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25歳の成人式


成人の日が2週間ほど前に過ぎましたね。コロナの影響は未だ治らず、今年は成人式が中止のところが多いというニュースをたくさん目にしました。たまたま成人の日はナリさんと映画を見に行っていて、街には式の前や後に写真を撮る予定であったのだろう新成人が色鮮やかな振袖、黒と言わんばかりのまだらもない漆黒の袴を身につけ、写真を撮ったり撮られたり、そんな姿がちらほら。


私はそれを見て懐かしいな、とは思わないけれど。


わたしが20歳を迎える年、例に漏れず市町村管轄で成人式の便りが来た。大人という区切りを迎えられる事を喜ばしく、なんて綴っていてくれていたけれど、わたしの心情は真逆でそれはもうやさぐれていて、何勝手に祝ってんだよと毒付いた記憶がある。結論を言うと、前撮りも成人式も同窓会も全て出ていない。


勝手に国が決めた祝日に、市町村でやってくれる式に出るだけで大人になれるのは、自分たちをそれだけ評価できる人間だけだ。そう思っていた。遠い世界の人のようだった。自分に多少嫌な事はあるかもしれない、けれど成人の日に自分が「大人」というレッテルを恐れず大人になれる人。自分のことが好きじゃなかった私には別世界だ。今も好きかと聞かれると少し困る、昔よりは好きだけども。そんな感じだったから、自分が納得していないのに、知らない漠然としたところで「はい貴方は今日から大人です」なんていわれてわかりましたとは言えない。出ておけばいつか思い出になるからという人もいたが、思い出にならなかった時責任をとってくれるわけでもないので、聞かなかったことにした。だいたいいつかっていつだ、いや、私もよく使うようになった今では少しその人の気持ちもわかるようになったけども。ハッこれが大人になったってやつか、、、?(違います)

話はずれたが、その誰でもない漠然とした大きな風潮に勝手に大人にされることが怖かった。自分のことを何一つ理解しきれていないのに「大人だから」と片付けられる事が多くなるかもしれない事は恐怖だ。責任なんて負いたくない、今現在、生きるのさえままならないのにそんなレッテルを貼られて、ルールが増えて、自由がどんどん遠くなる気しかしない。勿論決められたルールがあるから自由があることはしっている、それによって平和というある程度の幸福がもたらされていることも。でも逃れられるのなら、今抱えきれないルールからは逃げたかった。


でも、逃げ続けることはできないことも既に知っている。


いつか、たぶん私は自分でも大人になったなと、思う日がくるとわかってる。いくら大人になりたくないと言っていて、も環境が変わっていけば否が応でも慣れていかなくては、思考を変えていかなくてはついていけない。それはきっと選択として逃げ続けることだったとしても、立ち回りを考えていくのだから、子供のままではきっと難しい。自分を嫌いなままでもいられない。自分のことが嫌いなのでそれを見つめ直せません、目を背けることしかできませんなんて、それこそ傲慢だ。そもそも、わたしは子供で居たいわけじゃない。勝手に大人にされたくないだけなのだ。じゃあいつ自分は大人になる?考えた時、私自身を本当の意味で大人として評価できるのは私しかいないのではないか。世間が決めるのに不服ならば自分で決めるしかない。


だったら自分で成人式をしよう。


自分はこれから自分が思っていなくても、世間が見ている「大人」として社会に出て働いていく。人との関係を築いていく。それはそれとして、私の中の「大人」は私自身が自分を置いて行かないよう、きちんと私が評価しようと決めた。期限を設けるかは悩んだが、設けた方が取捨選択しやすいと思ったので、25歳の誕生日を「成人の日(改)」と(もうちょっとなんかなかったんか)定めた。勿論式をするわけではない。振替成人の日、とでも言えば聞こえはいいだろうか。20歳の今できないのならば未来できるようにやってみよう。決めたら行動の早い私は、記念写真もふてくされている写真を嫌々撮るくらいならと撮らない方がいいと考え、写真館の予約をと言われていたが、親には式も写真も同窓会も何も出ないし成人式は25歳にやる、と伝えた。幸い(というべきか)我が家は着物がある家で振袖、袴などを改めて用意する必要のない家だったため、まあ考え変わって行きたくなったら当日でも着れるし、写真はいつでも撮れるしねえと、あっさりおわった。幼少期から日本舞踊をしていたため、着物を日常的に着る機会も多々あり、親も晴れ着という感覚があまりなかったのもあると思う。たしかに振袖より派手な衣装を何度も着て、それが嫌で嫌でこんなの人に見せたくないと何度ごねたことか。

話がまたずれたが、25歳と決めた成人の日(改)までに自分が少なくとも良し、と笑って思える大人になってみようと考えた。


そこから月日が経ち、25歳が過ぎた。そしてさらにまた誕生日を迎えたわたしは4ヶ月が過ぎようとしている。つまり、私は今26歳になっている。


弁明をする。聞いて欲しい。5年の間とは目まぐるしいもので、いつまでも子供ではいられないと思うようなことがたくさんあった。まず、自分のことを好きかも、と思えるようになった。素直になったともいう。すきなものをすきと伝えられるようになった、それによって笑えるように、怒るように、泣けるようになった。

見た目も、前は性がわかるかもと避けていたいわゆる可愛いな、かっこいいな、という洋服は、その思ったままの気持ちで着れるようになった。可愛いものもかっこいいものも、全部すきなように着ていいのだ。自分のすきなものを信じていいと思えるようになった。化粧も女性の意味合いが大きい気がして全くの手付かずだったけれど、ニシナ、彼の存在はすごい。「僕は男性女性どちらもすきなだけで、自身は男だから。でもすきだから化粧もするし女の子の格好もする。だからワタクシが本当にそう言ってるなら、僕はどうなるの?」彼の放った言葉は、私の概念が崩れる音がした。そうして崩れた固定概念は、わたしがすきなわたしでいられるように化粧もする、強くなる、そういう意味合いで組み立て直され、化粧は武装となった。仕事が大変な日ほど気合を入れて武装をする。大抵おわるとノーメイク状態だが。

あとは、単純に年齢を重ねた。高校生を見て若い〜などと友人が言い合ってる中私たちもまだ20前半の学生だぞ?と当時思い別段違いを感じることはなかったが、25歳で仲良くなった人に年齢をきいたら20歳と答えられ、口から思わず若いな、と出てしまった。出てしまったということは、自分が20歳にはもう戻れないと内心思っていることだと後日気付き大人になるというのはこういうことか、思っていないようにしても思ってしまっていることか……(絶句)、と実感した。

思考面でも変わったことが大きくある。20歳の頃はなぜ自分ばかり、やどうして周りはわかってくれないのか、なんて考えていたりしたけれど。今はとなってはわかってもらうのではなく、わかるまで伝える、思ってることは言語化する、そして他人と自分は違って当たり前なのだからどうせなら否定的でなく、肯定的に許容できるような物事を考えられる(もちろん時と場合はある)、を心がけている。大体これで問題は解決する。あとは諦めることも覚えた。自分にとって悪い意味で変わらない相手からはあからさまでない程度に離れる。ようは人間関係も取捨選択するようになった。少し前までは嫌われることが怖くて顔色ばかり見ていた、今は嫌いな人の方が多いかもしれない。ただ、人として大人になったので、もちろんそれを前に出すことはない。あくまで内心でいい、何事も要領は大切だ。


つまり私はああ大人になったな、とちゃんと25歳の時に思えていた。だから成人の日(改)をしようと思った。そのため写真館を予約した。なんとコロナの猛威&今年の成人式やその他の予約の制限でできなかった。そうしている間に26歳の誕生日がきた。4ヶ月が過ぎようとしている。イマココ。(古いよ)


まあ、大人になれた(と自分で思えるようになった)からいいか!



と、自分語りで申し訳ないければ、オチも相変わらずないけれど、5年(6年?)越しの成人式は無事に成功したと思います。

とりあえず成人式は、一年も過ぎてしまったが、ひとまずとして先日一人で450gのステーキを食べながら祝いました。食べながら、写真は今なら、いつカメラを向けられても、笑える自信があるからまた楽しみに取っておこうと思います。


おしまい。





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