本当のは絶対嫌だけど」
 加古はいきなり慶菜をベッドに押し倒し、スカートをずり上げて太腿の奥に手をやった。替えた下着がすでに潤い始めている。加古は急いでスウェットの下を脱ぐと、紐Tバックをずらして、一気に奥まで入れた。昼間から焦らされていたので、加古は凄く興奮していた。慶菜は一瞬大きく叫んだが、痛くはないらしく、すぐにシーツに染みるほど濡れる。生で入れたので、あわてて途中でゴムを付けた。1回目の慶菜は着衣のまま終わった。2回目は裸同士で。そして二人でシャワーを浴び直し、慶菜はメイクを落とした。加古も顔に付いた彼女の化粧品を洗い流す。汗で頭が痒いので、シャンプーもした。
 もう、壁が薄いので隣に聞こえてると思ったが、106号は端なので、105室の独身女性に聞かれるだけならいいやと割り切った。結局あと2回して、さすがに二人共疲れて寝た。裸のまま毛布の中で抱き合って、加古の手枕で彼女は眠った。

 桜が満開に近い。花見の本格的な季節到来だ。その月曜日の朝、岩田は野津のベッドの脇に座っていた。
「女かどうか、ですか」野津は怪訝な顔をする。
「いま話したように、女性の集団が暗躍してる可能性がある」
「そう言えば」と野津は記憶を探る。
「屈んでいたとしても、わたしより小柄だったでしょうね、かなり」
 監視カメラ映像の分析で、パーカーのフードに隠れて顔は分からないが身長160センチ前後と判別できている。
「だとしたらノリベンも女にやられたかも知れん」
「ですね。ただ、そうまでして警告を出す意図は?」
「それなんだよな」と岩田は思案顔になる。
 アイグレーの話を黒猫にゃあこから聞いた岩田は、野津とも情報共有して、一連の事件を女性犯行の線も洗い始めていた。色川のところに行った四人からも事情は聞いた。ジムの女性更衣室マイクからの手掛かりがあるだろうか。警察が費用を負担して、すべての隠しマイクの録音を一日単位で保存できるようにさせた。野津を襲った凶器は果物ナイフのような物ではということだ。まだ発見されないのは犯人が持ち去ったせいであろう。
「ゆっくりなら、もう動いても大丈夫だそうです」と野津。
「嘘言うな。2日で治る刺し傷があるか」岩田はたしなめた。
「でも、のんびりしていても気持ちが…」
「それはわかるが、お前も生身だ。奥さんだっているんだし」
 そこへ、席を立っていた史代が戻ってきた。
「ああ、おはようございます。野津も大分痛みがなくなったようです」
「でも奥さん。動いていいなんて言われてませんよね」岩田は同意を求める。
「ええ、この人、気が急いていて、抜糸が待てないとか言いますけど」史代も困った様子で、
「せめてお医者様の許可が出るまでは、落ち着いて欲しいです。岩田さんと電話でちょっと話すだけでは、推理もできなくてイライラしてるんですよ」
「まあ、なるべく毎日来るようにするから。何か気付いたら電話してくれていいしな」
そう取り成して、岩田は史代に挨拶をして病室を出た。
 警察車両に当て逃げをした車は特定できている。間もなく逮捕したら、その犯人から裏を探りたい。岩田はそう思って署に戻ると、
「ああ、岩田さん、ちょっと」と若い刑事が待ちかねたように話しかけてきた。
「犯行に使った車は盗難車で、発見したのですが一切の痕跡がありません」
「下足痕ですら?」
「はい。何かを敷いて乗り、逃げるときに持ち去ったのではと」
「念入りに仕組んだ犯行か。こっちの動きもある程度知られている。不審車も犯人側の一味の可能性が高いな」
 そこへ科捜研の水野が来て、
「一応、車の床を拭き取って採取したところ、微量なんですがモルヒネを検出しまして、梶谷宅から押収したのもモルヒネで、この2つの成分はまったく同一です」
「なんだって!」岩田は驚いた。
「ただ、梶谷宅のモルヒネは、外箱に何人かの指紋があるだけで、中には一切指紋がないんです。梶谷さんは、入手したけど手を付けずに置いていたのでは、と」
「にしても入手先が知りたい。殺人事件の犯行との関連性も視野に入れているからな」
「麻薬捜査官にも報告して、調べている最中です」
「その結果待ちだな」と岩田は言い、自分のデスクでお茶を飲みながらしばし黙考した。
 痴漢、バイオレットピープル、殺人、MEA、アンダーテイカー、色川容子、加圧ジム、矢野元教授、篠崎陽晴、品田風美、アイグレー、加古を含めて捜査妨害と思われる犯行、そしてモルヒネ。要素が多過ぎて、頭がこんがらがって事件のこれといったヒントが見つからない。
 そこへ加古から着信が。
「おはようございます。いま彼女を用心しながらアパートまで送ったところです」
「そうか。彼女の名前は?」
「高島慶菜。明京の演劇部でクラスメイトです」
「身辺に警護をつけようか」
「いや、まだいまはそこまでの必要はないかと思います。で、ちょっと気になることが」
矢野元教授と多和田茜という英文科で慶菜の友人が大学で話していたのを伝える。
「高島さんはそこに居合わせたのか。進路の話はカモフラージュかも知れん。だけど矢野は痴漢同意派で、彼の何を疑えばいいのか根拠がないよな」
「そこが悩みの種で、僕もおおっぴらに警察に出入りできないので電話しました」
「なるほど。加圧ジムには隠しマイクを完全装備したから、潜入捜査もしばらくはもういいよ」
「そうなんですか。春休みはバイトとデートが忙しくて」とつい笑った。
「外では彼女とも手を繋いだりしないとか、用心して欲しいけど」
「それはもう気を付けてます。ちょっと不満ですが」加古の本心だ。
「彼女が襲われるより全然いいだろう?当面は我慢して。で、デートはどうだった?」
「最高でした。お金は全然ないですけどね」苦笑と溜息が混ざる。
「他に高島さんの目撃証言は?」
「えーと、そうだ、多和田さんがピルケースから何かを取り出し飲んでいたと」
「白い小さなカプセルでは?」
「そこまでは聞いてません」と慶菜の連絡先を教えた。
この際、慶菜も警察と連絡できたほうがいいとも思ったからだ。
 慶菜は加古と別れると、部屋着に着替えて寝不足を補うために仮眠に入った。寝入りばなに警察らしき着信がスマホに。眠気を堪えて出ると、
「三鷹北警察の岩田と申します。急いで聞きたい事があって、加古くんに番号を教わりまして」
「なんでしょう」欠伸をかみ殺した。
「多和田茜さんが飲んでいたというサプリか薬に見覚えは?」
「ないです。白い小さなカプセルでしたが」
内心の驚きを隠して、岩田は、
「ありがとう。参考になります。寝ているのを起こしたようでごめんなさい」
「午後は稽古に顔を出す予定ですが、普通にしていていいですか?」
「制限する権限はないけど、不審者に十分気を付けてね」と電話を切る。
 多和田茜という人物がモルヒネを服用している可能性が出てきた。しかし、だとしたら何だというのか、岩田は混乱するばかりだった。

 加古はその頃、塾講師の面接に行き、春休み限定で古文と数学を教えることになった。高校の数学程度なら問題なく教えられる。苦手科目がないのも加古の強みだった。明京大生の時給設定は高く、春休みの昼間だけで15万以上稼げそうだ。うまくすれば今後も週二くらいなら続けてもいいと思った。3年生になると進路のことがあるが、塾講師をしながら小説を書いてもいいかも、などと考える。できれば早速明日からと頼まれ快諾。服装はカジュアル過ぎなければいいらしい。それも有難かった。
 自転車で帰宅途中、後ろから自転車が猛スピードで追いついてきて、加古の左上腕を強く跳ね上げた。左肩に激痛が走る。逃げる自転車の人間は黒いフードを被っており、後ろ姿では小柄としかわからなかった。一度経験した脱臼であろう。右ブレーキで一旦止まり、片腕で近くの整形外科に飛び込む。玄関で痛みに耐えかねてうずくまると、看護師がきて
「どうしましたか」と問う。
「左肩の脱臼でしょうね」と絞り出すように言う。
診察の順番を飛ばして、すぐに診察室に呼ばれ、事情を話した。急いでレントゲンを撮り、また診察。やはり左肩亜脱臼だった。
「ちょっと痛いですよ」と言って医者は脱臼を整復し、
「ひたすら湿布と安静。左手は固定しましょう」
 痛み止めの注射を患部に打たれ、左肩から手首まで太い包帯で身体に固定された。骨折と似た処置だ。痛みで全身に発汗している。
「3日後に、痛くなくてもまた来てください」と鎮痛剤を処方された。
最低1週間は固定されるようだ。着替えや入浴が困難なのは中学生時代に経験している。剣道の試合で負傷したのだ。ここは、秘密裏に慶菜に助けて貰おうと考えた。
 仕事が塾講師でよかったと加古は思う。利き腕があれば講義はできる。ただ、片道徒歩15分を歩いて通うのは面倒ではあった。それより明らかに標的にされているのは間違いない。そのほうが彼の心を浸食してきた。歩けば歩いたで危険を感じるし、さすがに岩田に電話する。
「加古くん、どうした」
「自転車で後方から抜かれるときに左肩脱臼させられました」
「犯人の後姿は?」
「黒フードのナイロンパーカーで、小柄なことだけはわかりました」
「そうか。きみに一人身辺警護を付ける。断っても付けるぞ」
「いや、有難いです。僕バイトしないと暮らせなくなるんで」
 翌日から警官がアパートの前に立ち、加古と行動を共にする。私服でないのは抑止力を考えてだった。塾を含めて立ち寄った先では入口に張り込んでくれた。1日交替で違う警官だ。これは激務だからである。ほとんど飯を喰う時間がないのだ。トイレも最小限。辛そうな表情など微塵も見せなかったが、警察内では張り込みを一人でやるのより敬遠されている仕事だ。
 慶菜に怪我のことを連絡して助けて欲しいと話すと、
「しばらく芳也さんのアパートに住み込む」と言い、
怪我をした夕方から自分の生活用品をスーツケースに入れてやってきた。グレーのサロペット姿だ。おそらく動きやすいようにだろう。
「ごめんケイちゃん、この状態じゃHもできないのに」と詫びると、
「そんなの関係ないわ。一緒にいられるだけでも十分だし、ここから大学に稽古に行くのも却って安全そうな気がする」と、いそいそと身の周りの世話を焼いてくれた。米を研ぎ炊飯のセットをすると冷蔵庫の中身を確認し、てきぱきと調理にかかる。小一時間して、
「こんなものしかできないけど、ね」と微笑み、野菜炒めとご飯をテーブルに乗せた。
「ありがとう。コンビニ総菜でもよかったのに」
「だって、わたしがちゃんと食べたいんだもん」と語尾を上げて媚びるように言う。
「だったらいいんだけど。あと3日で仕送りが届くから、食材を買いに行こう」
「うん。さあ、食べて」
 ここで差し向かいに座って手作り料理を食べる日が、思ったより早く来た、と加古は思う。慶菜さえよければ、多少広いアパートで同居したい気持ちが強くなった。いまはそれどころではないのだが、身辺警護を思えば、慶菜と同居している状態はお互いに安全ではある。古い1DKのここでは、将来的に同棲は難しい。2LDKで家賃折半なら快適である。慶菜は、
「わたしは、部屋は広めだけど1Kだから、ここのほうがいいな」と言う。
「でもさ、二人で住むには部屋はもうひとつないとね」
 慶菜の住まいと、このアパートの家賃はほぼ同額だった。同居すれば、むしろ一人当たりの負担が軽くなる。ただ、問題は彼女の親が首を縦に振るかだ。そう遠くはないので、たまには母親がアパートに訪れて来るともいう。次善の策として、加古のアパートの空室に慶菜が引っ越してくる案もある。2階に空き部屋があるのは知っていた。

 塾に通って3日、加古は講義をするのに慣れていった。数学に関しては一応予習をしたが、自分が受験をしたときとさして変わりはない。塾長にも、
「生徒が『わかりやすい』って評判だよ」と褒められた。
 まあ、2年前には受験した身だから、高校2年生の古文と数学なら楽勝だ。明京大が第一志望の子もいて、何かと質問されたりもした。聡明そうな高校生たちが
「先生の受験経験について、もっと聞きたいのですが」などと、矢継ぎ早に言ってくる。
 帰りに仕送りを引き出し、整形外科に行く。肩の痛みはほぼなくなっていた。
「若いだけに回復が早いけど、ルーズショルダーにならないようにもう少し固定して、来週の頭には動かせると思うよ」と言われた。その後も、しばらくはサポーターをしたほうがいいらしい。
 アパートに帰ると、慶菜はもう帰っていて、一緒にスーパーに買物に行く。警護の警官には申し訳ないと思ったが、必要な行動なので仕方がない。冷蔵庫に入る限界ほど多くの食材を買い込み、5分程度の帰路の途中、後ろから一台の車が暴走気味に走ってきた。
「危ない!右に!」と警官に言われ、二人で路肩の隅に下がると、その車はスピードを上げたまま警官スレスレを通過した。
「狙われましたね」と警官。加古と慶菜は引きつった顔を見合わせる。
歩道がない道では相当注意が必要らしい。慶菜の顔も覚えられただろうか。捜査というか、推理をやめろという警告か。それにしても執拗だなと思った。
 警官はどこかに連絡し、指示を仰いでいる。
「すみません。明日から高島さんにも警護を付けます。婦人警官ですが」
「わかりました」と慶菜。
三人でそそくさとアパートに帰る。警官は、
「では、きょうはこれで任務を終わらせて頂きます」と言って部屋の入口で去って行った。
 慶菜は手慣れた包丁さばきで、手際よく夕飯を作りながら、
「わたしにも警護かあ。目立つのは嫌だけど、仕方ないわね」と呟く。
「僕のせいだよ、ごめん」と加古は詫びた。
「ヨシくんが謝ることじゃないわよ」と柔らかく彼女は言うと、食卓に料理を並べる。
 いつの間にか呼び名が『ヨシくん』になっている。まあ、お互い様だ。
厚揚げの煮物、焼シャケ、味噌汁。和風に徹している。和歌山の実家を思い出すような献立だ。
「どこで料理を覚えたの?」
「母からの伝授よ。だからちょっと昭和でしょ」と笑う。
美味しい、美味しいと言いながら夕飯を食べ終えると、慶菜がつと加古の脇に立つ。
「ねえ。寝たままで動かなくていいから、したいの」と囁く。
「あ、うん」加古も実は性欲が有り余っていた。

 警察でも麻薬捜査を中心に、各方面の捜査が進んでいた。
色川が見張りを付けろと言った品田風美は、不審とまでは言えないが、女友達と思われる人物との喫茶店での待ち合わせが目立った。私服の婦人警官がさりげなく隣の席に座って会話を聞いたところ、「アイグレー」という単語を含む会話があったと報告があった。具体的な話の脈絡は聞こえなかったそうだが、フェミニストの過激集団かも知れないという情報を踏まえれば、品田から目を離せない。
 中野の加圧トレーニングジムでも女性更衣室の録音に、「アイグレーをもうやめ…けど…」という不明瞭な音声があったが、防犯カメラの死角でされた会話で、人物特定ができない。だがここも「アイグレー」なる集団の人間が出入りしているのは確実だ。色川容子に確認したが、アイグレーについてはまったく知らないという返事だった。
 野津と岩田が捜査本部のホワイトボードで事件を図で整理していると、市村という交通課の刑事がきて、
「取り逃がした違反車両の主を逮捕できました。危険運転という名目ですが」
「追突されて妨害された件ですか」と野津。
「そうです。蛇行運転を繰り返していて通報があったので。本人の血液検査で麻薬性オピオイドが検出されました」
「オピオイド?」と岩田。
「モルヒネの成分です。が、人工モルヒネにも当然含まれているので、どちらを服用したのか区別がつきません。本人はトラムセットという薬だと言い張っています。確かに腰痛で処方されていたのですけど、血中濃度が高いのは不審ですね」
岩田は思案気に答えた。
「警察の車にわざとオカマ掘った車の床に、梶谷家のものと同じ成分のモルヒネが残っていたしな。麻薬捜査となると我々では手に負えん」
 三件の殺人現場周辺の聞き込みも入念に行われたが、どうしても目撃者が見つからない。ただ一つ、立川駅前のコンビニで、事件当夜、いつもより10本ほど多くのビニール傘が売れたという。監視ビデオを見たかったが、日にちが経っているのでもう消去されている。それでも見過ごせない手掛かりではと思われた。複数犯の犯人達が買ったのではという疑いがある。
 そんなとき、岩田に沢尻という麻薬取締官から直々に電話があった。人気のない会議室に移動しろと言われて、空いている部屋に入ると、
「手当たり次第、関係していそうな人物を呼んで指紋も取った。結果、梶谷家のモルヒネ箱の指紋に、篠崎陽晴のものがあった。当人は六本木のクラブで50カプセル入り2箱を彼のファンだという若い女から5万円で買ったと供述したが、売った女の身元が不明だ。『ゆきの』と名乗ったらしいが、どうせ偽名だろう。1カプセルにはガン患者に投与する程度のモルヒネしか配合されていないが、100カプセルは見逃せない量だな。1箱が梶谷家にあったのは、『一度服用して、2箱は多すぎると思って、姉に渡して光さんへと頼んだ』と言っている。篠崎さやかは『鎮痛剤としか聞いていない』と言うが、看護師なら違法のものと勘づいていたはず」
「待ってください。篠崎姉弟が関与しているんですね?それと事件との関連はどうなんです」
「そこだ。いま言ったところまで調べたときに上からストップがかかった。『その件はこれ以上調査するな』とね。こういう場合、政治家か官僚が絡んでいるのがほとんどだ」
「上からの圧ではどうしようもないですね。ただ、偉い人がモルヒネと事件に関与している可能性は残りますか」
「そういうことになる。捜査への警告や妨害はそれが原因ではと思う」
「事件の捜査はどうしましょう?」
「いまのままでいいとは思うが、つついてはまずい藪があるのは知っておけ。なお、この電話は内密にしている。岩田一人の胸にしまっておいて欲しい。他の者には、モルヒネは事件とは関係ないそうだ、と言っておけ」と電話を切った。
 しかし、多和田茜が服用していたのがモルヒネだったら、と岩田は長考に沈んだ。

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