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道草の家のWSマガジン - 2022年12月号

vehicle  - 神田由布子

ある午後 雲を見ていたら
目の前にそれがやってきた
「乗ってゆきませんか」
何語かわからないが
運転手はたしかにそう言った

手にしたベクトルは
矢尻を外に向けて放たれるのを待っていた
空がうなずいた
それが詩だったのだ
なぜ旅に、と訊かれたら
書くのは正気をたもつためと答えるつもりだ

ネジ釘をはずして
なじんだ住処から身体をひっぱがし
酸素のうすい円の中から外に出て
はじめての風でまずは頭を洗い流そう

青を大きく広げて
微動だにしない空の下
わたしは発見する
詩もまた住処になりうることを


ペンネームが決まる  - なつめ

 何か人の心を軽くするような活動がしたいと、いつの日か思い始めた。そのような活動を何で、どのような形で私は実現できるのだろうと考えたとき、まず、その活動で使う名前は本名とは別の名前にしようと思った。それは離婚した元夫に私だとわからないようにしたいという理由もあるが、それだけではなかった。元夫はそんなことはどうでも良いかもしれないが、私にとっては、元夫と一緒にいた自分の名前で、その活動をするのは違うような気がしていた。それに、私にもう一人の別の名前を付けて別の場所で生きてみたいという思いもあった。本名とは別の名前で活動するハンドルネーム、ペンネームを考えてみる。自分に自分で名前を付けるのもなんだかおもしろそうと、考え始めたが、もう一人の私の「ペンネーム」はなかなか決まらないでいた。
 先月、東京の下町から小さな村へと移住したことで、これまでの生き方が大きく変わっていくような気持ちでいた。現実的にも生きる場所が変わった。そんな自分に新しい名前を付けて、何かもう一つ、自分の仕事を開拓してみたい。離婚して半年経ったが、その半年後に急に移住することになった「わたし」にどんな名前を付けようか。まるで、子どもの頃によく遊んでいた「ドラゴンクエスト」のゲームの主人公に名前を付けるような感じである。今までは親からつけてもらった名前と、結婚したときに呼ばれるようになった苗字があった。これらは自分で決めた名前ではない。でも今回はゲームの世界ではないけれど、これから別のステージで進んで行こうとしている自分に自分で名前を付けてみよう。私の中にもう一人、別の場所で生きる名前である。それは私がこの先、私の仕事を一から作り、活動するときに呼ばれる名前となってほしい。この名前は自分で決めていい。そう考えるとワクワクしてくる。
 離婚をした私は、戸籍上、最初の苗字に戻った。再び実家に戻り、両親と息子と暮らした。初心に返ったようで、実際は初心ではないのだが、気持ち的には一度リセットされたような気がしていた。それから、離婚して、元夫との結婚生活で慣れ親しんだ場所や仕事、人間関係もいったんリセットされる流れになった。次から次へと変化がやってきて、私のこうしたいという思いとは別に、次々に外側の状況が自分ではどうにもならない感じで、変化していった。必然的にリセットされ、自分の生活を新たに作る開拓前の間、実家で両親と息子と4人で暮らした。実家での暮らしは、次の人生を立て直す準備期間として必要な時間でもあった。再び原点に戻り、結婚前の苗字で周りの人たちに呼ばれることもだんだん増えてきていた。
 元夫との生活も実家での生活も精神的にも環境的にも窮屈で抑圧された生活だった。自分でここに住もうと決めた場所ではなく、やむを得ず逃げてきた場所としてあったその場所は、物質的にも便利な地域で環境的には恵まれていた。でも家の中ではずっと精神的に落ち着かなかった。元夫から結果的に逃げた実家でも父と母の喧騒と、耳が遠い父のラジオとテレビの騒音、長年の捨てられない両親の物だらけの環境で、だんだん居心地の悪さを感じていた私と息子は、いろいろな感情を我慢して、生活していた。聴覚過敏のある息子にとって、父の声や騒音は我慢できない環境で、だんだん、息子は暴言や物を壊すことも増えてきた。これはまずい。早くこの環境から何か抜け出す方法はないかと、いつも悩んでいた。悩んでいないように見える私はずっと悩んでいたのである。悩みながらでも、毎日楽しくできることを見つけては、一つ一つ試してみることにした。その一つ一つの点のようなできごとが、不思議なご縁のように一つ一つつながっていき、静かで安心感のある村に、住む家と仕事が決まった。自分でもここに住もうとは以前から思ってもみなかった。この村は多くの人が知るような有名な村ではない。山に囲まれ、車では隣村から峠を2つ越える場所であり、すぐに人が来ることができる場所でもない。多くの人が簡単に来ることも知ることもできないこの村は、良く言えば秘境で、悪く言えば僻地と言われる場所である。そんな村だからか、私は良いなと少し思っていた。しかも、この村には私の心を癒してくれた草木染めという伝統工芸がある。自然が身近にあるからこそ、その文化と場所がこの村にあることも最初の移住先の決め手となった。やっと、両親や元夫の喧騒と窮屈さから私たちは解放されたのだ。毎日窮屈に暮らすことなく、否定もされず、型にもはめられず、自由にのびのびと静かに過ごせる環境に辿り着いた。長年、身近な家族に心を痛め、傷ついてしまった私たちはその家を脱出し、本当に更地となった。自分で一から決めていい生活がようやく始まった。私は、この秘境的な村で、何かに傷ついてしまった女性や子どもたちが訪れて安心できる場を将来作りたいと思っている。その場所を訪れた人が、何か心軽くなるような時間が過ごせたら良いなとも思う。
 過疎と言われるこの村と、住み慣れた東京の下町とのカルチャーショックで最初は戸惑った。都会とは違い、昔話のような風景がそこにあった。買い物も電車の利用も、とても不便だが、とにかく静かで平和な時間と精神的な安心感がここにはある。新しい生き方、新しい人たち、見たことのない風景を見ることができた。買い物できる場所は3か所しかなく、電車も一時間に1本だ。私は車の免許はあるが、東京では車に乗る必要がなく、ペーパードライバーで車もなかった。これから車も必要になりそうだ。ここで親子二人、どのくらい生活していけるのかとときどき不安になる。更地となっても、今までの私ではいられなくなったようで、100%いられなくなったわけではなさそうだ。
 今の苗字は、村の方に紹介された職場で呼ばれるため、結局これまで通り、しばらくは苗字で呼ばれるのだろう。でも私は、もう一つ、もう一人の自分の名前で新しい仕事を作ってみたいと思っている。それはまだ公式ではないが、いずれ公式にも使っていけるようになるのだろうか。その第二の場所で生きるもう一人の名前はなにが良いか。そんな風に思っていたとき、以前からお世話になっている道草家の方に「深く考えずに適当につけたらよい」と言われた。それは、その日たまたま見かけた本の登場人物だとか、たまたま聞いた言葉とか、あまり深く考えなくてよいと言われた。どうやら私は、自由に何かを始めるとき、最初のとっかかりでいつも考え込んで、立ち止まってしまうことがある。だから思いやアイディアは色々あるのに、さらっと動き出せないことがある。何かを始めるときに、その「適当」というのがむずかしい。慎重に一つ一つ後先のことを丁寧に考えて、調べて、進むまでに時間がかかってしまう。だからいつも人の何倍も手間も時間もかかる。そんなとき、もっと気楽に、自由に「適当」に走り出せたらいいのになと思う。それをいつもだれかに相談し、なにげないヒントに救われ、走り出せる。見た目の雰囲気は、「自由」で「気楽」で「適当」に生きていそうと言われるのだが、実際はあまりそうではないかもしれない。そのギャップに後で驚かれることもある。とぼけているように見えて、実はものすごく考え込んでいる部分もあり、良くも悪くもそんな風に思われにくい自分の見た目や話し声が、ときどき嫌にもなってくる。
 そんな私が良い加減で「適当」に、新たに前に進むために、名前を付けようと思っていたとき、息子がキラキラした目で学校から帰ってきた。
「今日、学校の庭で、なつめを食べた!」
 と、言って真っ先に私に話し出した。
「なつめ? なつめって何?」
 と、私はよくわからず、息子に詳しく聞くと、
「甘くて、中はちょっとすっぱいけど、梨みたいで、おいしい小さな実。」
 と教えてくれた。私は、「なつめ」という実があることをその日、初めて知った。どんな実なのか気になって、Googleで検索してみた。画像で見ると、赤いビー玉ぐらいの小さな実だった。さくらんぼのように赤い小さい実で、硬さはリンゴのような実らしい。この世に「なつめ」という実があったことも知らなかった。ついでに「なつめ」の花言葉も調べてみた。花言葉には、「健康」「若々しさ」「あなたの存在が私の悩みを軽くします」と書いてあった。私はこれを見て、新しい私の名前はこれだ! と一瞬で思った。「あなたの存在が私の悩みを軽くします」という言葉もひっかかった。
 これだ。与えられた仕事で使う私の名前は今まで通りの苗字で、新しく作る自分の仕事で使う名前は「なつめ」にしよう。これから私の作る仕事で、誰かの悩みを軽くするような活動ができたらいいなぁ、と思っていた私にぴったりの実を息子が教えてくれた。そんな「なつめ」という名前を私は一瞬で気に入った。
 その後、息子に「なつめ」の実を採ってくれた小学校の用務員の先生と学校で会い、「なつめ」について少し聞いてみた。
 用務員の先生「なつめはこの村のおやつでね、小さい頃、よくみんなで採って食べていたんですよ。だから、なつめは村にとって公式のおやつなの。いっぱい採って食べても怒られなかった。(笑)」
 私「へー、そうなんですねー。公式のおやつ、なんですねー。」
 と、適当に答え、こうして私のペンネームは好い加減に、適当に決まった。このペンネームも将来公式の名前になるのかな。


月夜  - 川島眞理子 × 晴海三太郎

逆挿絵・川島眞理子

わたしは外の空気を吸った。自分の降りてきた所には、乗り捨てられたような灰色の車があった。二車線道路の脇にそれは停められていて、たくさんの木が、森が、覆いかぶさるようにあった。雲の隙間に、月が淡くあった。道路には水たまりがあちこちにできていた。来たことのある場所ではない、とわたしは思った。道はまっすぐに続いていて、少し歩くと、その先に何かの建物の影が見えた。遠いように見えて、それは近かった。暗闇に埋もれたその建物の前を通りすぎた先で、道は大きく左にカーブしていた。その方向から、懐中電灯を振り回しているような光が見えた。光は雲の天井に当たって揺れていた。ゆっくり歩いていると、人の声が聴こえたような気がした。耳を澄ますと、しかしそれは聴こえなかった。ただし人の気配はするのだった。わたしはなぜか少しホッとした。そこから先はまた直線の道路だった。森の木々に挟まれるようにして、その道はあった。ふと見ると、路上を不思議なほどに細い影がついて来ていた。わたしは飛び跳ねてみた。影は揺れる。こんどは人の歌うような声が聴こえたような気がした。またすぐに聴こえなくなってしまう。月が近づいてきているように見えた。水たまりが三日月型に切り取られて光っている。わたしは踊り出していた。(文・晴海三太郎)


犬飼愛生の「そんなことありますか?」 ①

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「蜘蛛」
私は膝が痛い。きっかけはコロナ禍前に始めたダイエットのせいだと思う。痩せたい一心で通っていたスポーツジムで慣れない運動をして痛めたのだ。膝を痛めてから、湿布を貼ったり鍼灸院や接骨院に通った話は雑誌『アフリカ』にも書いてきた。あれから数年たつが、まだ痛い。全然よくならない。鍼灸院や接骨院はこちらを破産させる勢いで自費治療を勧めてくる。破産するのも困るので、知人に聞いた評判のよい整形外科でMRIを撮ってもらうことにした。結果は「半月板損傷」。「えー、これはね、治るとかそういうもんじゃないんです。関節に油を差して動きやすくして長持ちさせる。これが大事なんです。」と妙に艶のある顔の医者が言う。半月板損傷…。損傷しているんだから、鍼灸院で鍼治療したり、接骨院で押したり揉んだり引っ張っても治らないわけだ。悲しみにくれながらポイントがまだたくさん残っていた接骨院とは決別し、整形外科に通うことにする。
医者のいう「油を差す」とはすなわちヒアルロン酸を注射することである。動きの悪くなった膝にヒアルロン酸を注射するとしばらくの間、痛みも減って動きやすくなるのである。先日もこの注射を打ってもらうためにベッドに呼ばれて待っていた。とにかく人気のある病院なのでなかなか順番が回ってこない。ベッドに寝かされた私は天井をただ眺めるしかなかった。古めの内装の天井は、昔からあるタイプの「ずっと見ているとどこかしら人の顔のように見えなくもない模様」をしており、シミのような、点のような模様を眺めることになる。やがて看護師さんがやってきて「先生がもうすぐきますので、ベッドを上げますね~」と足元のペダルを押して医者が注射を打ちやすいようにかなりの高さまでベッドを上げた。その時だった、天井のシミのような、点のようなものが動いたのは。それは蜘蛛だった。よく見る小さな家蜘蛛。しかしその蜘蛛はベッドが上がると同時に糸をだし、あろうことか降下を始めた。近づく私と蜘蛛の距離! まるでスパイダーマンのように、いや、単なるスパイダーが私の顔のど真ん中めがけて降りてくる恐怖! 家蜘蛛くらいの小さな蜘蛛ならば普段は怖くない。しかしそれが糸を吐きながら寝ている顔の真ん中に降りてくるのはかなり怖い。「ちょ、ちょちょ、看護師さん! 蜘蛛が! 顔にッ、降りてッ、来ますッ!」。慌てた看護師がベッドのペダルをぎゅんと踏んで、今度はベッドが急降下する。ぼよよんと揺れる私の体。異変を察知し、糸を巧みに操って天井に戻る蜘蛛。おい蜘蛛よ、壁を伝って移動すればよいものをなぜよりにもよってそんなところでショートカットして降りようと思ったのだい? きっと私と同じでかなりのドジなのではないかしら。親近感を感じるがもう会いたくはない。それ以来、天井から蜘蛛が降りてこないか毎回チェックしてしまう私なのでした。


傍観者の笑い  - 宮村茉希

お笑いというものに馴染みがなかった。
テレビっ子世代でもなく、幼い頃は友達との話題共有のためにバラエティを選んで観ていた、ぐらいのものだった。
正直な感想を言うと、決してお笑いに惚れ込んでいたわけではないのだ。たまたま入った東京の地下お笑いライブの新鮮さに心が浮き立った。2021年の夏の新宿に始まり、下北沢、高円寺、池袋。お笑いライブは午後の7時から2時間弱の時間、開催されることが多い。夜の繁華街で遊んだことなど無かったが、20代後半に差し掛かった頃に突然「お笑い文化」の縁が巡ってきた。
酒を呑んで酔っ払う感覚が気持ち良いのと一緒で、笑うと自己逃避ができる。笑いに酔いしれている人間達のモットーは「人生楽しく生きなくっちゃ!」だ。ロクデモナイ連中が毎晩下品な笑い声をあげる。
コロナ禍だというのに、芋を洗うようにぎゅうぎゅうに客が詰め込まれたライブハウスは、暗くて汚く、得体が知れない。開始時間になると、スポットライトの明かりが芸人に向かって差し込む。(この明かりを体に浴びると実は滅茶苦茶に熱い。)
その反対に、暗闇に潜む客はパイプ椅子に座り鑑賞するだけ。自分が何者でもなく、東京の街を漂い放浪している感覚が心地よかったし、同じ場で笑いを共有していることで見知らぬ人々とも一体感を感じられる。

壮大な自作自演劇。悲劇よりかは喜劇に仕立て上げてしまおう。「オモロい」を追求する感性。どんな失態も笑いに昇華する。他者をイジり、悪口から下ネタはなんでもありで品が無い。口から溢れ出る唾は光り、体を張って全身全霊で大声を出し表現するその姿には、言い表せない魅力があった。日常の平凡さを一瞬で取り上げてしまうエンターテイメントの数々。Boring!と叫んで銃を撃ちまくるシャーロックホームズと同じで、事件が無ければ退屈で死んでしまう。笑いに取り憑かれた芸人達の意気込みは自分には無いものであり、新鮮で何度もライブのチケットを買った。エンタメに完全に飢えていて、頭の中はいつもそのことばかり。演者達の必死の躍動を見届けたい気持ちに駆られたのだ。

そんな芸人達の行く末、最終目標地点は何処なのか、と言ったら、賞レースに出場し、世に自分が作ったネタを広げることであり、結果を残すことなんだ、と私は解釈した。
普段、お笑いに関与しない人間が認識している芸人というのは、爪痕や結果を残した人達のことであって、全く売れていない、世間には名も知れ渡っていない芸人が地下にたくさん蔓延っていて、洗練されすぎていない、個性的な表現が観れる。荒削りの人材の宝庫だった。芸人達の表現ひとつひとつが個性的で何より自由だった。もちろん、ネタで使う小道具は芸人達の手作りであり、照明や音響も芸人達が担当する。

狭く小さな薄暗い小屋の中でネタを披露していたコンビが、年に数回行われる賞レースで結果を残すと、瞬く間に有名になるのは驚きだ。
昨日は窮屈な箱の中で観ていたコンビが、テレビという特別に影響力のある小さな箱の中に瞬間移動している。家で何気なくご飯を食べている間に、スタジオに居る客達の笑いと歓声がどっと湧き上がる。わざわざ東京まで足を運ばなくたってリモコンのボタンひとつ操れば、活躍が観れる。私の労力など関係無しに楽しそうにしている。
殆どの芸人は、そんな夢にがむしゃらにしがみついているのだと思う。アルバイトで食い繋ぎ、小銭稼ぎにしかならないライブから足を洗い、唯一無二のネタが全国民に認知される。

多くの芸人ファンは、推しのコンビが賞レースで勝ち進み、のし上がることを望みながらライブに通うのだが、私にはその気持ちは1ミリも無かった。(ちなみに「地下芸人」の定義は、売れようとする気概と向上心が全く無い芸人のことだ、と人づてに聞いた。)
私にとっては売れてほしいというのは後付けであって、地下ライブでしか体験できない高揚感と、未知の世界を開拓しているような感覚に突き動かされ、ライブに通うことに中毒になっていた。次から次へと休むことなく披露されるネタをたいらげた。ライブが始まる直前、ライブ小屋のすぐ横の路地裏に群がり、寂れた壁に向かって大声でネタを練習する連中を私は傍観する。通りすがりの人々は純粋な笑いではなく嘲笑うような顔をして消えていく。数えきれないほどの大勢の人間が芸人なのだろうが、ここから売れるのは一握り。売れなければ負け組確定? 日の目を見るのは一体誰?

一年弱、東京の歓楽街を放蕩しお笑いライブを見続け満足していて、はたまた予想もしないコンビが着実に売れてゆく過程も観ることができたが、更に予想もしない事実に打ち当たる。
ライブの主催者が企画したサイン会に参加した時のことだ。その際に初めて地下ライブに参加した時に出演していた推しの芸人と接触できたのだが、目も合わせず流れ作業のように色紙に油性ペンでサインを書き始めた。
なんとなく不穏な空気感が漂っているのを察知しながら、恐る恐る話し始める。
「あの、応援してます。」
「…………もう帰りなよ、お嬢さん。」
「……はあ?」
ネタを披露し、観るだけの行為でカモフラージュされていた一個人の芸人の感情や不快な気持ちが一気に私の中に流れ込んできた。なんじゃこいつ? あまりにも噛み合わない会話に面食らう。その態度はどう考えても、客としての自分を見下したような扱いであって、決して対等な人間関係を結ぶような繋がりでは無いという事実である。たった30秒にも満たない時間の内に「芸人不信」の感情がチラつく。
ただ、笑い、その場の空気を感じるだけで幸福だったものが、その芸人の対応は自分の存在と輪郭を強く感じさせるものだったので腹が立った。

ビカビカと輝く歌舞伎町一番街のアーチが窓から間近に見えるドトールで、数人のお笑いファンと集まり、あまりにも酷い態度だと思ったよ。と話しながら、カフェラテを飲む。
ひとりの女性が話し始める。「あなたが思うほど良い人達じゃないよ。尖った人が多いのだから。お笑いを嫌いになる前に離れなよ。」

揺蕩うことはできても、居場所では無い。
頭で理解できても、心が落ち着かない。
刺激を求めながらも平凡な人生を歩むことを選び、世間に選ばれることも、日の目をみることなどもあり得ない一般客が目指したい場所などある訳がないが、どこかもっと遠くへ行きたくなった。
すっかり冷めきった心を持て余し、はあ、とため息をついた後、ドラッカーの傍観者の時代の一文を読む。

「家に着いたとき、早い帰宅をいぶかった母が、具合でも悪いの、と聞いた。最高だよ。僕のいる所ではないってわかったんだ、と答えた。11月のあの寒い日にわかったことは自分は傍観者だということだった」『傍観者の時代』

ドラッカーの境遇と自分の経験とを重ね合わせるのは烏滸がましいとは分かっているが、なんだか気分が落ち着いた。
同じ11月のことだったが、東京はまだ暖かかった。こんなにたくさんの人間がいるのだ、傍観しているのは私だけではないはずだ。
ライブ帰りの電車に揺られ、次は何処へ紛れ込もうか? と自分に問いかける。


今日の空の色は  - RT

11月13日 雨のち曇り暗鼠色
起きたら天気予報のとおりに雨で、リビングで過ごしながら吹き抜けのガラスへ当たる大きな雨音に憂鬱な気持ちになっていたら夕方静かになったので、散歩に出てみようと思った。
雨上がりの空が暮れていく、夕焼けは見えずうすぼんやりと夜へと移り変わっていく。わたしのような空だなと思った。
思えば自分の気持ちを表に出すことが少ない子供だった。写真に写っているのはいつも真顔か笑っているのかいないのかわからない少し唇を歪ませた顔。
喜びも悲しみも表に出してはいけないような気がしていたしなにかに一生懸命になること、それを人に悟られることは恥ずかしいことだと思っていた。
どうしてそう思ったのかはわからない。父親が感情を爆発させる人だったから泣いてみてもなにも得られないどころか機嫌を損ねて余計悲しいことになるという学習を重ねていたからかもしれない。
基本的に受け身で誰かが話しかけてくれると話した、だから人の言葉を全面的に受け入れるように見えたのかもしれず、いつもすごく好きになってくれる友達が現れて毎日手紙をもらったり休憩時間はトイレに手を繋いで行ったりしていた。自分がその子のことを好きだったのかは覚えておらず大人になった今は連絡を取り合うこともない。
学生時代人並みに片思いをしていたけど気持ちを伝えるなどと考えることもせず、もしかしたらその人が自分のことを好きなのではないかと想像ばかりしていた、卒業したら会えなくなるのに寂しかった記憶はない。同窓会で何度か会って笑顔は相変わらずだったけれどお腹の出たお父さんになっていてほんとうにこの人のことを好きだったのかなと考えたりもした。

なんともうすぼんやりとした人生だったな。この曇り空はわたしのようだ。でもほんとうにそうかな? と思い直した。
若い時仕事をしていた先でわたしがあまりにも出来ないやつだったのかもしれないけれどいつもきつく注意をしてくる人がいて、毎日行くのが嫌だったけれど辞めるのは悔しくて、親に心配をかけたくないから仕事の帰り遠回りして原付のフルフェイスのヘルメットの中で泣いて涙が乾いてから家に帰った。
結婚して大阪に来ることになって最後の日にその人が「いつも一生懸命やからな」と言ってくれた。わたしはいつの間にか一生懸命頑張る人になっていたのかもしれない。いまは真面目なことが恥ずかしいどころか自分の長所だと思うようになった。
なにかで一番になれることなどないと思っていたから望むこともしなかった、でも好きな人が一番に自分のことを優先してくれないと気持ちをコントロールできないくらいに怒ったりするのだ。マラソンのタイムや順位を気にして幼なじみに驚かれたりもする。案外わたしは負けず嫌いで、上を上を目指したいのかもしれない。悪くない、悪くないと思う。

わたしは同じ曇り空でも雨上がりの穏やかな空ではなく嵐が起こる前の空のような人になりたいのだ。
浄土真宗のお寺の住職さまが「人生は稲妻のように短い」とおっしゃったことが強く心に残っていて、どうせ稲妻の一瞬なら、思いっきり派手にピカッドンガラガッシャーンとやってやりたいのだ。
それがほんとうの自分だという気がするし人生の主役になれた気がするんだもの。

11月19日 晴れ寂青色大きな魚みたいな雲
以前魚はどうして跳ねるのかな、どこか別のところに行きたいのかなと思ったことがある。
少し前に仕事場に行くのがどうしても苦しくなってしまってそうだわたしも跳ねてみようと決めた。

障害者に向けた就労移行支援事業所というものがあるのをTwitterで見て知っており、手当たり次第に見学の予約をした。同時にとある自治体の障害者正規職員の採用試験に応募していて、これは昨年も受けて落ちたのだけど60歳まで応募できるので毎年受けてみようと思ったのだ。
見学の一件目は美容に特化した事業所で、美容師やネイリスト、着付けやメイクの資格が取れるという興味深いところだった。とてもきれいな目をした若い女性が所長さんで、わたしはいまの仕事に行くのが辛いこと、長くやりがいを持って働ける仕事をしたいことなどを話した。
所長さんも、もう1人対応してくださった職員さんもとてもいい方で、なのにそこに通う自分をイメージ出来なかったのは、駅から事業所までの間町を見ながら歩いている間になにか寂しい不安な気持ちになってしまってここに通い続けることが出来るのだろうかと思った事と、これまで美容系の仕事をしたいと思ったことが無かったのににわかに手に職をつけたいというだけでその業界に進むことに違和感を覚えたからで、そんなこと言ってる場合ちゃうねん、わたしは仕事見つけやなあかんのやからと心は言うのだけどどうもふんぎりがつかなくて、メールをお送りして自分に可能性などないと思っていたのにそうではないとわかったことへのお礼と、自分がどうしたいのかよく見つめてみますと書いた。

そうこうしているうちに自治体の一次試験があって、今年は勉強をしなかったのだ。
それにその日は肩が痛くて最悪で、びりびりと背中の痺れもある。去年勉強したことが少しの助けになったのか社会系の問題は回答を選択することが出来て英語は春頃からアプリを毎日やってたのが幸いしたのかなんとなく意味をつかむことが出来て、判断推理系、数学は勘だけで答えた。
まあ記念受験やな。来年も受けよう。と思ってたらある日人事人事Gというところからメールが入って、合格したというではないか。
そこで変なスイッチが入ってしまった。
これは面接も受かるしかない。受かる運命のときは受かるのだ。という思い込み。はるやまにスーツを買いに走った。わたしのサイズはあるのかなと思ったらフレッシャーズスーツの最大サイズが辛うじて入って、それも思い込みを加速させた。入庁式にもスーツ着るし、もうちょっと痩せておかなあかんな。仕事に行く時用に何着か持っといた方がいいよな。わたし公務員になれたら一人暮らししようかな。通うの大変やし。
いまの仕事で手のかかる事態になったときは、そうだこれは正規で働くための練習なのだと思った。どうやらわたしは喉から手が出る程に正規雇用の職に就きたかったらしい。世のため人のため働くという視点は完全に消え去っており、まあ面接試験で受からなかったのは当然といえば当然かもしれない。
来年も受けるかもしれないけれど。

試験に落ちた感傷に浸る間もなくその日は事業所に体験の予約を入れていたので向かった。
ある心理学を取り入れている全国的にも珍しい事業所らしく、そこにいる人は皆優しくて、お名前なんですか? と話しかけてくれたり、初めて会った人たちの中でわたしがここは居心地がいいなと思うのは珍しいことだった。でも終わりの会の時にそれぞれのいいことを発表しましょうと言われて、試験に落ちたのにいいことなんてあるわけないやろと思ってきつかった。それに自分が変われば生きやすくなるという心理学が自分に合わないんじゃないかという懸念があった。わたしはいまのわたしが結構好きなんだ。変わりたくないんだよ。不自由な自分も嫌いじゃないんだ。
断ろう。と思って面談室で所長さんと向き合ったら、体験中これから自分がどうなりたいかの話をした時に言った、お金を貯めてコーヒーショップを開きたいと言ったことを褒めてもらった。
今まで頑張ってきたんだから夢を夢じゃなくしましょうよと言ってもらって気分が上がって、この事業所に通って夢を叶える自分を想像してしまった。どうせ叶えるならやりたいことをやりたい。そうだ写真を撮って暮らしたい。Twitterに投稿したら優しい方たちがいいねしてくださって舞い上がり、そこから仕事中にも暇が出来たらどうやったら好きなことで暮らしていけるのか夢想に浸った。

……気が付くと今の仕事場が嫌で無くなっていた。不思議だ、あんなに苦しかったのはなんだったのだろう。
そして新たな目標を見つけたのだ。これについてはまた書きます。
結果としては幸い辞めたいと一言も漏らしてなかったので今のところで来年も継続させてもらえるならお世話になろうと思う。

跳ねてみて戻ったところは元の世界だったけれど跳ねた先には間違いなく別の世界があって、わたしはそれをかいま見た。以前のわたしと同じじゃない。これからも何度でも跳ねてやろうと、いまは思ってる。



leave behind  - 神田由布子

ずいぶん若いころ
大事なものをあの橋の手前に
置いてきた気がする
そのまま橋をわたって森に入り
住処をさだめたが

やはり気がかりだ
置いてきた何かが
今もあのあたりにあるだろうかと
取りにもどらなくては
あれはわたしの持ちものだから

おだてながらそのじつ
巧妙に囲い込む臆病者の手にのって
うかつにも よそ見していたら
いまや切符の買いかたも
荷づくりのしかたさえ
わからなくなりかけている

行かなくては
すべてを忘れてしまう前に
臆病者をまたいで
あの橋まで
大陸から乾いた風の吹きはじめる日
ペーパーバックの地図をかばんに入れて


彼女の話  - UNI

 料理が嫌いなくせに、昆布で出汁なんてひくから怪我をする。
 ずぼらな彼女は出汁をひくための昆布を手で折ろうとした。昆布は割られながら、彼女の右親指の腹を切った。ズキンという痛みは、ドキンとは違った。
 昆布? 
 彼女はギザギザに割られた昆布の先と傷を見比べて眉をひそめ、流水で傷口を洗い、強く傷口を押さえた。ドキドキしてはいなかった。ズキズキという刺激だけが、指から体の中心部へギザギザに広がっていく。
 大学時代の集まりで、手を切ったことを彼女は思い出す。
 その集まりの委員長をしている男は国立大学を何年も受験したのちに結局私立大学へ入った経緯からか、周りをバカにする顔を隠しもしなかった。刷りたての資料が、そんな委員長の顔に萎縮しながらそれを配る彼女の指をスパっと切った。指を紙で切ることくらいよくあることというような浅さの傷ではなく、彼女はその深さに動揺した。そこには委員長と仲良くしている背の低い男がおり、彼は有名国立大附属小学校からとんとん拍子に上がることができず結局この私立大学へ流れ着いたのだが、ボランティア精神に あふれ仲間を助けることに大きな喜びを感じているような人間で、それはおそらくボーイスカウトを長年やってきたからだったに違いなかった。なぜならそのボーイスカウト経験者は彼女に傷口をしばらくしっかりと押さえておけば大丈夫だよ僕はボーイスカウトをやっていたからねとそのとき静かに教えてくれたからなのだった。ボーイスカウトをどれくらいの期間やっていたのかは聞けずじまいだった。

 ボーイスカウト経験者の知っているあのときの傷よりも、昆布は深く彼女の指を切っていた。しばらく傷口を押さえていたが指から始まるズキズキは止まらず、薄い絆創膏を貼ったがズキズキはおさまるどころか強くなってきたような気がした彼女は、近所の薬局へと歩き始めた。彼女が今まで使いたかったけれどその機会がなかったキズパワーパッドを試すことのできる時がきた。ズキズキという痛みは辛いけれどキズパワーパッドは使ってみたかった。ズキズキは少しずつワクワクに変わっていった。
 そういえばドキドキすること、ワクワクすることは、最近の日々のなかには無い、と彼女は薬局までの片道十五分のあいだに思い返していた。
 
 予期せず訪れる良きものを、ドキドキすることとしよう。
 最近の彼女は失敗したくなくて、たとえばお店がコロナ対策のせいで予約制になっていることを知らなかった、ごはんの量が多すぎて食べきれなかった、そもそもお店は定休日だったなど、どこかへ行く前にはそういうことを防ぐため調べてばかりいた。
 熱海で行われているアートイベントについてろくに調べずに現地に向かったのは、予期したくなかったからだった。
 意図されてのことなのかアートイベント自体が詳しい情報をあまり出していなくて、さすがに会場のひとつであるホテルニューアカオに着けばマップでももらえるだろうと彼女は思っていたがそれは甘い考えで、マップはもらえず、よくわからないまま人の流れと自分の感覚を信じててきとうにうろうろしたのだった。それはドキドキを与える時間だったのか、私は彼女に問うた。ドキドキよりもワクワクだったと彼女は言った。そこになにがあるのか、彼女はある程度わかっていて飛び込んだからだった。キズパワーパッドを探しに薬局へ歩いたのと似ていたのだろうか。それについてはまだ尋ねていない。

 ホテルニューアカオをぶらぶら歩いたあと、彼女は熱海駅付近に戻り、またてきとうにうろうろした。てきとうに入ったお店ではコロナ対策のせいで七十分だけの滞在を請われた。ひとりで食べるので制限時間内どころかすぐに食べ終わるだろうと思ったら、サラダもスープもでてきて、それだけで彼女は満腹になってしまった。メインのカレーにたどりついた頃には、食べきれずにずっとモグモグと咀嚼をくりかえしていた小学校の給食を思い出して悲しくなった。もうドキドキは体にあわなくなっていると彼女は最後に言った。
 それから数か月後に松原タニシの『死る旅』でいわくつきの場所としてホテルニューアカオの写真が出ていたとき、彼女はギョッとしたのだという。

 彼女の話を忘れかけていた頃、若林正恭の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を開くと、「ドキドキしながら答えを待っていると、マリコさんがぼくに「············鯛が入ったらしいです」と耳打ちした。」とあった。


混ざり合う/道草指南(断片) - 下窪俊哉

 何から話せばいいんだろう。とにかくありとあらゆるものが、ことばが、イメージが、音が、そこら中を飛び交っていて、少しは静かにしたらどうだ、という声が自分の体内に鳴っている。
 いまはどこにも、沈黙なんてものはない。より大きな音を聴くために、静けさの中に入ると、音がサラサラしている。
 子供の頃には、よく失くし物をした。あるときふいに、思い出すような記憶がある。父母からいろんな色の字が書けるペンを買ってもらい嬉しかったのに、すぐに行方不明になってしまった。その悲しみもすぐに失くしてしまうのだが、忘れられた悲しみはどこへ行くのだろう。
 心の底に、悲しみの湖がある。その畔で、ことばの陰に身を潜めていると、どこからか白黒の猫が歩いてきて本の背をかすめ隣のページに入ってゆき、サッと走り去ってしまう。
 ──トンネルを抜けた。白い建物と南国の樹々が走ってゆく。緑と青の混ざり合った海に、空が落ちてきているのが見える。

  

 ──先生はしかし、道草のプロだから。
 きみがそう言うと道草氏は、花が一斉に咲いたように笑い出した。
 橙色の花びらに黄色い光を飛ばして、透明な黒い染みが空中に浮かび上がる。光は飛び跳ね、ゆらゆら揺れている。
 ──そんなに笑うことないでしょう。
 ──いや、だって私は先生じゃないし、プロって……
 まだ、笑っている。
 突き上げる緑の茎が掻きむしったような線を描き、青々とした葉と瑞々しい肌、光はその上を遊ぶ。鳥たちの吹く笛の音が、反射して消える。
 ──でも道草といえばあなただって言う人は少なくないんです。そんな人をあまり知りません。
 ──あまり、ということは少しご存知ですか。道草を仕事にしている人を。
 きみはその仕事ということばの響きにドキリとする。いくら道草、道草、道草と言い、聞かされてもそんなふうにドキリとはしない。
 ──シゴト……なんですね。
 ──それにはまあ、いろいろありますから。
 道草氏は涼しい顔をしてそう言う。熱くなっているようなところがない。きみは何がいろいろあるのかサッパリわからない。
 ──で、その、道草の同業者をご存知ですか。いらっしゃるとしたらお会いしたい。
 ──いや、その、あまりと言ったのは、あの、出まかせで……
 と言うが道草氏はガッカリする様子もなく、
 ──いや、出まかせはいいんですよ。出まかせも言いましょう。
 などと言う。


今月の表紙・宮村茉希


巻末の独り言  - 晴海三太郎

道草の家というのは元々、編集人の住んでいる家の愛称だったが、いまでは彼の活動拠点を指している。具体的なある家というよりは、彼の企画する何事かが行われるところに道草の家はボンヤリと現れる。ハッキリとではなく、ボンヤリと現れるというのが大事なことのようだ。WSというのはワークショップの略で、一般的にそういう略し方をするのかどうかは知らないが、何となく伝わればいい。この『道草の家のWSマガジン』で重要視されているのは、洗練とか熟考とかということではなくて、雑然とか思いつきというようなことだ。書きっぱなしの荒削りなものを、ここに置いてみて、眺めたり、それについて語ったりしようという趣旨でこのウェブ・マガジンを立ち上げてみた。これからこの場が、どうなってゆくのかはサッパリわからないけれど、とりあえずやってみよう。


道草の家のWSマガジン vol.1(2022年12月号)
2022年12月10日発行

銅版画(表紙)- 宮村茉希

- 川島眞理子

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/神田由布子/下窪俊哉/なつめ/晴海三太郎/宮村茉希

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカの夜
読書 - 波をよむ会
放送 - UNIの地獄ラジオ
一息 - 珈琲焙煎舎
名言 - 期待は失望の母
準備 - 深淵熟考倶楽部
進行 - ダラダラ社
心配 - 鳥越苦労グループ
鼻唄 - 晴海三太郎 & 貧乏ヒマダラケ合唱団
出前 - お父さんのカレー研究所
甘味 - お母さんの本音監察室
休憩 - マルとタスの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房


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