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何者にもなれないピングー好きが「輪るピングドラム」を2日間で過剰摂取したので感想文書いた

もしかして

「輪るピングドラム」をご存知でない!?

僕は知りませんでした。8/10までは。
タイトルは知っていましたが、内容まではわかりませんでした。

意図的に避けていた節はあります。
風の噂で雰囲気は伝わっていてハマるってわかっていたから。

幸か不幸か、内容に関して事前知識がないまっしろしろの状態で8/10.11朝にアニメ24話を視聴し、11日に劇場版前編+後編+トークショー(チネチッタ川崎)のよくばりセットを2日間でいただきました。

良い作品って具体的にどういったものか、
素人なのでわかりませんが、時間を置いて見返したくなるようなものということなら
「輪るピングドラム」がそれでした。
現に11年前の作品の話をしているわけですから。

今を逃したらまた11年後かもしれない。
もしかしたら次はないかもしれない。
なので記憶が新しいうちに感想を書きました。蠍の炎があるうちに。

廻るピングドラムを知らない人にどんな作品かと答えるなら愛の物語です。

たぶん誰に聞いてもそう答える。

普遍的なものだけど
カタチが違って当たる光によっても見え方が違う愛。

これからするのはそんな愛のお話。
長くて短い、そんな小旅行にお付き合いください。



はじめに ~①ピングドラム探訪記

はじめにアニメで感じた事柄をさらっていきます。

少し深い話をする前の「ならし」みたいなものです。

「頼んでほいほいくれるようなものじゃないだろう」

運命日記を冠葉が探している時のセリフです。

ピングドラムの正体はわからないけど陽毬の命に関わることはわかっている。

自分たちにとってはとても大切なものだから相手にとってもとても渡せるものではないと思っている描写なんですよね。

先生が黒板消しを窓際で手を叩いて払ってるのを見ると時の流れを感じました。


「ハンターが獣を追い、獣がハンターを追う。永遠の追いかけっこね」

アニメで冠葉が夏芽 真砂子に言ったセリフ。

小説版だとほとんどアニメとセリフが同一なんだけどココは小説版だとほんの少しニュアンスが違ってて面白い。


10話で病院で病院食をとる晶馬がどうしてデザートのプリンから食べるのか、アニメだけだとよくわからなかったけど小説版で合点がいきました。

本筋から外れるので小説版とアニメ版の違いは挙げませんが、小説の方は一人称視点があるからもっと深掘りしたいぜって人にはオススメです。


<1話でココロ、掴まれてしまった>

小学生A「だからさ林檎は宇宙そのものなんだよ。手の平に乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。」
小学生B「あっちの世界?」
小学生A「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ。」
小学生B「それと林檎になんの関係があるんだ?」
小学生A「つまり、林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。」
小学生B「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
小学生A「おしまいじゃないよ!むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ。」
小学生B「わかんねぇよ。」
小学生A「愛のハナシなんだよ?なんで分かんないのかなぁ~。」

冒頭で小学生2人組が話してるりんごを分け与えるお話。
(印象的だから全文載せちゃった)

最終話にも乗り換えた冠葉と晶馬がいない世界で赤髪と青髪の子が同じ会話をしています。綺麗な物語の閉じ方だなって。


同じことを話していてもはじめと最後で受ける印象がだいぶ違ってくるなぁ、なんて思ってしまいました。


思っていることは作品にあるから僕が言うことはそんなにない。

と思っていたんですけど意外とありました。

リアルタイムで視聴していたらおそらく今と「同じようなこと」を思っただろうけど、
全く同じではないと思います。

「今」がピングドラムを知る時だったんだってそう思う。

前半の12話でも内容が高カロリーで感情が環状線を駆け抜けました。

次は人に関することを対象ごとにそれらしい副題でそれらしくまとめてみました。


自分なりに伝わりやすいよう分類分けをしたつもりですが、相互に関係し合っているため、綺麗に切り離せるものではなく、どこかで繋がっているところもあります。
そこも楽しんでいただけたらと思います。


②大きなヒトリゴト~DEAR HUMAN~


時と人

時間とは不可逆なもので「今」は過去と未来とその狭間にある現在のことを指していると僕は思っていたし、今もいる。

俗に言う「過去に縛られる」は
後ろに過ぎていったある地点を指していて…
うーん上手く伝えるのがむつかしい。

何が言いたいかというと、積み重ねてきた足跡を振り返って、過去が現在に影響を与える事象は想像がしやすい。

過去にあった、あの時の経験、実績が今に繋がっている等。

一方、苹果ちゃんは来るべき(きたるべき)
未来に重きがあってあるべき姿を絶対の正として呪いに縛られる。

「未来」が現在(未来から見たら過去)に影響を与える感覚がSFチックで面白いなと思いました。

名前に意味を持たせるとするなら
リンゴだけに運命という引力に引かれたがっている。

未来が現在に影響を与える感覚が面白いとお話ししましたが、この感覚が案外間近にありました。

会議やプレゼンでも大事なこと(結論)は始めに伝えて枝葉の部分、理由を伝える。

当たり前過ぎて意識しないで見落としていたけど普段からそんな小宇宙を見ていた。

目的(過程)が大事なのか結論(結果)が大事なのか、色々あると思います。
因果をねじ曲げる。

要は知覚過敏なのだ。
日記の通りになっている、
描いた通りになっている。

そうだと思いたい肥大化した自意識が事実の断片を掬い上げて。救いを求めている。

ストーカー気質なところもあって過激に描かれてはいるけど多かれ少なかれどんな人でも信じたい気持ちがあると思います。

なにかを信じる、信じ続けたらその人の世界ではそれが正しい。

ヒトの数だけ世界がある。
観測は難しいけれど。

これって正しいとか間違ってるとか良い、
悪いを超越している。
理屈じゃない。

現実の中で見たいもの見たがるし目で見やすいものしか見えにくい。

未来と現在、
あるべき姿と今の姿の狭間で揺れる。

この揺らぎがひどく人間らしくて僕は好きです。大好きと言ってもいい。




神と人

「神は、乗り越えられる試練しか与えない」

尺度は人それぞれだから自らを鼓舞する言葉だと思っている。
だからこの言葉を振りかざす人は嫌い。

12話で神様が
「だって罰は一番理不尽じゃないと」
聞いたときはひどい話だとは思ったけど、
人の描く神様は人間らしい。

理不尽は主体的に襲い掛かるものではなく、ただ横たわっているものだと思っているので。

いるかわからない神様のことを思う。

世界に唯一人ってそれはもう世界じゃない。観測して観測されて世界はかたちがあると、そう思います。

世界に一人と世界に二人、どちらが悲しいんだろう。

二人は互いに認識できる。けど認識できる分、交わらないことがわかってしまう。はじめからひとりなら悲しいという感情すら湧かない。

幸運なことに神様ではないので
実感を伴わずに想像することができる。




ペンギンと人

ペンギンのことで一番面白いなぁと思ったのはアニメで2号がゴキブリに殺虫剤を撒いていたこと。小説だとアニメにない描写も一部あるけどゴキブリについては特に言及がなかった。

ペンギンとしてイワシ、アジ、サバを食べるし、猫が落とした魚を追いかけるペンギンとしての性質がある。

加えて1号、2号、3号、エスメラルダとパートナーに似たところがある。
南極にはゴキブリはいないだろうし、人由来の性格。

なにが面白いってペンギンは高倉家、夏芽家の者と動物にしか見えない。

ペンギンの正体もはっきりと明かしているわけではないのでペンギンの好みや行動に意図、「らしさ」を見る。

見ようとする。僕はペンギンじゃないから。

勝手に面白がってるだけなんですけど、
「見える」というのと実際に「そうだ」というのは大きく異なる。

ペンギンとしての性質に人とペンギンの「らしさ」は
自分ではない何者かに対する想像を掻き立ててるポイントでいいなと思いました。

ペンギンらしくて、人間らしくて、なによりピングーらしいピングーが大好きな身としてはペンギンが作品に色んな場面で出てきたこと、嬉しく思います。

世界一有名なペンギンで僕のアイコンにもなっているPinguの話はまたの機会に。


ピングーのともだち、アザラシのロビくん

記事のヘッダー画像がTシャツの表でこれが裏。
表と裏でひとつの世界になってるのが面白くて今回採用しました。
魚を分け合っている、ピングーとロビくん。


もしココを見ている人類がいるのならピングーのシーズン1、エピソード4の

「ピングーのさかなつり」みてほしい。


人と人

雨女、晴れ男といった天気みたいな自然の現象に対して、ある個人のおかげで(せいで)変わったんだと大きくなった自意識で主張する。

もし絶対晴れにする人と雨にする人が同時にいたとしたら、

そこで天下一舞踏会が開かれてるのかなって考えると面白い。
それはそれで見てみたい。
知らないだけで霊的な憑き物があるのかも知れないけど。


知ってしまったら無関係ではいられない。
他人の他人は他人じゃなかったりする。

ニュースで知る遠い世界の被害者が
自分の関係者であるとき、数字の羅列からはじめてカタチを伴ったリアルになる。

良い人たちの中に悪い人がいるように
悪い人たちの中にも良い人はいるのだ。そう白黒つけられるものではない。

イコールで結ばれてはいない。
白に近い黒、黒に近いマーブル模様でできている。

自分たちと違うという理由で悪だと切り捨てることはできない。


宗教2世について触れないといけない。

罪には罰、被害者と加害者、ついてまわる。

いくら謝っても決して失われたものは返ってこない。

それでも謝るしかない。相手が許す許さない関係なく。難しい。

自分で自分を許せないかもしれない。

見返りを求めて愛するわけではない。

もし、もしも助かる術があるのなら自分が出来ること、与えられること、
なんだってしてあげたい。

献身、無償の愛というのは
そうすることしかできないから
他にどうしようもないからしているだけでの結果でしかない。

正しさだけでは息しづらいし、生きづらい。




③映画館でのこと

映画上映前の予告でのこと


映画上映前の予告で
『僕が愛したすべての君へ』 / 『君を愛したひとりの僕へ』という作品が流れました。

生意気ながら思ったのが、小出しにしないでしっかり僕の息の音を止めてほしい。

SFチックなのは好物だし、そういうのを欲してるから。

自分の心臓の位置はよくわかっているつもり。

2作同時公開でふたつの物語が交わなかったり交わったりする王道もの。
この形式はバンバンできるものでもない。

人は理屈だけでは動かない。
だけどキャラクターを動かすには動機とそれに足るだけのキャラクターの持つ背景もいる。

背景=動機だとあまりに不自然で生きてる感じがしない。

正しさを超えた納得「感」のある設定、背景、描写。

その辺りをどう表現するかの妙が僕は面白いと思っています。


トークショーでのこと

8/11川崎チネチッタで
劇場版前編+後編+トークショー

三宅麻理恵(荻野目苹果役)/橋本由香利(音楽)/幾原邦彦(監督)

登壇者への質問を事前に募集し、トークをしていただきました。

後日ツイッターで質問と回答を文字にも起こしてくれてありがとうございます。

他の上映時間と被っていたせいか直前までフードコーナーの列がすごかった。

9:30-15:30の長丁場なのでポップコーンぼりぼり食べてました。

それよりも驚いたのは始まる間際であってもシアター前にある公演時間と作品が書いてあるやつをみんなこぞって写真に撮っていました。

十数人の列ができていました。
せっかく来たから撮るのは公演後でいいかと思っていましたが、公演後も公演前と同じくらいの人だかりができていて諦めました。

上映した日の瞬間を、写真というカタチあるものに残しておきたい人がこんなにいるんだなと思ってなんだか嬉しかったのを覚えています。


トークパートで驚いたのが
「運命の子たち」はTVシリーズのシナリオ前半しか知らない状態で作ったということ。

なにごとも納期がありますが、全体像が見えない中で根幹を担う音楽部分を作っていくのは大変だと思いました。大変という言葉じゃ足りないくらい。

LIVE ZOUNDということもあって良い環境で劇場版を視聴することができました。


話変わってアニメ部分の話なんですけど「灰を拝借」でクスっとしたし、

14話のタイトルが「嘘つき姫」で「少年よ我に帰れ」がOPで流れたのが15話から。

歌詞の「秘め事明かすホーリーナイト」が
「姫」とかかっているようで良かった。ちょっと興奮した




④天才凡才交響曲

僕は天才という言葉が嫌いだ。
勝手に期待して持て囃して
消費される物語(人生 )

実はたいしたことない。
昔の方が良かった。

雑音ばかりでうんざりする。
持て囃されていい気になる方もなるほうだ。
現状に満足して歩みを止めてしまう。
誰も幸せになれない。

第一、天才の一言で片付けてはならない。

たゆまぬ継続の地続きでしかない。
現実は劇的ではないから一歩ずつ歩いていくしかないのだ。

僕は「天才」って言葉が嫌いだ。

以上、ポエムでした。
自分とは始めから違うと思ってしまったら交わらない。

「少年よ我に帰れ」の歌詞を借りるなら交わらないイマジナリー


記録により才能とみなしたものには限界があっていたちごっこ。

これは僕の言葉の知覚過敏なんですけど、

いわゆる歴史の偉人がなにかを成したという面はその人を構成する一要素に過ぎず、光があたるべきはそれまでの過程にあると思います。





⑤孤独なHeaven

箱の中にそれぞれが隣り合って入っている。
近くて遠い。

あなたはわたしではないように、
わたしはあなたではない。

あなたにはあなたの、
わたしにはわたしの天国と地獄がある。

理解できないものをわかるよと、同じ気持ちだよと言いたくない。

わからないなりに理解しようとすること、箱の中から手を伸ばすことはできる。

小さくて儚い孤独なHeaven。
わかりあえたら素敵だと思う。

人類という大きな視点で見れば
僕らはみんな普通。
ミクロで見ればみんな少しヘン。
普通に、そして特別になりたがる。

孤独を知る人はその分優しくて愛が深いと、そう思う。
実際どうなんだろう。
そうだといいなって願望かもしれない。

「きっと」僕は孤独な人間だと思うから。

響きだけで強くなれそうな気がしてきた。
「愛を知っている」であいしてる

もしも自分なんてと言う人がいたらそんなことはないって言ってあげたい。

人の良いところを見つけるのは得意だから。

関係ない人の言葉だからこそ届くこともあると思うから。





⑥自ら名前を付ける、名乗るということ

2011年の作品を2022年に見ると当時とは受け取り方もだいぶ様変わりしたように思います。

震災もありましたし、直近だとウィルスの影響で直接顔を合わせる機会が減りました。

SNSの社会活動への影響はますます強くなるばかりです。

望む望まざる関係なく、日々多くの情報に触れることになります。

一見選択肢が増えて良いことのように感じますが、

僕も含めてどれだけの人が自らの意志で取捨選択をしているでしょう。

誰が言ったかではなく、なにを言ったかで判断できていますか?

話変わってハンドルネームは自分の意志で付けることができます。

匿名性の空間では始めに目がつくところでもあります。

名前を付ける、名乗るというのは自らの方向を決める、自分が自分になる、カタチづける大切なことだと思っています。

実名からとったものや好きなもの、所縁のあるものからつけたりと様々です。

「名は体を表す」じゃないですけど、ハンドルネームはその人のアイコン的な役割を果たしているので、自分以外の名前に興味がありますが、みんなわざわざ自分の名前の由来に関する話はしないイメージがあります。


せっかくなので僕のハンドルネームの由来の話をします。
僕がかぼちゃになった理由は3つ


①食べ物の名前
実名の延長だとどうも第二の名前、
ハンドルネーム感がない。(個人の感想です)

煮ても焼いてもスイーツに形を変えても食べられるかぼちゃに白羽の矢が立った。


②読み間違えのない名前
当て字とか読み方が複数あったりするものはお互い不幸にしかならないのと訂正も手間。長くする意味も特にない。


③次が一番大きな理由になります。

発表会や舞台で
「観客をかぼちゃと思え」とよく言います。

透明だけど確かに存在している。
透明でない塩梅がいいなぁと思ってかぼちゃになりました。

リトルかぼちゃが中学生の時に

「観客をかぼちゃと思え」の定型文に
「誰か」にとっての「誰か」になれたら素敵だな
ってニュアンスを見出して、使い続けて、かれこれ10年以上になります。


後になって気付きましたが、濁音と「ゃ」を含む拗音の響きも相まって、

結果的にですけど、個人的にはなかなか悪くない名前なんじゃないかと思っています。
むしろ結構好きだ。

この話はこの辺にして次が最後の章になります。あと面白い記事があったので置いておきます。






⑦でも、だから、きっと

僕は「運命」って言葉が嫌いだ。(晶馬)
俺は「運命」って言葉が嫌いだ。(冠葉)
あたしは「運命」って言葉が好き。(苹果)

知覚できないからわからないだけで物事は奇跡でもない偶然の積み重なりかもしれない。

「運命」が好きであろうと嫌いであろうと。

起きてしまった出来事は変えられないけど
悪いことの中にも「でも」次はそうはならないかもしれない。

絶望の中にこそ「希望」を見出すのが人間の良いところだと思います。

ただ言えるのは物事には理由があって、
「だから」と納得したいのだ。

わかりやすいものに飛びついた方がずっとずっと楽だから。

人は理由もなく穴を掘っては埋めるだけの理不尽に耐えられるようにできてはいない。


なにかと理由を付けたがる
「だから」を超えた
確信、決意を含んだ「きっと」で
受動的ではなく、自ら主体的に物事を捉えることができる。


「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」から

「きっと何者かになれるお前たちに告げる」に変わる。痺れるだろう?


最初から最後まで愛の物語なんだ。
輪るピングドラムは。

愛らしくて、
愛、らしい。

見て、感じた人にしか伝わらないけど。


まわりまわって
「誰か」に見てもらいたくて、
「誰か」と分かち合いたくて、

運命の至る場所からこうして電子の海に感想を投げました。

それはひとりでは埋まらない空白があったから。

もしも誰かと映画を見に行ったら、
その人に思いつく限りの感想を伝えていたでしょう。

そしたら自分の中で始まり、
完結していて、この感想文もどきが外に出ることはなかった。


輪るピングドラムをタブレットで視聴しました。

理屈上、フルサイズで画面いっぱいに見た方が見やすい気はしていましたが、実際は画面の端が見切れているように感じてフルサイズではなく少し引いた表示で視聴しました。

全体を見渡すのに「空白」が大事なのかもしれないと、なんとなく思いました。



ある日、ある場所でとある老夫婦がインスタについて話していました。


どうやらインスタを始めたばかりのようです。


僕は新しいことに挑戦する気持ちが若いなと思いながらダンボの耳で会話を聞いていると面白いことを聞きました。


映えとは「空白の余韻にある」と。


人生という大海原を渡ってきた人が言うと
「きっと」そんな気がしてきました。



まわる廻るピングドラム。



今日は今日の風が吹く。



生存戦略…しましょうか?






最後に
ここまで見つけてくれたあなたに魔法の言葉を。

「ありがとう、愛してる」





心境を端的に表した一曲を置いておきます。(公式です)
Timing タイミング - ブラックビスケッツ


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