「日常」がこわい

今回のnoteは、「明日」が来るかもわからない恐怖とたたかう戦時下の人々や、当たり前に日常の来ない人々のことを棚上げにした話である。ぬくぬくと衣食住揃った中に生きている恵まれた人間のつぶやきであることは承知している。

それでも、タイトル通り「日常」がこわいのである。今日が終わったら明日が来て、明日が終わったら明後日がやって来ることが怖い。
夜になると、明日が目前に迫っていることに恐怖を感じる。寝ると明日が来てしまう、と思い眠れなくなる時もあった。(寝なくても明日は来るんだけどね)最近は薬の効果で眠れているけれど。

日々、繰り返している「日常」が怖い。この仕事を10年後も続けているのかもしれないと思うと、異様な焦りと不安と絶望を感じていた。結局その仕事は、病気になったことを報告したときにクビになったのだが。

仕事がある日は特に怖い。朝の電車が怖い。職場の最寄り駅についてからの道のりは重い。業務の締め切りが近いのはもちろん怖いし、仕事がなかったら何をすればいいんだろうという不安もある。帰りの混雑した電車もどきどきしながら乗っている。ときどき、記憶が飛ぶ。これは寝ているからではなく、あまりに慣れすぎて体が自動的に次の電車に乗り換えており、ふと気づいたときには自宅最寄り駅、という感覚に近い。

最近、姉がうつ病を発症した。聞く限り、私よりはるかに重症である。でも、「私より辛くてもがんばっている人がいるから」と、自分もがんばれるかというと、そうでもない。自分の中で自分の辛さが相対的に矮小化されてしまい、それも何とも言えない気持ちになる。

ここまで書いて、私は日々「怖い」という感情とともに生きているんだなと感じる。以前「好き」を分解したように、「怖い」の正体もなんなのか分解してみてもいいかもしれない。

余談だが、最近はやたらめったら「寂しい」。欲求不満なのかと思ったが、医者に相談したところ、うつ病の症状のひとつらしい。
今も寂しさを紛らわすためにnoteを書いているが、もう少しで書き終わってしまう。どうしようかな。

(しあん)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?