SS 女工の告白 【チョコレート】 #シロクマ文芸部
「チョコレートの大釜にお嬢さんが落ちたんです。助けようとしましたよ、でも間に合わなかった」
刑事がメモを取りながら病室の女工の話を聞いている。
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私の名前はチヨです、カタカナでチヨです。十四からチョコレート工場で働いています。もう十年くらいです。
仕事ですか? 釜の温度の測定です。大釜は平屋くらいの高さがありますから、らせんの階段で昇って、てっぺんにある温度計を見るんです。たまに変な温度の時は、小さなレンチで叩くと戻ります。それで戻らない時は、ボイラーの人に温度を下げてもらうんです。
落ちた女の人ですか? この会社の社長の娘さんです。
お嬢様のお名前は、絹さんです。私よりも六歳下の、ええ、かわいらしいお方ですよ。でもちょっと元気があるのか、オテンバ娘です。小さい頃から大鍋の階段を昇ってはチョコが煮え立つ所を見ていました。
「すごいね」
「あまり近寄らないで、甘すぎて酔ってしまう」
ぐつぐつ泡立つチョコを見ながら嬉しそうでした。腰当たりの高さの柵がありますから落ちないと思ってました……
落ちた日ですか? その時は技師さんが来てました。幸三郎さんです。ハンサムでやさしい方です。しばらくチョコの温度の話をして幸三郎さんが大釜から離れると
「チヨ、男前の技師ね」
お嬢様の絹さんが、柱の陰から顔を出しました。
「お嬢様、またいらしたんですか」
「私はね、あの幸三郎がスキなの」
「でも技師ですよ」
「伊勢丹で買った舶来のチョコレートを渡すの」
バレンタインも近いので、スキな男性にプレゼントをしたいと言ってました。
「私と結婚して、旦那様にするの」
無い話だと思います。なにしろ若すぎますし技師と社長令嬢が結婚するのは、変ですよと言うと怒ったように、大釜のらせん階段を昇っていきました。あわてて私も昇ると、子供の頃のように手すりから下を見ています。
「お嬢様、危ないですよ」
ええ、私はちょっと離れた所に立っていました。お嬢様は、驚いたようにふりむくと、バランスを崩して酔ったように手すりから落ちました。あわてて手すりまで走りましたが……お嬢様は煮えたチョコの中でした。
それでね、チョコレートから手を出してね、こうやってグーパーしているんですよ、何かをつかむように、お遊戯しているみたいに、グーパーしているんです。
チヨが突然ゲラゲラと笑いだすと、刑事がぎょっとしたように女工を見る。
あら、ごめんさない。笑うつもりはなかったです。でもね人間は最後にあんな事をするのかなと思うと悲しけど笑ってしまったのです。それから、私は大声でみなさんを呼んだんです。
チヨは、ふいに黙ると病室のベッドでじっとしている。
「事情聴取は、これで終わりです、休んでください」
刑事が鉄の扉の病室から出ると、医者と技師の幸三郎が待っている。
「どうでしたか?」
「お嬢さんが、大釜に落ちたと言ってます」
「そんな馬鹿な……お嬢さんは、八歳の時から行方不明です」
幸三郎が不思議そうに頭をひねる。医者が口を開くと
「それは、幻覚でしょう。あの女工は技師のあなたが好きすぎてヒステリーを起こしたんですよ」
「工場内の従業員にも聞いたが、あのチヨが叫びながら手すりから落ちようとしていた、自殺未遂ですな」
刑事は、これで報告書を作ると言い残して廊下を歩き去る。
「あのすいません、これをチヨさんに渡してもらえませんか?」
「紙袋ですか、中は……チョコですな。かまいませんよ」
技師に別れをつげると、医者は紙袋からチョコを一つ出して食べてみる。看護婦があきれたように医者を見ている。
「甘いがくどくない、上品な味だ」
「ダメですよ、先生」
「君も食べてごらん」
「……まぁ、本当においしいですね。後はあずかります」
看護婦は鉄の扉を開けて、女工のチヨに紙袋を渡す。
「おみやげですって」
「まぁ、ありがとうございます」
チヨは、紙袋からチョコレートを取り出してカーテンからもれる光に、かざしてみる。褐色のチョコレートは美しい。
口の中に入れると、すっと溶けるように甘みが広がる。お嬢様は本当にオテンバだ、二回も落ちるとは思わなかった。十四の時は、怖くて誰にも言えなかったが、翌日には普通に遊びにきた。きっと今度も会いに来るかもしれない。そういえば、お嬢様が落ちた大釜のチョコレートは甘みがましたと聞いている。
紙袋からもう一つ取り出して口の中で溶かす。
「お嬢様、おいしゅうございます」
以下の小説のインスパイアです。
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