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道草の家のWSマガジン - 2023年11月号


沖縄の花 - maripeace

花を一輪買った。時々相談するお坊さんに、自然が足りてないから部屋に切り花を飾るといいよと言われて、花屋さんに選びに行った。デンファレという種類の蘭の花。淡いピンクと白のグラデーションがいいなと思ったのと、香りがないのがよかった。蘭に親しみを感じるのは、沖縄でよく見かけたからかもしれない。住んでいたアパートの前にお花屋さんがあって、一度だけお店の人と話をした。内地では贈答用のすごく値が張る蘭の鉢も、産地だからか手頃な値段のようだった。職場に飾りたいなぁと思ったものだ。結局飾らないうちにクビになってしまったけど。蘭の花が、そのへんの大きな木の、幹の途中から生えているのもよく見た。調べてみたら、蘭は寄生植物ではなく、着生植物と呼ばれる種類らしい。栄養を木から奪っているのではなく、ただ巻き付いているだけなのね。

見ると沖縄を思い出すのは、ランタナという花。ピンクとかオレンジとか、カラフルな小さな花が球体になってたくさん付く低い木だ。東京の庭先でもよく見かけるから、それほど珍しい花でもないらしい。この花を見ると、島の南部のアスファルトの上を、一人でとぼとぼ歩いていたのを思い出す。たぶんバスの本数が少なくて、歩くしかなかったんだろう。


道草思惟 - カミジョーマルコ

夫婦で道草図案舎トマルコという名前のユニットを作って、絵を描いたり、お芝居をしたり、ワークショップをしたりしている。

ユニット名は相方のジョーが考えた。
「道草をしながらよく立ち止まる子」という意味だが、もともとはジョーの本名トモヤスの「トモ」と私の名前の「マルコ」をくっつけた「トモマルコ」から来ていて、トモマルコでは語呂が悪いから〜と、トマルコになった。
自分で「ネーミングとこじつけの天才」というだけあって、道草図案舎トマルコという名前は、私たち2人をよく表現できていると思う。

思えば子供の頃から道草してばかりだ。

学校の帰り道はもちろん、行くときだって本当はいつもと同じ道を通りたくない。
朝の時間が決まっているから仕方なくいつもの通学路を行くけれど、ちょっとだけ早く家を出た時はここぞとばかりに普段通らない小さな路地を通ったり、わざわざ田んぼのあぜ道を突っ切ったりして結局遅刻ギリギリになることも多々あった。

生き方も同じようで、もともと手が遅い上に回り道が大好きなもんだから、美術の学校でも課題の提出は毎回最後の方で、周囲からは呆れられていた。

デザイン科の井口先生からいわれた言葉でずっと頭に残っていることがある。
井口先生は当時50歳くらいだろうか。
仕立てのいい服を着ていて、細身でダンディーだった。
顔にはいつも笑みを浮かべていておだやかな口調だけど、かなりの皮肉屋でもあった。

ある日井口先生がニヤリと笑って言った。
「いいんだよ、お前はそのままで。」
「お前はたしかに人の2倍かかる。2倍かかるけど、大丈夫!! 人の2倍生きればいいんだからさ!!」

ポケットに手を突っ込んで高らかに笑いながら去っていった先生の後ろ姿を見ながら、私はなぜかちょっとほっとしていた。
あれは明らかに皮肉なんだろうけど、私には応援の言葉のように聞こえた。

「そっかぁ。2倍生きればいいんだぁ。」

いつも課題提出が遅れて居心地が悪かったり、小さい頃から両親にずっと「何をやっても遅いだめな子」と言われていた私を肯定してくれるような言葉だった。

卒業してから今まで何度となく先生の言葉に勝手に救われてきた。
人の2倍生きるような建設的な努力は何もしてないけれど、すぐに結果が出せない自分に、まぁいいや、2倍生きるから。と思いながら過ごしてきて、最近はなんだか自分のやりたいことの形が少しだけみえてきた。
自分らしい人間関係も少しずつ築けてきている。

両親にはもう20年近く会っていないけど、
「ちゃんと自分の力でゼロから関係を作ってやっていってるよ」と、たまに心のなかで報告している。


離婚日記を書くために - UNI

 下窪さんがWSマガジンという試みをはじめた月から、初回からなんとかかんとか書いたものを送りつけていた。それもこの秋に、送りつけられなくなっていた。離婚に伴う環境の変化があまりにも大きく、というより、面倒な手続きなどが多く、ほとほと疲れてしまっていたからだった。
 離婚というお題に目を向ければ、わたしの結婚生活は長いあいだ、薄氷を踏みながら続けられていた。だから、という接続詞があっているのかわからない。が、だから、今は、いっそのこと氷を割ってしまった今は、終えることができた安心感すら芽生えてきている。

──離婚日記を書きましょう。

 この春に引越し日記を出したばかりなので、周りの方々にそう言われる。
 毎日日記を綴っているので、きっとまとめることはできるだろう。そこでふと、思う。日記ってなんだろう、と。離婚届を出せたのはこの夏だけれど、そこに至るまでの年月は長く、さらにいえばわたしと彼という人格を形成してきた何十年というものも影響している。どのように育ってきた人間が、どのような日々を過ごして、終わりを迎えたのか。日記という断片的な日々からなにが伝わるだろうか。そもそも、何月何日から始めようか。

 2023年11月9日
 人とあまり喋っていないことに、腹が立ってきた。離婚したせいだ。でもこの離婚の原因は半分半分。だから自分のせいでもある。とはいえ、自分を責めすぎないように。何もかも、半分にしよう。MO(Moto-Otto)もわたしのことをとても心配している。
 ただMOは今年、夢を叶えた。
 わたしは、どうだ。これまで自分を捨て続けた。それはMOのせいでもなくわたしのせいでもなく、法律婚のせいだと思っているけれど。それでもわたしは自分にインストールしてしまった矢印に沿って歩き、いろいろなものを手放してしまった。そんなこと、するべきじゃなかった。どうして自分で気づけなかったんだろう。
 今はひとりで暮らしている。ほとんど、結婚期間中と変わらない。結婚しているときもひとりで過ごしていた。以前も今も、独り言をいって、ひとりで歌っている。頭の中ではずっとずっと、もう一人の自分が喋り続けている。
 オンラインですべてを決めたこの家は、実家から歩いて15分だ。小・中・高・大学の友人まで近くに住んでいる。連絡すればすぐに誰かとおしゃべりのできる環境だ。でも時間を決めて誰かと会って喋る、そういうことと日々のおしゃべりは違うんだ、きっと。
 今はこれでいいと思っている。こういう日々を経てわかることがある。きっと。こういう日々が終わればいいとも思っていない。
 隣人はわたしより若い女性で、ときどき彼女に会いに来る恋人がいる。そんな夜は彼女の笑い声がよく聞こえる。ひとりの時は隣人はすごく静かに暮らしていて、ときどき咳込んでいる。だから笑い声が聞こえてくる夜は、わたしもうれしい。けっして壁に耳をあてているわけではなく、レトロアパートなので笑い声くらいなら聞こえてくるのだ。
 ひょっとしてわたしの歌もつつぬけなのかもしれない。


挿絵・矢口文「しその穂」(紙(アルシュ)、木炭)2023


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑫

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「続・眉毛のはなし」
 先月は、眉毛を描き忘れてブサイク増しましで勤務していた話を書いた。そこにきて、また眉毛である。この「眉毛がないとブサイクが増しましになる」のはなにも私に限ったことではない。たぶん、多くの女性がそうだ。眉毛というのは顔の印象を左右する最重要ポイントとして雑誌や動画で話題になるし、時代によってトレンドもある。だからこそ、とても面倒だし扱いがむつかしい。メイクをする女性なら共感してもらえると思うが、ほんの数ミリの眉メイクのズレが全体の仕上がりにかかわってくる。ああ、眉毛が決まらない······。眉メイクをもっと楽にしたい。世の中のニーズを反映してだろう、この難しい眉メイクを解消するグッズがいろいろあるのだ。くりぬかれた型を眉にあてて、その中を塗りつぶすもの、眉型になったスタンプを眉に押しあてるもの、そして、最近はやりなのが眉ティントと言って地肌に一度塗れば数日間は色が落ちず色味が持続するもの。私もいろいろ試してみた結果、この眉ティントを時折使う。しかし、この眉ティント、使い方がひと癖あるのだ。まず、入れ物の形状は細長い筒形。蓋と刷毛が一体化しており、中はねっとりとした液体が入っている。このねっとりした液体を眉に塗る。これがもうあの「ごはんですよ」にそっくり。岩のりそのもの。私が選ぶ色は地眉に合わせて黒めなので、岩のりでしかない。これを眉毛にたっぷり乗せる。眉が岩のり状態。イモトアヤコみたいだ。眉ティントは数時間おけばほんのりと色がつくとされているので日中に使ってもいいのだが、この岩のり眉状態で日中過ごすなんて、たとえ自宅の中であっても危険すぎる。宅配便が来たらどうするのだ。こんな面白い顔、むしろ家族にすら見られたくない。だから私は寝る前に自室で塗ってそのまま眠る。そして、この眉ティントが乾いてフィルム状になるのでこれを翌朝ペリペリと眉からはがすのだ。するといい感じに地眉に色がついてそのあとの眉メイクが決まりやすくなる。
 この日もそうだった。こっそりと眉ティントを眉に塗って、髪にはシルクのナイトキャップをかぶり、腹巻をし、レッグウォーマーをつけ、かかとにクリームを塗りこみ、歯ぎしり防止のマウスピースを装着して眠った(やることが多い)。そして翌朝、家族に岩のり眉が見られないうちにさっと洗面台に行きフィルム状になった眉ティントをはがす······はずだった。洗面台の鏡で自分の顔を見てみると、すでに眉ティントははがれた状態。あれ? 塗ったはずの眉ティントはどこに行ったんだろうか? 寝ぼけた頭で考える。私は寝ているあいだに無意識に眉ティントをはがしたり、マウスピースを外すことがある。ああ、そうか寝ながら眉ティントをはがしてしまったんだろう。でもさっき枕元にも落ちていなかったし······どこに行ったのかな? とりあえずマウスピースを外そうと再度鏡を見て口をあけたところ、そこにヤツはいた。マウスピースと歯のあいだに黒々と横たわっていた。唾液でややしっとりとして、再度岩のり化したヤツがいた。びっくりしてマウスピースを外したら、しっかり染まっていた。私の歯が。もう私はこのエッセイのタイトルをここで叫びたい。「そんなことありますか?」走馬灯のようによみがえる記憶。たしかに、寝ているあいだにマウスピースは外してしまった気がする。そのことを朝方ぼんやりと思い出し、マウスピースをもう一度しなくちゃ······と寝ぼけながら再度装着した。そこにすでにはがした眉ティントが乗っているとも知らずに。そして私は眉ティントのせマウスピースをまんまと再装着したのだ。こんな偶然ありますか? 起きたらお歯黒状態だったんですよ! そこじゃない、染めるのそこじゃない! そしてみなさん、前半の眉ティントの特性を思い出してください。「一度塗れば数日間は色が落ちず色味が持続する」。絶望しながらも私はこう思ってしまったんです。では今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。


なつめさんのおにぎり - RT

WSマガジンの会でなつめさんが絵本を作ったことを聞いて、ぜひ見たいです! 上京した折に! と言って、その時は年明けてから考えようと思ってたのに、通話が終わってから、今年中に行ける時無いかな。と考え始めたら決まるのは早かった。
京都での折坂悠太さんのライブのチケットをとっていて、その時泊まりがけで行くから旅行ばっかり行くの無理かなと思っていたのに、ここの週末なら行ける。という日を見つけて、そうだ、東京で会いたい人にいっぱい会いたい。と思ってオフ会を計画したり、カフェや本屋さんに行く予定を立てた。
それはまたいつか書くとして、なつめさんの話だ。

なつめさんと隣町珈琲の前で待ち合わせをしていた。
中延の街を少し歩いて、約束の時間の10分前くらいにお店の前に着いた。なんとなくまだ来ていないのではないかと言う気がしていた。ほんとうに会えるのかなという気もしていた。なぜだかそう思っていた。
3分前くらいになって、スマホを覗いていたら、なつめさんが風のように現れた。どこから歩いてきたのか見ていなかった。白いシャツワンピースに白いニットのベストがとても似合っていた。

隣町珈琲でお仕事中のyasukoさんにお土産を渡して、yasukoさんは忙しそうで、でもお会いした瞬間に、大丈夫だ。話さなくても好きな人って見ただけでわかるものだ、と思った。
なつめさんにもお土産を渡して、目的の絵本をまず見せてもらうことにした。
文章は以前に読ませてもらったことのあるものだった。そこに添えている絵が文章をさらに視覚的にわかりやすくしてくれているというか、文章を読んだ時にイメージできていなかった部分も、そういうことか。と思った。人に描いてもらおうと思ったけど自分で描いてみたとおっしゃってた、この絵以外にどんな絵が合うのだろう。この絵しかないじゃないか。と思った。
いろんな話をした。タイミングを大切にしていること。自分からがつがつ行くのではなく見つけてもらえるような感じを目指していること。わたしがやりたいカフェの話をしたら、いいですね。わたしもお店をやってみたくて。とおっしゃった。

長野県の麻積村に移住して、今は東京に戻っておられるけどなんとなくまたいつかタイミングが来たら行かれるのではないかと思える文章をWSマガジンで読ませてもらっていて、そこで人の心を軽くするような活動をしたいということは知っていた。でもわたしのカフェのこととは結びついていなくて、話すうちに、出したいメニューを何気なくおにぎりと豚汁と言ったんだけど、そういえば「森のイスキア」の佐藤初女さんのおむすびの話に心を打たれたことがあったのを思い出してなつめさんに話したら「わたしもです」とおっしゃった。アフリカキカクの下窪さんに出会ったきっかけが、鎌倉にあるゲストハウスでおにぎりのイベントをやろうとして下見に行ったらそこで「アフリカ」を渡されたことだと聞いて、おにぎりのイベントというのがあまり聞いたことが無いし、そんなにおにぎりが好きなんだ。と思って、驚いた。
なつめさんは基本的ににっこりしてふんわりしているのだけど時々身振り手振りを交えて語られる様子に、内面に熱いものを持っている方なのだろうなと思った。
水道橋の機械書房さんに連れていってもらうことになっていたのだけど行ってみたらお休みだった。2人とも定休日のことを調べていなかった。東京駅に近付きながらお散歩しましょうと言ってくださって、あてもなく、それはわたしだけで、たぶんなつめさんは迷わないように、駅に近付くように気を配っていてくださったのだと思う。わたしはなつめさんの連れていってくださるままに歩いた。神保町に行ってみますか? と聞いてくださって、幼なじみの友達から神保町も行ってみたらいいよと聞いたばかりだったこともあって、ぜひ行きたいです! と言った。

神保町の古本屋さんに映画と戯曲の専門のお店があって、ここ面白いですよ、と教えてもらった。入ったら欲しい本がいっぱいあって、これから新幹線に乗るところなのに分厚い本を買ってしまった。大切なことが書いてあるような気がした。
児童書の専門店があって、そこにも入った。なつめさんがレジに並んでおられて、息子さんにお土産を買ったとおっしゃった。本がとても好きだそうで、現実の学校はいろいろなことが気になってしまうということだった。わたしはぼーっとして学校の記憶があまりない。でも学校好きな子っているんだろうかと思う。
学校にうまく馴染めなかったら、世の中にうまく馴染めなかったら困った人と言われるのだろう。それは仕方ないように思うけど、少しだけ言わせてもらいたい。マイワールドを持っているのはなんにも、なんにも悪くない。そこから出てこないのはよくないかもしれないけど、子供が想像の世界を持つことのなにがいけないのかわたしにはよくわからない。
なつめさんは、自分がおかしいのかもしれないと言ったけどわたしから見たらなつめさんは才能に溢れた人だった。共感や羨ましいと思いはしてもおかしいなんて全然思わなかった。

駅の近くの道端で土下座している人がいた。土下座している人を見たのは2回目だ。ショックで、なにもできないけどわずかなお金を置いた。
「お金って不公平ですよね。」と言ったらなつめさんが少し悲しい顔をして、ぽつりぽつりと語ってくれた。それがとても重要なことだったように今思うのに、その時わたしは改札に入ってしまった。見送ってくれるなつめさんが会った時よりも一回り小さく、なんだか寂しそうに見えて、新幹線に遅れるほどの時間でもないのに急いで電車に乗らなくても良かったのにと思った。わたしも寂しい気持ちだった。

東京から帰ってきた翌日は仕事があって、そうだおやつになつめさんが焼いてくれたクッキーを持っていこうと思って鞄に入れた。マロンティーというのもいただいたので一緒に飲もうと思って、クッキーをまず2枚食べて、マロンティーを包装してくれている袋を開けようとして、はっとなった。

貼っているマスキングテープがおにぎりの絵だったのだ。なつめさんは本気なのだ。と思って、仕事中だというのにぶわっと涙が出てきた。なつめさんがお店を始めたら絶対に訪れよう。わたしの心が弱った時おにぎりをよばれに行こう。わたしも自分のお店でおにぎりを出そう。くたびれた人が少しでも笑顔になって帰っていけるような、そんなおにぎりを作ろう。人に優しくしたい。優しい人になりたい。わたしも誰かの心を軽くできるような、そんな活動をしたい。


麻績日記「たゆたう」 - なつめ

 静かな湖のそばにはテーブルとベンチがあった。ここでウクレレの譜面を広げ、弾き語りをしてみたら心地よいだろうなと思い、早速息子と一緒にベンチに座り、弾き語りを始めた。この静かな自然の中で、ウクレレを弾くことが自分にとってはとても心地よい時間だった。あっとゆうまに夕方になっていた。ここに来たときから、人を見かけることは少なかったが、いよいよもう誰も歩いてはいなかった。私のウクレレ弾き語りが聴こえているのはそばにいる息子だけだった。そろそろ空も暗くなりかけ、静かさも増し、不安になりかけていたとき、突然一台の車が坂道を上ってやって来た。車の窓が開き、
「なつめさーん。今、ウクレレ、聴きに行きますので!!」
と、村役場の松本さんが再び現れた。だれもいない駐車場に車を置き、こちらに走ってやって来た。松本さんが迎えに来てくれたので、すぐ車に乗って移住お試し住宅に戻るのだろうと思い、私は急いでウクレレをしまおうとしていたのだが、松本さんはテーブルをはさんだベンチに腰を掛け、
「ぜひ、聴かせてください!」
と、言う。内心「ひえー!」と思いながら、松本さんが「ぜひ!」と、こちらを見ながらウクレレ弾き語りを聴きたいといった様子でベンチに座っている。急遽ウクレレの弾き語りをすることになってしまった。私は、やむを得ず一曲歌ってみることにした。
「あまり上手ではないのですが、では、う、歌ってみます······」
と、緊張しながら歌い始めた。途中で音程もズレていた。息子はとなりで一緒に歌うわけでもなく、ニコニコして私を見ていた。

嗚呼 唄うことは難しいことじゃない
ただ声に身をまかせ
頭の中をからっぽにするだけ

(斉藤和義「歌うたいのバラッド」)

と、やっとの思いで一番だけを歌い終え、 
「こんな感じです。なんだかすみません! まだあんまり上手でもなくて······」
「いえいえ、いいですね~! 生音で歌を聴くのは久しぶりで! ウクレレの弾き語りができるっていいですね!」
と、途中で音程もズレていたのに笑顔で拍手をしてくれた。私のウクレレ弾き語りになんだか喜んでいる様子だった。その様子を見て私もうれしかった。そしてまた、なぜ今、私は村役場の方の前で歌っているのだろうと、ふと我に返った。歌い終わった後、緊張から解放されたのと同時に、歌ったことによって、何かさっきとは違う空気になった気がしていた。私がウクレレをケースにしまっていると、松本さんは、昔よく聴いていたという歌の思い出を語り始めた。
「私もなつめさんと同じ世代で、中でも昔から山﨑まさよしさんが好きでライブに行ったり、音楽はよく聴いていました。実際、山崎まさよしさんにお会いしたこともあるんです!」
と、山崎まさよしさんとの思い出話をし始めた。私は少し驚きながら、その話を聴いていた。歌を歌ったことによって、村のことだけではなく、松本さんが昔聴いていた歌の話や思い出話を自然と聴く流れになった。私と息子は、村役場の松本さんのその思い出話を聞きながら、再び車に乗り、村内を周った後、また移住お試し住宅に戻った。
 
 以前、私にウクレレ弾き語りを教えてくれたウクレレミュージシャンの方が、ウクレレワークショップで話していたことを思い出した。
「僕は目の前の人のために音楽があったら一番いいなと思っていて、それを実践したいなと思って、色々なフェスで歌っていても、2万人いようと、今日みたいに30人いようと、同じテンションで歌えたらよいなと思っていまして、それを各自の場所で、生活の場所でやってもらえたらいいなと思っています!」
今日この場所で、家族や友人でもない目の前の松本さんに歌を歌ったことは、私にとって初めてのことだった。歌手でもない私が、目の前のだれかのために歌うということが、こんなにも喜んでもらえるということは、新しい発見だった。ウクレレミュージシャンの方が話していたことの意味が、その日、なんとなくわかったような気がした。まだよく知らない人同士でも、歌った歌が目の前の人と自分とを繋ぐコミュニケーションツールとなり、その歌が相手の心にそっと届き、自分の心と相手の心を歌が繋いでくれたようだった。プロの歌手ではなくても、実際に目の前の人のために弾き語りで歌を歌ってみることは、何か価値があることのように感じ始めた。それは、『古今和歌集(仮名序)』にあったように、今も昔も歌が人々の心を感動させ、親しくさせたり、和らげ、なぐさめるといっただけでなく、まだよく知らない人同士の心を「繋ぐ」効果もあるということを実感したのである。目には見えない歌が、人の心と心を一本の糸で繋いでくれたようだった。



Where the streets have no name - 田島凪

 歩く速さを愛している。スニーカーを履いて、ジーンズを履いて、冬なら冠のようなフードを被り、夏なら監督のような帽子を被って。ポットを抱えていくときもあれば、あえて手ぶらの時もある。途中でコンビニに寄り、熱々のコーヒーや痺れるような炭酸水を買って飲むのを楽しみにして。天気への拘りはない。雨なら大きな傘を差し、晴れなら濃い影を探せばいい。寒ければ長いマフラーをくるっと巻き、暑ければ端から出かけなければいい。
 歩くコースは決まっていない。急峻な坂をゆっくりと下って、ヒメジョオンがメトロノームのように揺れる河川敷を流すときも、森閑とした雑木林に分け入り、年輪の美しいシイノキの切り株を目指すときも、釣瓶落としの早さで落ちる陽を眺めながら、旅人のように山の麓を彷徨うときもある。決まっているのはその速度だ。広い空を見上げながら足を動かし、小さな花を愛でながら漫ろ歩く私は、忙しない世を生きる人たちの神経をそっと逆撫でするのが関の山なので、大概は一人で歩く。風は優しく髪をなびかせ、風は鋭く肌を切り裂くようだ。空の変幻にしたがい、景色は刻々と予想を裏切る。未知に満ち満ちた道を、桜の花びらを腕に抱き、百日紅の花びらを肩に乗せながら私は歩く。逃さぬように、落とさぬように、猫の歩みを真似てゆっくりと。

 人とすれ違うこと、人の河の一滴になることを望んでいるときは、光の下を歩く。とりわけ親しい人が遠く感じられるあまり、赤の他人の弾けるような笑いがこの耳に必要なときは。自分の影だけでは寂しく、無数の数の影を踏んだり踏まれたりすることでしかこの寂しさを誤魔化せないときも。だが、逢魔が時や深い夜の訪れを待ち、孤独になるために始める散歩の方が多い。血の繋がりや関係の深さゆえ縛り縛られるその紐を絶ち切ることができないのなら、せめて小一時間だけでもそれを解くための逃走。影をひいて一人歩く私が、私であることに気づく人が見渡す限り誰もいないということの解放。

 走る速さは愛していない。スピードに肝を冷やすことはあっても、速度に胸を熱くしたことは一度もない。だが、空も花も川も、湖も山も木も風も、光も、甘美な記憶も大切な人までもが私にとって白く濁った無意味になると、ただこの身を引きちぎるほどに猛々しいスピードが必要になる。すべてを置いて、私さえ置き去りにしてここではない何処かに今すぐ行きたいという、抗いがたい衝動に駆られるときは。
 そうして私は、爆撃は自衛権という言葉で守護され、戦争犯罪という誹りは戦争犯罪という言葉で応酬され、某国の国防長官がテロリスト集団は組織ではなくイデオロギーだと言い切るその言葉の裏側に、イデオロギーを生むメカニズムこそ根絶やしにしなくてはならないという真実が見え隠れしているのにそこからそっと目を逸らせ、罪なき人々の不合理な死はテロリスト殲滅に伴うささやかな犠牲として数字化されて終わり、ガス室で殺された人々の子孫が出国すらできない「地区」に閉じ込めた人たちを問答無用で殺戮する、その事実をはっきりと知り、その現実を瞬きもせず見つめながら、殆どなすすべのないこのいたたまれない日々を振り切るようにして今宵も車を走らせる。私の安寧を轢き殺すために。
 高速を高速で抜け、アクセルとブレーキを踏み鳴らし、光線と陰影でまだらな腕でハンドルを回し続けるうちに、いつしか人気のない観光地や、灯の乏しい道をひた走っている。昏い角。厚い叢。深い闇。名も無い道。助手席に座る気配が私を視る。不在が私の腕をつかむ。緘黙が厳かに言う。そのスピードで、帰れないくらい遠くに行ってはいけない。そして言う。歩いて。


たったひとりの読者のために - 下窪俊哉

 文章を書く場合、必ずあて先があります。私が書く場合、不特定多数あてとでも言うべきですが、われながら本当にそうか、と思ってしまい、不安です。そこへ行くと、世の多くの文章は、家族のだれそれに、とか友達にというわけで、書いていてもしっかりした土の上を歩いている気がします。ところが小説を書く場合は、ブカブカする浮島の上を歩いているかのようで、とりとめないのです。

(小川国夫「未完の少年像」より)

 こうやって何か書こうとするとき、読者は、どこにいるんだろう。

「不特定多数あて」だとしたら「多数」だから、たくさんの人にあてて書かれていることになるが、「たくさんの人」とは誰で、どこにいるのだろうか。そもそも、文章を「たくさんの人」にあてて書くなんてことが、可能だろうか。

 まず、私たちは誰か特定の人にあてて、文章を書く。手紙や、いまは紙に書かないメールもたくさん書かれている。その人にわかるように、伝わるようにと思って書く。そこでは伝達を主眼としている。

 次に、私たちは自分のために書くことがある。もしかしたら未来の自分にあてて、ときには過去の自分へ手紙を書くようにして。あるいは、自分のなかに目をこらし、耳をすませて書く。そのとき、書くことは「探求の手段」となる。

 もう会うことのできない人、たとえば死者と話すために、書くこともある。文章のなかでは、その人と会えるのだから。

 実際には会うことのできない人、架空の人、大昔の人や、人間ではない存在との対話も、書くなかには存在する。

 小川国夫の短篇「未完の少年像」に登場する老作家は、そんなことを話す。小説として書いてはいるが、ここでは、晩年の小川自身がフィクションである老作家の口をかりて話していると考えてよい。
 この話から考えられることは、私たちは「たくさんの人」どころか、いつも「ひとりの人」にあてて書いているのではないか、ということだ。
 たとえ「不特定」だとしても「単数」(ひとり)にあてて書いている、ということになろうか。
 老作家は、つづけてこう話す。

 それから、遂には、自分さえも相手にすることなく、読者のいない小説を書くことです。言葉が伝達を目的とするなら、こんな小説は矛盾そのものですが、私はあり得ると思っています。

 それでもやはりその人は、ひとりの〈無〉にあてて書くのではないか。〈無〉にあてて書くためには、〈有〉を感じていなければならない。作者も、いつか死ぬ。彼なら死んだあとにも、骨だけになった手が動いて何か書いているような気がしないか。いやいや、もう疲れたよ、と言って笑う小川先生の顔が見えるようだ。
 こうやって私は書いて、死者との対話を続けている。

(私の創作論⑨)


流れ星の夜 - スズキヒロミ

 こないだの夜、妻に「双子座流星群ってどっち見れば見れるの」と聞かれた。
 うちの人は面白くて、この家に住んでもうそろそろ屋根を直そうかどうしようか、というくらい経っているのに、いまだ東西南北が分からないらしい。彼女は常々、私の金銭感覚を不思議がっているが、まあそんなことで、お互い様である。
「そこを出て、ちょい左向くといいよ」
と教えたら、重ね着して外に出ていった。
 私は、というと、それこそ四半世紀前に見た「しし座流星群」の記憶があまりにも凄すぎて、寒い中わざわざ見にいく気がしない。
 あの時は、一つ飛んでくるたびに「バチバチッ」と音がして、夜中だというのに近所の窓から歓声が上がった。あんな花火みたいな流星があるか、と記憶を疑いそうになるが、これは間違いない。
 その後、一度だけ別の場所で流れ星を見たことがあるが、それは、窓ガラスの水滴がツルッと落ちるような風情で、あの夜の流星群とは似ても似つかないものだった。
 やがてうちの人が帰ってきて、「いっぱい見れた」と目を輝かせていた。


表紙画・矢口文「光と陰だけ」(キャンバス、アクリル絵具、白いコンテ)2023


ひとこと - 矢口文

道草珈琲IN壁の花の会に参加しました。今月の表紙はカラーの水彩の絵になります、と宣言してきてしまったのですが、やっぱり今までモノクロの素描の表紙を5ヶ月積み上げてきたので、そこから大幅に変わることはしないほうがいいかなと思い、今月もモノクロの表紙になりました。キャンバスにアクリル絵具で描いています。


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 11月になり、それでも夏のような日がありましたが、この数日、ようやく秋らしくなってきました。今月もWSマガジンをお届けします。● UNIさんから原稿が届くのは2ヶ月ぶりでしたが、本人はどうやら、もっとご無沙汰している気分でいるようです。人生の荒波にもまれ、いま、たどり着いた場所で再び書くということを思います。● RTさんの文章からは、このウェブマガジンをきっかけにしたゆるやかなコミュニティが、すでに生まれていることがわかります。編集人は、たまに自分もそこに参加しつつ、その様子を面白がって眺めているようですよ······。● このWSマガジンの参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、さらに話すこと、というのもあり「WSマガジンの会」というのを毎月、画面越しにやっています。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● ではまた来月。よい秋をお過ごしください。


道草の家のWSマガジン vol.12(2023年11月号)
2023年11月10日発行

表紙画と挿絵 - 矢口文

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/下窪俊哉/スズキヒロミ/田島凪/なつめ/晴海三太郎/maripeace/矢口文

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカの夜/WSマガジンの会
読書 - 勝手によむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
名言 - 少々やりすぎるくらいが丁度いい。
謎々 - ストローが入っている料理は、なーに?
音楽 - 秋の風と雨
出前 - 缶詰ラーメン研究所
配達 - 北風運送
休憩 - マルとタスとロナの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房

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