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道草の家のWSマガジン - 2024年10月号


ネコ番組 - 優木ごまヲ

ネコの出てくる番組をつけると子供が喜ぶので、家事をしたい時や、ちょっとエネルギーのない日などに、テレビのハードディスクの中のネコ番組を再生して見せている。野良猫が路地裏を歩きまわり、仲間たちと遊び、ご飯を食べ、のんびり眠る様子が、穏やかな音楽と共に一時間続く。いいじゃないの。遠景にローカル線が走り抜けていく場面などもあるから、鉄道好きでもある子供は大はしゃぎだ。ネコが出てくるバラエティー番組は数あれど、安易に感動ストーリーへ持っていこうとしたり、ネットの面白ネコ動画を流すだけだったりするので、それよりは、録画しておいたのんびりネコ番組を見せたい。少なくとも我が家において「若者のテレビ離れ」は発生していない。
ところが、のんびりネコ番組といえど侮れないところがある。授乳中の母ネコが、子ネコたちのそばを離れて一人、いや一匹になるシーン。男性のナレーションがこう言う。「たまには、休みたいよね」。つまりは、母ネコもたまには一匹になって(母ネコ業を)休みたくなるよね、分かりますよ、人間もそうですから、という意味らしい。少なくとも、そう解釈されることを放棄していない表現。ああん? なーにが「たまに」だ! わたしは毎日休みたいんだよッ! と怒りに任せてトマトをぶん投げていたら夕ご飯は食べられないので、投げずに続行する(そういえば昔、母と喧嘩になってプチトマトを投げられたことがある)。本当は毎日休めないなんて知っている。許されるのは本当に「たまに」だということも。とはいえ、これは考えようによっては完全に精神の問題で、追い詰められるくらいなら自負なんぞ三角コーナーにポイしちゃえばいい。でも結局は捨てられないんだ、美味しいから。醤油と砂糖で炒めたらきんぴらにもなる。待てよ、それはカボチャの皮のはなしか。
ひょんなことから移住してきた香川県は野良猫が多い。温暖な気候のため、野良暮らしをしていても生き延びられてしまうのが原因の一つのようだ。野良で手術をしないままだと繁殖行動によって次の世代ができ、「オトウサン」、「オカアサン」、そして子供たちが増える。少子化、核家族化の現代、子だくさんの夢と拡大家族の賑やかさ、そして「オカアサン」の忍耐と慎ましさは、ネコ番組に託されるのだろうか。
別のシーンでは、母ネコと子ネコが並んでネコ皿の中のカリカリを食べている。食べ終わった子ネコは母ネコの皿の中に頭を突っ込み、カリカリを奪おうとする。身を引く母ネコ。「さすがお母さん、息子に食べ物を譲るんだ」というナレーション。なにを! と思った次の瞬間、母ネコは再び皿に頭を突っ込んで負けじと食べ始めた。そうでしょう、そうでしょう(CV:植木等)。譲ってばかりじゃ身が持たないの。我が家でもよくある光景よ。
オスネコは育児に一切関与しない、と『ノラネコの研究』(福音館書店)に書いてある。気に入っているのか子供がよく持ってくる本で、大人でも十分読みごたえがある。「本当にその通り!」とイライラするか、「わたしたちはネコじゃないからな」と安堵するか。その一節が、わたしの精神状態の、もとい夫の忙しさのバロメーターになっている。ああ、そうか。うちの玄関にある豪徳寺の招き猫は、夫を招いていたのか。


さすらい人のヨコタさん - RT

実家のテレビのある部屋でおやつを食べていたら庭で従兄弟たちが汗だくになって二層式洗濯機を分解掃除してくれている。母が頼んだようだ。わたしたちがしなければいけないのに申し訳ない気持ちになって、まずタオルを渡して、なにか飲み物を用意しようと台所に繋がる和室のドアを開けたら、見知らぬ人がハンモックのようなものに寝転がっていた。

黒いおかっぱ頭で無表情の30くらいの男の人。でも不審な感じはしない。
その人はわたしに気付くと起き上がって言った。
「驚かないでください。わたしは横田というもので」
そこまで聞いた時わたしの記憶が蘇った。さすらい人の横田さんだ。
「前にもお会いしたことがあります。〇〇ケ崎の民宿で御飯を御馳走になりました。」
横田さんは、一夜の宿を借りる代わりに晩御飯をふるまってくれる人なのだ。
「来てくださると知っていたらもっと家を綺麗にしておいたのに。あの、わたしの部屋だけは見ないでくださいね。散らかっててびっくりすると思います。開かずの間みたいな部屋なので。」
何かお料理でおもてなしをしようかと考えたけど、台所には大きなクーラーボックスがあって、たぶん海鮮がどっさり入っている。ヨコワのお刺身の準備もしてくれている。今夜は庭で海鮮バーベキューだ。

横田さんが訪れた家は栄えていくと言われている。まさかうちに来てくれるなんて。両親も心が弾んでいるようで、わたしも庭の草むしりをして準備をしなければと思っているところで、ハッと目が覚めた。
朝ごはんを食べて少し横になって、完全に寝入っていたのだった。ここは大阪の我が家。家族は仕事にいってひとりだ。両親はもうあの世だ。受け止めているはずなのに両親が生きている夢ばかりを見る。

横田さんがいたのは実家でわたしが寝ていた部屋だった。開かずの間どころか家族の通り道になっていて、当時はサッシではなく硝子戸だったから、風が吹くとガタガタ鳴った。散らかそうにも床に物を置いたら捨てられるので、オレンジの学習デスクだけが自分の聖域だった。今はもうない。

その部屋で寝ていると時々金縛りにあうことがあった。絶対に目を開けないから怖いものを見たことはない。
なにかがすごい早歩きでバタバタと近づいてきてお布団の周りをぐるぐると回るのがわかる。それは全然怖くなくて、小人のようなものだと想像する。バタバタと心で呼んでいた。
うちは栄えはしなかったけど、おかげさまで兄弟皆無事に暮らしている。もしかしてあの家に住む座敷わらしのようなものが、これから仏壇じまいをして、家を解体するかどうかという話をしている今、知らせにきてくれたのかもしれない。

それで思い出した。うちには仏壇以外にも処分に気を遣うものがある。額にきれいな石をはめ込まれたピンクの着物を着た市松人形で、ふくこちゃんという。福を呼ぶというふっくらとしたお顔で愛らしい。でもうちには飾るところがないので実家に置きっぱなしにしていた。子供たちが仕事や結婚で家を出て行って、父は入院して、母は人づきあいの好きな人だと思っていたけど本当はとても寂しかったのかもしれない。だからこのお人形を買ったのだろう。
遺影と一緒にふくこちゃんはうちに連れ帰ろう。いつかうちの人形たちと共に供養に出そう。結婚の時にもらった縁起物の人形とか、おじいちゃんの残した金太郎人形とか、いろいろあるのだ。
木のケースに入った瀬戸内寂聴さんの法話テープのセットは義母に言ったら欲しいと言ってくれたので、引き取ってもらった。

あと、掛け軸が何本かあるはずだ。そんなに高いものではないと思うけど古道具屋さんに見てもらおうかな。いつもTwitterで見ている、「金は払う、冒険は愉快だ」の著者、川井俊夫さんのお店ってどこにあるのかな。阪神間のどこかにあるようだ。行ってみたいけどこんなしようもないもの持ってきやがってと怒られるかもしれないな。
あと、本はどうしよう。日本の城の写真集とかもある。

あれこれ考えているうちにお腹が空いてきた。なにもしていないのにもうお昼だ。わたしはわたしの生活をしていかなければいけない。

横田さんの夢があまりにもリアルだったのでまさか実在の人物なのかと思って検索したけど、もちろん出てくる筈もなかった。


帰る場所がほしい - 清水よう子

休職してから1ヶ月ほど経った。
1ヶ月の間、いろいろなことを考えた。
家族の問題、自分の問題、仕事のこと etc.

自分のことを考えた時に、わたしは判断を行う軸のようなものがないことに気がついた。
例えば読書が好きな人の中には、本を読むことを基点として生活を組んでいく。本を読むために時間を作り、本を買うために会社へ行き給与を得る。もちろん生活を作ることはこんなに単純でない。でもわたしはもっと生活を単純なものにしたい。生活はシンプルな方が楽でないだろうか。シンプルな方が考える項目が少なく、ストレスが少ないのではないかな。考える項目が多いと、それらを生活にどのように組んだらいいのか検討する必要がある。
生活の中で生じる出来事の優先順位を決める回数を減らしたい。それがわたしが意味する「シンプルな生活」なのだと思う。

生活をシステム化したいと常々思う。これは会社員になったことと、IT産業に従事し始めたことで得た視点だ。
システムを一度作ってしまえば、後はそのルーティンに沿って暮らせばいい。そこに思考は介在しない。なんて魅力的な考え方なのかと思う。思考が介在すると、そこにエネルギーが使われて疲れる。疲れずに何らかの目標のためにコツコツとタスクを行い続けることに、生活のルーティン化はもってこいなのだ。
自明のことだ。けど気が付かなかった、と言うか、そのルーティンを作ることが面倒で作らなかった。だって自動的にタスクを片付けていくって、自動的にと言えどもエネルギーがいるし、今の生活だけでもこんなに辛いのにそれに加えて新たなタスクをするなんて···とぐずぐずしていた。
けれど、今の生活をずっと続けたいとわたしは思えない。それだったらプラスアルファの何かを組み込まないと、この生活を終わらすことはできない。
とりあえず、毎日2・3個のタスクから始めたらいいじゃない、と思いまずは日記を毎日書くことから始めた。次はお風呂上がりのスキンケアをする時間は英語のポッドキャストを聴くこと。もう少し元気になったら、仕事にまつわるタスクも加えようと思う。

休職を始めた頃に比べたら体調がかなり良くなっている。だけどまだ自分が病人でないことを忘れてはいけない。体調不良によってできないことを、自分の意志のせいでできない、と勘違いすることは大きなストレスなのだ。

冒頭の判断軸に戻るが、わたしはこれだと思うものがやはりまだ無いと思う。絶対にこれをしたいと強く思うことがない。だから迷い人のように人生を彷徨ってしまう。人生における堅固な家が欲しい。帰る場所が欲しい。



麻績日記「東京にはないものがここにある(1)」 - なつめ

 私は東京に戻っても、またこの村に来よう、そう思った。ここは私にとって心身ともに回復した場所であり、今後も回復する場所となるだろう。それはこの村が自然そのものであるからだ。今まではっきりと見えてこなかったことにもはっきりと気が付けた場所でもある。また何か見失いそうになったら、ここにやって来くれば、はっきりするだろうと思っている。一度麻績村を離れても、再び訪れ「どうしてこんな村に来たの?」と村人に何度言われても、私は細く長く麻績村とつながっていきたい。最初から圧倒的な安心感を与えてくれた麻績村。村の人にはわからないことかもしれないが、東京では見つけることができなかったものがここにある。長年この村の優しさと安心感を私は求めていた。令和であることを忘れてしまうぐらいのんびりとしていて、まるで昔話の世界にいるような気持ちになる。素朴な山に囲まれ、移住した秋の田んぼには、はぜかけが並び、民家には干し柿が吊るされ、冬には小雪が舞い、辺り一面が一気に真っ白になった。自然の生き物の音と、植物の匂いに囲まれ、季節が移り変わる様子をここでしっかりと感じることができた。冬、真っ白になった村の雪景色を見ることで、私の心も浄化されていった。この村の自然な空気と入れ替わるかのように、都会で知らず知らず蓄積されてきた人工的で作為的な考え方が排出され、この村の雪に混ざり、やがて解けて消えていった。そして私は、どんどん本来の自然な人間へと変化をし続け、地球上の自然の一部の小さな人間でいる「私」という意識になった。自然と同じように、周りの人に急かされることもなく、比較されることもなく、「急ぐ」という感覚も忘れていった。そのことによって自分にとって自然なペースでいることができるようになったが、たったの5ヵ月少しでこの村を去ることになり、それはそれでとても戸惑っている。まるで気が付くことができたタイミングでこれらを東京にいったん持ち帰って、今度は東京で自然に生きることを今度は試されているような、そんな気もしている。はっきりとしなかった息子の特性、自然の一部の人間である私という感覚、子どもの頃から大人になるまで心の奥で夢見ていたこと、自分の感覚と自分にとって心地よいペースに、ここではっきりと気が付くことができた。今回の移住生活によって、これまで身に付けられてきた価値観もいったんリセットされ、これから自然な私で再生していくために、今まで積み重ねてきたものがいったんバラバラになった。自然な人間になった私で、東京で新たに何を再構築していくのだろう。帰りの電車に乗った今から、もうその流れの中に突入しているようだ。その前に、少しでもこの村で得られたことを忘れないように書いておこうと思う。

 秋に移住した私は、この村を歩いていると、民家に吊るされている干し柿を見て、最初は何が吊るされているのかわからなかった。小学校で干し柿作りをしていた子どもたちを見て、「あれは干し柿だったのか」と初めて知った。私はこれまで、干し柿がこうして外で吊るされてできるということも知らず、見たこともなかった。学校には自然とともに生きてきた無邪気な子どもたちがたくさんいた。この村の子どもたちと話すことで、長年心の奥の方にしまい込み、開けてこなかった箱の蓋が開いていくようだった。すると、生き生きとした表情をした子どもたちが、私の心の奥のほうに次から次へと入って来た。ある日、突然「ほしがきくん」という紙で作った小さな干し柿に顔が書かれたものをくれた子がいた。その「ほしがきくん」の顔は、にこにこと笑っていて、これをくれた子のようでもあった。こんなにも干し柿がこの村にとって身近な食べ物であるということがそのときわかった。私はこの「ほしがきくん」を自分のペンケースの住人にした。まだ麻績村での生活にも小学校の仕事にも慣れないときは、この「ほしがきくん」を見る度に、ほっとした。まだ村に来たばかりで慣れない私を、この小さな「ほしがきくん」が応援してくれているようでもあった。その後、しばらくしてから同じ子が、今度は「スケスケくん」というセロテープでできた透けている顔の小さなお化け作っていた。そしてまた突然、この「スケスケくん」も私にくれたのだった。「わあ、ありがとう」と言って私は、ベロを出して笑っている「スケスケくん」も、ペンケースの住人にした。休み時間に「ほしがきくん」と「スケスケくん」の顔を見るとたびに、疲れていても、なんだか笑えてきて、ほっとしていた。このような小さな素朴な優しさが、この村にはたくさんあり、今まで傷つき抑制してきた私の心を不意にほぐして、和ませた。

 村の小学校の畑で2年生が育てたという大豆を収穫し、味噌にするまでの授業を一緒に体験したことがあった。学校の畑で育てた大豆を収穫し、最終的に味噌にするなんて、東京ではなかなか体験できないことだ。味噌が有名な信州だけあり、地産地消の精神はこうして自然に身についていくのだろうと思った。春から大豆を育て始め、夏には枝豆となり、みんなで食べたと聞いた。移住したばかりの10月の教室のベランダには、収穫した大豆の枝が山積みに置いてあり、大豆がこうしてできることも見たこともなく、知らなかった私は、一体これから何が始まるのかも想像できなかった。それを一つ一つ教室内に持ってきた子どもたちが次々にその枝を棒で叩き始めた。棒で大豆の枝をバンバン叩き、中身の大豆が飛び出してきた。このようにして大豆を取り出す作業に私は圧倒され、なんて力強く、たくましい子どもたちなのだろうとカルチャーショックを受けていた。その日、子どもたちが2時間かけてバンバンと棒で大豆の枝を叩くことで、大豆が勢いよくどんどん飛び出していた。この様子を見ていた私は、これまでまだ目覚めていなかった私の中の自然な細胞が、大豆と同じようにバンバンと叩かれ刺激され、目覚めていくようだった。生活の大豆の授業は、しばらく続き、取り出した大豆を今度は選別し、きれいな大豆だけを使って味噌にするという。子どもたちの目によって選ばれし大量のきれいな大豆たち。それらを家庭科室で一日がかりで煮た後、大きなビニール袋に入れ、みんなで棒で叩き、つぶしていた。その日は1時間目から6時間目まで、味噌づくりの日になった。まだ小さな子どもたちにとっては結構体力を使う授業だった。みんな「疲れた疲れた」と言いながらも、最後まで自分たちで育ててきた大豆と一日中向き合っていた。その後、塩と麹を混ぜ、発酵させて半年後に味噌ができあがる。(残念ながら私の分はなかったが)できあがった味噌の味は格別なものだろうと想像していた。

 味噌づくりが終わると、今度はきな粉を作ると言う。石うすが家にあるから持ってきてくれると家庭があり、石うすで大豆からきな粉を作る授業が始まった。次から次へとカルチャーショックの連続の授業であり、私が知っている東京の授業とは異なる授業がたくさんあった。身近な自然と日本の伝統文化を体験できる環境がここにある。石うすまで使って、きな粉にするということに、大人の私の方が子どもたちよりも驚いていた。石うすがまだ家にあるということも珍しい。学校で育てた大豆をその石うすを使って、子どもたちは順番に回し、きな粉にしている姿がとても生き生きとしていた。同じ日本人であるのに自然環境が違うと、こんなにも生き生きとした自然な人間に育つことができるのかと思うと、私もこの土地で生まれ、子どもの頃からこの村で育ってみたかったなぁと思った。石うすを使ってできた挽きたてのきな粉の味は、力強い大豆の味がした。この土地の恵みをそのままいただいていることが伝わって来る。自分たちで手間をかけることほどおもしろく、そして味わい深いことを教わった。なんでもかんでも便利で簡単にできてしまう時代に、このように時間と手間をかける体験が子どもたちと少しでも共有できたことが本当に楽しかった。このような授業を体験させてくれる先生に出会うことができたことも本当に貴重であり、この村を案内し、仕事のご縁をいただいた松本さんや浅井さんにも再びお礼が言いたい。今まで自然と長年向き合ってきた人生経験があるからこそできる授業だと思った。長野県は自然と関わる規模が東京とは比べ物にならないほど違うということを思い知った。

 休みの日には、必要な物を買う以外、わざわざ電車に乗って街に出ることも少なくなった。その分、私は村内を息子とよく散歩した。それを通りすがりの車の中から見られていたようで、「この前、あの辺をお子さんと歩いていましたよね」と言われることもよくあった。村人にとっては村を歩いている人間のほうが珍しいようだ。この辺の人たちは、車の移動が主流であり、近くても歩くことはほとんどないと聞いた。私はそれでも自分の足で歩き、歩いていることを恥ずかしがることなく、とにかく歩いた。それしか交通手段がないからでもあるが、こののどかな村を、自分の足で歩き、村全体ののんびりとした自然を全身で味わいたかった。東京で過ごしていたときのように、日々何かに追われるように、舗装された道を多くの人に混ざり、急いで歩かなくていい。この安心感と自然をゆっくり味わいながら、くねくねしている道も、草がボーボーに生えている道も、「この道行けるかなぁ」と思いながら歩いていた。街灯も少なく、ビルもマンションもない村の夜は、本当に真っ暗になった。東京でも毎日散歩をしていた私は、歩かないと足が気持ち悪くなるため、暗い夜もランプを片手に一人でも歩くことにした。夜の散歩では、上を見上げると、こわいぐらいにたくさんの星が良く見えた。村を囲んでいる真っ暗な山が最初はこわかったが、だんだん夜の星と、暗闇の中を走って来た篠ノ井線の灯りが幻想的であり、東京では見ることができない景色を見ることができた。今この瞬間に、この景色を見ているのは、私だけだと思うと、特別感に変わり、むしろ喜びを感じるようになった。だんだん自然の中にいることに慣れて来た私は、夜の散歩も、この道なら「大丈夫だろう」という道を選び、真っ暗な夜も毎日歩き続けた。知らない場所の、遠くの山奥にやって来て、一体ここで何をやっているんだろう、とときどき思う日もあったが、私は自分の足で静かな自然の中を歩き続けた。「確かに今ここにいる」という感覚を日々確かめながら、これは夢ではなく、本当の現実だと確認しながら歩いていた。それほど今までの現実とかけ離れた世界にやって来て、私にとっては夢のような世界であり、それが現実だったのだ。ここ最近の忘れたかった悲しいできごとも、どんどん小さくなっていき、暗闇に消えていきそうだった。村の人からして見たら、暗く寒い夜にも歩いている私は、異常な人に思われていたかもしれない。寒い雪の中でも、自然そのものを肌で感じ、夜にはマイナスになる日も防寒をして、よっぽどの吹雪でない限り、寒さを感じながら少しでも歩いた。そうすることで、さらに自然な人間である「私」が目覚めていった。自然がいつでも私のそばにいる、そう思うことができるようになった。東京での生活で、つい半年前の過去の私にとっては、とても不自然で悲しい別れがあった。そのことをどうにかして忘れたかったのかもしれない。それを完全に忘れることはできなくても、不自然な人やできごとが、ここへ来てどんどん小さくなっていった。蓄積されてきた不自然な生き方や考え方も、毎日の散歩によって夜の暗闇に消えていった。そして次の日の朝が来るたびに、ますます私の中の自然な細胞が目覚め、社会や周りに合わせ過ぎて生きてきた不自然な私が、だんだん自然に合わせる自然な私へと入れ替わり、ようやく自然な「私」をここで見つけることができたのである。



クリエイティブな仕事 - 坂崎麻結

大学生のとき、卒業制作の課題は自分で一冊の雑誌をつくるというものだった。制作を進めている間に、先生からアルバイトを紹介された。内容を聞くと、プロのスチールカメラマンのアシスタントをする仕事で、毎年ひとり学生を派遣しているのだという。1~2週間ほどの短い期間で、その間は授業に出なくていいと言われたので、わたしは指定された大きな会社のビルの一室でスポーツブランドの物撮りを手伝った。そこにはカメラマンの男性とそれを手伝う女性がいて、確かそのふたりは夫婦だった。わたしの仕事は服を並べたり靴を片付けたりすることだった。

きっと学生にプロフェッショナルなクリエイティブの現場を学ばせるための課題のようなものだったのだと思うが、スニーカーやスポーツウェアを次々に撮影する仕事はただの膨大な作業だった。毎日同じ作業を一日中くり返す。思えばこのときから、クリエイティブな仕事なんてものは存在しなくて、キラキラして見えてもそれはすべてこうした作業の積み重ねなのだということを少しずつ知っていった。先生が学生に教えたかったのもそういうことだったのかもしれない。

この短いアシスタント期間に覚えていることといえば、撮影が終わったあとの食事の時間に、カメラマンの男性が酒を飲みながら「女は足首だけは細くなきゃだめだ。いい女は足首が細いんだ」と言いながら机の下をのぞきこむような仕草をして笑っていたこと。わたしはその言葉の意味を考えるより先に、自分の足首が細くないことを恥ずかしく思った。この人は別に悪い人ではなく、普通にいい人だった。けれど、なぜかこの言葉を15年近く経った今も忘れることができない。

それから、カメラマンの妻で確かデザイナーでもあった女性と一緒にラーメンを食べたこと。わたしが店に置いてあったペーパーナプキンを油取り紙がわりにして、一日中働いて脂っぽくなった肌をおさえていると、彼女が「わたしもやろう」といって一緒にペタペタしたこと。撮影は立ったりしゃがんだり物を運んだりほぼ肉体労働のようなもので、くたくたになったあとのラーメンは塩辛くて美味しかった。

なんだか肝心の仕事とは関係のないことばかりよく覚えている。スポーツブランドのカタログのための物撮りがすべて終わったあと、カメラマンとデザイナーの夫婦は「よく動いてくれたと思う」と声をかけてくれた。推薦してくれた先生にどうだったかと聞かれて、なんと答えたのかは覚えていない。

あれから長い時間が経って、足首と顔の脂とラーメンのことだけがわたしの記憶に残り、ふとしたときにひょっこりと顔を出す。


「当たり前の人間」でありたい - 木村洋平

この1,2年、よく思うのは「当たり前の人間でありたい」ということ。おおよそ「常識的であろうとする人間」という感じだろうか。

僕は学生の頃から哲学にかかわり、今は「エシカルSTORY」というメディアをやっているが、「変わっている」と言われることがある。そうなのかもしれない。

ただ、本人には「変わった人間でいてやろう」という気持ちはない。自分の中から自然に哲学やSDGsのようなことへの関心がわいたというだけだ。あえて言えば、今でいう「発達障害」の傾向があった(ある)とは思う。

ある時、知人とSDGsの話をしていたら、知人の口から「世直し」という言葉が出てびっくりした。僕の方は「世の中」をどうこうなど考えたことがなかった。身近なところから働きかけたいと思い、良心的で常識的な記事を書いて、仕事(案件)がほしい。

松下幸之助さんの『道をひらく』という本が昔から好きである。一番尊敬する経営者は松下幸之助さんだ。一歩一歩前へ歩く。来る日も来る日も歩く。そういう感覚が一番合っている。

SDGs(エシカル)にかかわるようになってから、いろいろな人と会って話ができた。セミナーやコミュニティにも参加させてもらった。いろいろな人がいる。僕も「変わっている」。持ち味や背景は人による。

世の中に「これが当たり前」と言えることはほとんどないのだろうけれど、良識や社会や世間に対する尊重の気持ちを忘れないで生きていく、というような意味で、僕自身は「当たり前の人間でありたい」という言葉が浮かぶ。日々、少しずつ努力している。


パンケーキの人、ワカメの人 - UNI

 朝の電車では座れる程度に、始業の時間がやや遅い。電車通勤をするようになって、通勤時間に本が読めるようになった。女性専用車両に乗るとほっとする。ある朝、読んでいる本から顔をあげると、しっとりとしたパンケーキ色に日焼けした人が座っていた。なめらかな日焼け肌が美しい。どうしても目が肌にひきよせられるので、風景もついでに見る。あと20分も乗っていれば海が見えてくるのに。

 毎朝、わたしはしっかりと化粧をする。わたしの肌は、北東アジア系のピンクがかった黄色みのある色だ。化粧品を扱う会社で働きだしてから、テスターでもらったいろいろな種類のファンデーションを試している。リキッド、パウダー、練り状のもの。お粉も3種類。毎日が実験で、結局メイクはあまりうまくない。コンシーラーなんてもってのほか。

 電車で見かけたパンケーキ色の日焼け肌があまりにも美しくて、しばらく、あの肌はどうやって作るのだろうと頭の中はあの色でいっぱいになってしまった。色ではなく質感が大切なのかもしれない。あぶら粘土に少し似ている。ただし美しいあぶら粘土。きっとあの人のお肌は水分と油分をほどよく湛えている。ほとんど塗っていないように見えた。ノーメイクであの美しさがうらやましい。

 ときどきお会いするYさんも小麦肌だ。京都の日本海側にあるYさんのご実家は昔、ワカメ漁師だった。夏、とってきたワカメを大人が浜辺に干し、子どもはその横で日中ワカメの番をする。今みたいにパラソルやテントは無い。日焼け止めなんて塗らない。それでこんがりと美しい小麦肌になったのだ。

 電車に乗る。ワカメの番のことを思う。帰宅してクレンジングで化粧を落とす。生きている色が薄くて青い顔が鏡に映る。来年の今頃は髪を束ねられる程度に伸ばしたいんですよ、そう言ったのに前回より短くなった髪を眺める。1か月に1.5センチほど伸びるから、と指を髪の前で少しずつ下ろす。明日はどんな化粧をしよう。



心の在りかとその入口は - スズキヒロミ

 最近知って聴きはじめた、満島ひかりさんのラジオ番組の中で、浜田真理子さんの歌う「のこされし者のうた」が流れてきた。そのあと、満島さんは浜田さんと会った時の話を始めた。
 浜田さんはその時、
「心なんて込めて歌わないわよ。音と歌詞を間違えないように歌うだけ」
と満島さんに言ったそうだ。満島さんは驚いたそうだが、さっきの歌声に圧倒された私もまた驚いて、浜田さんの歌を何度も聴き直した。
 満島さんと、その話を受けた大沢伸一さんとの間では、 
「その瞬間の気持ちを手放した時に、人生の全部が乗ってくる」
「出そうと思わなくても心は出過ぎてしまうし、また全く込めないということもできないのだから、そのくらいで丁度いいのかも」
というところにおちついていた。
 「心を込める」とはいうけれども、表現されたものの中に「心そのもの」が入っているかというと、そうではなかろうと思う。
 人の心自体は、直接触れることも、見ることもできない。心そのものを外に出して見せることはできないだろう。
 受け手は、受け取ったものの成り立ちに、表現者の心が関わっている、そのことを知るだけである。
 突きつめれば、私に心が在ることを知っているのは、私だけなのだ。私が他人にも心があると信じているのは、私に心があることからの推測による。
 そういえば今、当たり前のように私は「私に心がある」と思っているけれど、それは本当にあるのだろうか?
 考えながら私は、珈琲焙煎舎さんから買った豆を挽いてコーヒーを淹れる。一口飲むと、あたたかい芳香と一緒に苦味と酸味、少しの渋味が通り過ぎ、一番最後にどこかでかいだことのある香味が一瞬よぎって消えた。記憶を探るとそれは、熟するほんの少し前の、ややかたいバナナの皮をむいたときのような香りであった。
 こうして書き出した味といい、香りといい、いずれも感覚器からの化学的電気的信号を、脳で復号しているだけのこと、といえばそうである。
 でもこれらを総じて「美味しい」と感じる、その近くをよく探せば、心への入口が見つかるのではないか、という気がしてくる。その奥に果たして、私の心はあるのかどうか。


映画の夢 - 下窪俊哉

 地下からの階段をのぼって外へ出ると、霧のような雨が降っていて、いま観たばかりの白黒映画の街に入ってゆくようだった。雨がそこら中の色を消していた。黒い車体の車が白い水を弾きながら走って行く先に、黄色い道路標識が見えた。そういうところだけ部分的に色をつけた映画だった。細やかなシャワーを浴びて歩くぼくの目にはそう映った。五分も歩くとメガネは水滴に覆われて、髪には小さな雫が無数について揺れているのが感じられた。
 いつものカフェの前まで来て、メガネを拭うと映画はカラーに変わる。いや、もう映画は観おわったんだった。自分は行ったことがない外国の街が舞台で、若い男と彼より年上の女、年下の女の三人が奇妙な三角関係になってゆく。しかしぼくにはそんな物語よりも、彼らを眺めていることが面白い。最後、妊娠することで男を奪ってしまう若い方の女が、ふたりを前に涙を流しながら長々と喋る場面があった。ふたりを前に、という設定ではあるが、カメラは彼女の顔を真正面から見つめ続けた。ということは映画を観ていたぼくも彼女の泣き顔を凝視していたことになる。
 現実ではなかなか、そういうわけにゆかない。目の前にいる人の顔をただひたすらに見つめ続けるなんてことはないだろう。目を逸らして彼女の背景を眺めることもあるかもしれないし、そこには花が飾ってあるかもしれない、窓があって外の様子が見えているかもしれないし、あるいは目を閉じて彼女の声だけを聴こうとするかもしれない。でもカメラはまばたきをしなかった。
 年上の方の女にぼくは、艶かしいものを感じる。何か大きなものを失い、悲しみをまとって映画を成立させる女性の姿が、人生を感じさせてくれるというか。彼女は内心、バカな男と別れることができてせいせいしているかもしれないし、恋人を失ったショックもないわけではないだろうが、それまで彼と過ごしてきた時間の重みをひとり背負っているのだった。そんなことはことばにはできないので、その場面にセリフはひとつもないのだった。現実には、ぼくはまだ、あんな大人の女性を身近に感じたことがない。だから想像して観る。
 カフェに入ると奥の方に何人か、仲間たちの顔を見つけた。バンド仲間というと妙な感じがする。学生あがりのグループで、みんな友達だ。音楽学校を出たなかでは腕利きの連中なので、みんなこれから音楽の仕事をするだろうし、すでに始めてもいるが、仕事はあったりなかったりするので、ようするにまだ駆け出しだ。これから自分たちがどんなふうになるのか、誰にもわからない。将来のことは考えられない。お金はあまりないけれど、ここに来て安い珈琲やビールを飲めるくらいには稼いでいて、あとは家に帰って聴く宝物のようなレコードがあれば幸せだった。
 賑わっている店内を泳ぐように移動して、近づいていくとアールトがぼくに気づいて、スラッとした手を上げた。彼の隣の席が空いている。顔なじみの店員にビールを頼んで、座って少し話す。
 ──どうだった。
 ──すごく良かった。ちょっと長かったけどね。
 ──歌には使えそう······。
 ──まだそこまでは考えてない。
 ぼくたちは音楽をつくるのは得意だが、そこに歌詞をのせるのは苦手だった。歌をつくるのに映画からヒントをもらおうと思っているのだった。それに、ぼくは音楽と同じくらい映画に憧れていた。


表紙絵・カミジョーマルコ「秋」


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● ここに来て急に秋が落ちて来たように涼しいですが、いかがお過ごしでしょうか。今月もWSマガジンをお届けします。● 表紙は、たまに文章を寄せてくれているカミジョーマルコさん。マルコさんは相方のジョーさんと共に「道草図案舎トマルコ」として、絵を描き工作をして展示をしたり、舞台美術を担当したり工作ワークショップをひらいたりする活動をされています。数日前にたまたま連絡をいただいたので、頼んでみました。タイトルをどうしようか相談したら、「適当に今つけました」とのこと。● ところで、8月号・9月号の表紙絵を描いた「垂田浪華」さんの謎には、お気づきでしょうか?(誰からも何も言われないので編集人が嘆いておりました、検索しても何もわからないはずです、音読しないと······)● そして今月、初登場なのは優木ごまヲさん。zineと古本の店「カクエキテイシヤ」として、さまざまな場所に"各駅停車"しながら手づくりの本や古本を売られています(と思っているのですが、もし違ったらスミマセン、教えてください)。WSマガジンへようこそ!● さて、この場所は、とりあえず書いたようなもの、ことばの切れ端でも、メモでも何でも、ここに置いておこう。──そんなコンセプトを抱いて続けている、ウェブマガジンの姿をしたワークショップです。● 参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!


道草の家のWSマガジン vol.23(2024年10月号)
2024年10月10日発行

表紙画 - カミジョーマルコ

ことば - RT/UNI/木村洋平/坂崎麻結/清水よう子/下窪俊哉/スズキヒロミ/なつめ/晴海三太郎/優木ごまヲ

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカン・ナイト
読書 - 何でもよむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎掛 - 立って木を見ている人は、だれ?
音楽 - 口笛吹奏団
出前 - 落葉弁当
配達 - 秋風運送
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎


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