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私のスイッチ

昨日は稽古に行った。
行けるかどうかわからないな、と思いながら朝何とか10時過ぎに起き上がったのだが、とりあえずコンタクトを入れてみたら、体がシャキッとして行ける気がした。

私のスイッチはどこにあるのだろう。
一時期は音楽を流すことでスイッチが切り替えられて、次の行動に移ることができていた。
最近の朝は、それも効かなくなってきている。

一昨日の朝、つまり金曜日は、朝起き上がれずに定時に出勤することができなかった。
目覚ましを止めることはできた。
でも、その瞬間に「あ、今日はダメかも」と思った。
なぜだかわからない。
わからないけれど、起き上がろうとする力が重力に負けてベッドから這い出すことができなかった。

午前中は休んでも、午後から行く手がある。
そう思って何とか起きよう起きようと思っても、なかなか起き上がれなかった。
起きなきゃと思うほど、信頼を裏切りながら仕事をしなければならない、起きた後の現実に向き合うのが怖くて、その恐怖から逃げようと必死に目をつぶってしまう。
どれだけ職場の人がいい人たちばかりといっても、「あぁ、またか」と思われるのは必至である。
それを思えば思うほど、起き上がれなくなる。

それでも、このまま一日休んでしまったらそれこそ私自身が自己嫌悪でダメになってしまう、明日の稽古もこんな気分で行きたくはない、という一心で、何とか14時ごろ体を起こすことができた。
そんな時間に起きたんじゃ出勤時間はたかが知れている、というのはわかっている。
そんなちっぽけな時間のために動くのか?そんなことしたって信頼回復には程遠いってわかってる?という囁きは常に心の中にあったが、嫌悪感に蝕まれたまま時間を過ごすより、少しでも出勤出来たという達成感を味わったほうが自分のためにいいのではないか?と思い、15時過ぎに出勤した。

この、自分のために動こうという気持ちが、案外スイッチになることはある。
風呂に入りたくないときも、風呂に入って後悔することはないんだから、と言い聞かせる。
自分を大事にするために、未来の自分に借金を作らないために、今動く。
それが今のところの私の「がんばる」なのかもしれない。

といって、「がんばれない」という状態が自分を大事にしていないと言いたいわけではない。
「起き上がれない」「がんばれない」という状態も、なぜそうなったのかという因果関係を問うのではなく、そうなった場合に最善の対応は何かということを考えることが大事なのだと思う。

私はうつ病と診断されているが、恐らく非定型うつ病なのだと思う。(自己診断だが)
非定型うつ病とは、少し前まで「新型うつ病」と言われていたもので、自分の趣味や好きなことのためには動けるのだが、仕事となるといけなくなるというタイプのうつ病であり、通常のうつ病では不眠症状が出るのに対し、非定型うつ病では過眠が症状として出るらしい。

つまり、動けるときは動けるのだ。
私が読んだ本では、この場合は休むよりもなるべく普段通りのリズムを続けたほうがよい、と書かれていた。
動けるときは普段通りに動いたほうがよい、ということなのだろう。

そのことについて、両親は納得がいかないようで、先月仕事を休んだ翌日に友人と飲みに出かけた時には猛反発をくらった。
恐らく世間的にもおかしいことだとは思う。
でも、友人と飲みに行く約束も約束なのだ。
翌日調子がよくなっていたとしても、その約束を反故にして自宅謹慎しているのがあるべき姿なのだろうか?
まぁ正直、飲みに行く気分になれるのか?と言われるとそれはそれで微妙なところだが、友人との約束まで反故にして、何もかも守れない自分になったと自覚するよりはマシだと思う。そう言い聞かせている。

そういうわけで、一昨日は仕事をほとんど休んでしまったが、2時間ほど出勤し、自分の罪悪感を軽くして、昨日稽古に行ってきた。

直前まで迷っていたことは迷っていたが、やはり行ってよかったと思う。
自分の人生は自分の手の中にあるということを実感できる。

起き上がれない日が増えている、ということを受けて薬の量は増えている。
それでもこうやって起き上がれない日は依然として発生している。
因果関係はわからない。
それでも、これからもその時その時の最善の対応を考えて、自分のために生きていきたいと思う。

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