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道草の家のWSマガジン - 2023年2月号

今日の空の色は - RT

1月27日 寒い波 射金色
思えば朝から不思議な日だった。仕事場のパソコンのお絵描きソフトを突然使えるようになったのだ。今まで何回やってもできなかったのに。

仕事場の部屋に結構広いプレイルームがあって、コロナが流行りだしてからおもちゃや絵本などを撤去してがらんとしていたのだけどこのごろ少しずつ子供が遊べるように戻ってきていて、元気のいい声が耳に響きすぎる日もあるくらいなのだ。そこに飾り気がないのでRTさん何か作ってみたらと言ってもらった。

そう言ってもらえるのはありがたいことだ。さあどうしよう。そう思って、まずそこに立ってちょっと膝を曲げて子供の目線ってどんなんやろと考えた。なにか貼れそうなところは明らかに見上げる高さなので、動物もいいなと考えたのだけど鳥がいい、空がいい、と思った。
思い始めたらもう見るもの見るもの鳥のモチーフばかりで、家に鳥の絵が飾ってあることを思い出すし、TLにも鳥が飛んでいる。そういえばTwitterのロゴマークは青い鳥ではないか。心は決まった。
ところが肝心の絵心がない。写真を見ながらだと描けたりするのだけど真っ白なところになにかを描く経験がほとんどなくて、そもそも鳥が飛んでいるのってどういうのだろう。
描けるものを描くしかないと思って、今朝とりあえずお絵描きソフトを立ち上げてみたらできたのだ。
いつもはできることを疑いながらやっているけど今日はどう描こうかなと考えながらやったからできることはただの前提になったのかもしれない。

帰り道家の前を誰か歩いてきたから「こんにちは。」と言った。そしたらその人が「あー!」と言って、そのあと「ぱー!」とか言って後ろを歩いていた付き添いらしき人が何か話しかけながら通り過ぎて行った。向かいのグループホームの人だった。
君だったのか。いつも大声出してるのは。と思った。今は冬で閉めきっているからあまり気にならないけど叫ぶ声が聞こえてくるし年末には目の前のベランダにバリケードが張ってあって、いったいなにを考えているのかわからなくて怖いしほんとうに嫌だった。それなのに、あーと言ったとき、なぜか挨拶に応えてくれたような気がしたのだ。
今日はいつもと違うところにチューニングが合っているような、不思議なことが続く日。

ちょっと心が軽くなって、夕方からの予定に向けて駅に向かった。雲の中で誰かがギリギリと弓の弦を引いて輝く矢を空に高く放った。今見えている光の線は矢が通り過ぎた印だ。そう考えながら歩いた。ホームで電車に勢いよく追い抜かれて弾みで白いものが舞い上がった。羽根のように見えたけれどそれは四角い紙だった。

1月27日 雲が多い 幽光色
わたしの頭の中で考え付くことなんてたかが知れている、それは絶望ではなく自分が無数の命のただひとつにすぎないことがわかって、いま外に向かって開いてみたいという憧れに似た気持ちを抱いている。

どうしてこのようなことを考えているのかというと、映画を観に行ったのだ。年末に初めて観てがつんとやられた小田香監督が沖縄のガマの映画を作られたという。先着200名が観られるという。お昼から休みたかったけどコロナで長く休んだから気が引けて1時間だけ早く帰らせてもらって豊中に向かった。200名に入れないとしてもとにかく向かおう。

開場時間より前に豊中市立文化芸術センターに着けた。初めて降りる駅。娘のお友達が住む町。男の子が2人自転車置き場の精算をして、機械に「ありがとうございました!」と元気よく言って去っていった。わたしはわたしの住む大阪南部がとても好きだけどこういうのを見ると北部の文化にはかなわないなあという気持ちになる。電車の中で後ろを通るだけですみませんと声をかけてくれるのだ。外国の人が日本人は礼儀正しいというのがわかる気がする。文化芸術センターのロビーにはちらほら人がいて、開場時間になる頃列ができはじめた。よかった。入れそうだ。

映画の感想をわたしはたぶん言葉にできない。小田監督の映画をこれからも追い続けたい、それだけわかる。
上映のあとトークイベントがあって、質問コーナーがあった。みんなでおんなじ映画を観ていたはずなのにいろんな感想があってクラクラした。この寒波は地球からの罰だと言った人もいた。団塊の世代だそうで子育て世代ばかり優遇される今の世の中に我慢ならないみたいだった。世の中を大きく盛り立ててきた世代なのに、年寄りは集団自決しろとか言われて悔しいだろうな。
映画の中で沖縄の人は集団自決と言わなかった。集団死とおっしゃった。自決という言葉は、死ねってことを綺麗ごとみたいに自分で決めたことみたいに見せかけて誰かが押し付ける言葉だと思う。

小田監督は今までご自分でカメラを回しておられたそうだけど今回の作品では高野貴子さんという方がカメラを担当されたそうで、出演していた吉開菜央さんという方も映画監督らしく、みんなで作り上げた映画ということをおっしゃっていた。その場で吉開さんが動いたからこうなったなどのエピソードをうかがい、わからないまま放っていいんだと思って、人と人とが反応しあって映画を作るということがすごく眩しく見えて、誰かと作ることをやってみたいと思った。

映画のあと駅まで歩く間、誰かと来た人は熱く語り合って、わたしは空の写真を撮っていた。矛盾しているようだけどわたしは一言も口をききたくなくて、ひとりで空を見上げていられてほんとうによかったと思っていたのだ。
暗いけど雲が柔らかく白く明るく見えた。名前のわからない木の芽が大きく膨らんでいた。植物はもう葉を開かせるときを見ている。わたしの体もコロナから回復していく。寒波は地球がみな生きろって言っているみたいに思えて。


てんてんてん - なつめ 

突然話しかけられても
・・・
何も言えず言葉につまる
・・・
うまく言葉が出てこない
・・・
そしてあれこれ考える
・・・
結局なにも伝わらない
・・・
なんだか誤解もされてしまったようだ
・・・
伝えたくても伝える言葉が出てこない
・・・
伝えたくても声に出して伝えることができない
・・・
そんなとき伝え上手な人がまぶしく見えた
・・・
伝えることが苦手な自分に一体なにができるのだろうか
・・・
とただまた考える
・・・
「てんてんてん」と言ってみた


なんとなくの先に - スズキヒロミ

 一度だけ、「猫の集会」というものを見たことがある。もう30年近く昔のことなので、前後の記憶が曖昧になってきた。確か、駅前で買い物をした帰り道だと思う。晴れた日の午後、自転車で自宅に向かっていたところだった。
 私は普段、決まった道を通りたくない方で、何となく気分で行く道を変える。地元なので、どこをどう行っても迷うことはない。この時もそうして最短ルートから少し外れて自転車を走らせていた。
 自宅の近所に差し掛かって、ふと空き地が目についた。記憶ではここに二階建ての家が建っていたはずだが、建て直しでもするのか、更地になっていた。その空き地にずいぶん猫がいるな、と気がついて思わずブレーキをかけた。
 2匹や3匹ではない。家一軒ほどの空き地に、猫たちがそれぞれ思い思いの格好で座ったり寝ころんだりしている。ざっと見て12匹はいた。(「猫の集会」?)と思った。
 視界の隅に、この道に突き当たる路地からこちらの方へ歩いてくる猫が見えた。あたりを見回すと、その路地からも、私が通って来た道からも、猫が続々と歩いてやってくる。もう間違いない。
 すごいものにめぐりあったな、と改めて空き地を見直すと、妙なことに気がついた。
 空き地の中でも道路に面したところに、猫が3匹並んで座っている。後からやってきた猫たちは、皆、この3匹と順番にアイコンタクトをしてから空き地に入るのである。
 (受付!?)
 たまたまそう見えたのかと思ってずっと見ていても、後に続く猫たちはやっぱり、受付の3匹と「パ、パ、パ」という感じで目配せ認証?を済ませてから空き地に入るのである。見始めてから一匹の例外もなかった。気付くと空き地の猫は、もう20匹を超えている。
 ここで今の私であれば、3匹に「パ、パ、パ」をやってみて、入れてもらえるか絶対に試しているところだ。 が、当時の私は、その日あった習い事の時間が迫っているのを思い出し、観察をやめてそこを立ち去ってしまったのだ。

 2023年2月5日、私はスイミングスクールの駐車場でうとうとしながら、息子が出てくるのを待っている。
 あの後、私は3匹に受付してもらわなかったことや、最後まで観察しなかったことをずっと後悔していた。今であればスマホがあるが、当時なら家に帰ってカメラを取って来なければならないし、使えるフィルムが無ければ買ってこなければならない。
 その場を立ち去る時には「この場所で猫が集会をするのは分かったから、これからなるべくこの道を通ろう」くらいに思っていたが、空き地には間もなく一軒家が建ち、猫の集会所は消滅した。
 あの場所が空き地であったのはそう長い期間ではない。思えば猫たちは、集会の場所や日時を一体どうやって伝達したのだろう。しかもあんな大勢に。
 あれだけの数の猫が一堂に集まったというのは、人にはわからない大変な事態が起こっていたからかもしれない。あの後、猫たちには何かあったのだろうか。あのことの前後、この町で事件や災害などが起きた記憶はないので、会議によって事なきを得たのだろうか。
 だとすると、なんとなく選んだ帰り道の先に出会った「猫の集会」を、たまたま通りすがりの人が邪魔せずにすんで、いま初めて良かったと思った。もし自分があの空き地の猫だったとして、訳のわかっていない人が会議にちょっかいを出してきたらうんざりするだろう。物事の良し悪しとは本当に分からないものだ。
 そして、いつの間に人の目線でしかこの町を見ていなかったことにも気がついた。あの猫の賢者たちは、この町の風景をどんな思いで観ていたんだろうか。


彼の話 - UNI

 そこは広場と呼ばれていた。
 単線の鉄道駅前には大腸の形をした小さなロータリーがある。大きなかばんを背負った若者たちが朝に旅立ち、夕に舞い戻る。昼は老人たちがバスを待つ。老人の運転するタクシーが老人を乗せる。若者たちは学ぶため、老人たちは病を治すために、この駅前から旅立つ。
 大腸の書き終わり部分に広場が盲腸のように付いている。
 盲腸のような広場はにぶい日差しに温められている。その空は長年使われた砂時計のようだ。
 さきにあるパン屋を目指していたわたしは、彼女とボッコくんを見つけた。スロープの手すりにもたれている二人は何かを目指しているように見えなかった。
「ここには教会が無いから広場っていうものでは実質無いんだ」
 ボッコくんが彼女に言った。
「じゃあここはなんなの」
「駅前広場」
「きみが言うところの実質広場ではない広場ということ?」
「広い場所という意味では広場と言ってもいいね」
 夜になると舞い戻った若者たちがベンチや物陰に座る。彼らは上手に物陰を探し当てる。陽が沈むまでの昼間の広場は寂しい。誰も物陰に隠れていやしない。
「M市に住んでいた頃はね」
 ボッコくんが尻でスロープをきゅっきゅと擦る。
「臭いでわかったもんだよ、広場であれが買えるって。どうやらサインすら適当にやっても買えたらしい。でもぼくは怖かったからね。買ってきてくれた友達の家で吸うことにした、というか吸えなかったぼくは。だから食べたんだ」
「食べちゃいけないの」
「基本は吸うものなんだけど、もちろん食べてもいいんだよ。夜に食べようと思っていたマフィンにつっこんで食べた」
「ピンクのメダカが見れたわけだね」
「いや、眠くなってたっぷり寝た」
「それでおしまい?」
「そう。それでおしまい。結局はそれでよかったんだ。あのころぼくはいつも上空でひとり飛んでいた。風は冷たくて雲は体温を下げる。陽が落ちていくと眼下には灯が無数に広がる。温かそうな、橙色や薄肉色のだよ。あそこにひとりひとりの暮らしがあるんだ、そう思うと怖くてたまらなかった。今のぼくは大人だから、その怖さに名前をつけることはできる。シンプルに孤独とか。機能不全家族とか。暴力の連鎖とか。でもね、だからといってそれで説明がつくことにはならない。ぼくにはぼくの眼があって、ぼくの心臓が鳴っていて、だからあれはぼくだけの恐怖だった。あれだけの恐怖が町にあふれている。ぼくの眼を通して恐怖はぼくの心臓を鳴らしていたんだ。
 結局あの日はたっぷり寝て起きてまた仕事に行ったよ」
 ボッコくんの言葉になにも返さずに佇んでいられる彼女が怖くて、わたしはそっとその場を離れようとした。
 昼間の広場には誰もいないのが悲しい。しゃべり声は彼らのほかには聞こえず、ジャグリングをしている人たちもいない。スケートボードをしてはいけませんという看板すらない。ベンチは日陰にあって、きっと座ると体が冷えるだろう。単線の電車は一時間に一本やってくる。バスは一時間に二本やってくる。ここに降りてもなにもない。広場だけあって、なにもない。
 彼女が言った。
「わたしは何度この広場を訪れたことだろう」
 それは多和田葉子の『百年の散歩』の一節だった。
 そのあとに彼女が続けた言葉はわたしの耳まで届かなかった。わたしはパン屋を目指すわたしに戻ったから。



犬飼愛生の「そんなことありますか?」③

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「善行」
 私は善行という言葉が好きだ。「よい おこない」。基本的に人間って親切なものだと思うのだ。状況や環境がそれを許さない場合もあるが、基本的には誰しもができれば人に対して親切でありたいと思っていると思う。私なんて、めちゃくちゃそういう人間だ。これは生まれ持った星としか言いようがない。困っている人を放っておけないタイプ。頼まれたら断れないし、何かと人の役に立つことがしたいタイプなのだ。先日は街なかを歩いていたら、バタンと倒れた女性がいて、救助が必要だと思って駆け寄って助けたし(木の幹につまずいただけでした)、車イスで交差点を渡ろうとしている人がいて、なんとなく目の端で気にしていたら信号が点滅しだして「車イス、押しましょうかッ?」と近寄って「お願いします!」と言われたので全力で信号を駆け抜けたし(本来は危ないのでダメだと思う)。なるべく、助け合って生きていけたらやさしい社会になると思っている。他人に無関心な社会なんて、寂しいじゃないですか。「善行」という言葉が自分の中で違和感なくなじむようになったのは、子供を通してかかわるようになったボーイスカウトの影響だ。ボーイスカウトでは奉仕の精神を育て、日々善行することをモットーとしている。子供たちが良いことをしたら「善行したね!」という感じで使う。だから自分も自然に良いことをしたり、困っている人に声をかけたりできるようになった。なんなら、街なかで困っている人がいないか自分から探しているふしすらある。
 この日もそうだった。私は見つけてしまった。前を歩く女性の服装に違和感があったのだ。誰でも一度は、「スカートの端がめくれてますよ」と教えられたり教えたり、「前のチャックが開いてるよ」とこっそり伝えたりしたことがあると思う。子供が衣類のまえうしろを間違えたり、そういうことはたまにある。私は前を歩く女性に近づくために小走りになり、「あの、すいません」と声をかけた。ちょっと驚く女性。「あの、コートがうらおもてになっていますよ」と伝えた。衣類のそういったちょっとした間違いや乱れを指摘された人の反応というのはだいたい決まっていて「え! やだ、ありがとうございます!」と早口で言ってサッと正しい状態に変えるものだと思う。しかし、私が声をかけた女性の反応は「あ······ありがとうございます······」と予想外に声も小さく暗いものだった。ああ、この人、コートがうらおもてになってしまうくらい疲れているんだろうな。なんかあったのかな。と思った。間違いを指摘してくれた相手がそばにいるのも恥ずかしいだろうと、私は空気を読んでその場をスッと離れた。1か月ほどたって、私はそのこと自体をもう忘れていた。だって日々の善行はそんな特別なことではないからだ。しかし、私はまた別の場所であの女性とよく似たコートを着ている人を見つけた。しかも、同じようにうらおもてに着ている。えっ、なぜあんな大きなタグが背中についているのに間違えるの? そのタグにはサイズや洗濯表示がついているのだ。絶対にリバーシブルではない。コートはキルティングでペラペラだ。だからこそ間違えるのだろう。しかし、ふといやな予感がよぎった。「まさか······デザイン?」。ネットの検索窓に「キルティングコート 背中にタグ」と検索するとそれは現れた。こ、これだ。私が見たのはこのコートで間違いない。そして認めたくなかった事実。「これはデザインである」ということがわかってしまった。よみがえるあのときの女性の表情。「これはデザインですよ」というのにも疲れた表情だったのだ。私に恥をかかせないでおこうという配慮。私はこの時間差でやってきた自分の勘違いに膝から崩れ落ちそうになった。そして、この驚愕の事実には続きがあった。このコート、12万円。まじかよ。私にうらおもてに着ていると指摘され、キルティングのペラペラ素材とまで思われている。それに12万円もかけているとは! もう彼女たちの目指したおしゃれは他人の私にこんな風に思われている時点で大失敗しているッ! 間違いない。もうぜんぜんわからない。なぜこんな間違われやすいコートをおしゃれと思う人がいるのか。だって、一見めちゃくちゃ普通のコートなんですよ。ネットの世界には私と同じ疑問を持っているひとがいる。そのブランド名を入れると「なぜ高い」という検索予測がでてきたのだ。ほーらほら、なぜ高いって思っている人がいるのよッ! と心の中で自分を正当化し、私に指摘された女性、ごめんなさいね私の善行で気分が悪かったでしょう。本当にドジとハプニングの神は私を愛している。


私とは何者か - 下窪俊哉

 さて、とりあえず何か書いてみるのだが、何が面白いのか、その前に自分が一体何を書こうとしているのか、何を書けるのか、さっぱりわからない。──自分の書くものについて考えているより、下手でもまずは書いてみろ。書けば、書き直せる。──と言われて少し気が楽にはなった。しかしわからないものを、どうやったら書けるだろうか。
 よくわからないが、書きたいという想いがあるのだ。とにかく待ってみよう。いくら待っても何も現れてこないじゃないか、いや、それでも待て。もしかしたら、見えていないだけかもしれない。見えなければ、目を閉じて聴こうとすればいいし、手を伸ばして触れてみようとしてもいい。
 作品はまず書く人の企みの中に現れる。つくるというより、現れるというふうに感じられる。

 創作者の抱える課題を、ここで幾つか挙げて、置いておこう。
 ひとつはフィクション、つまり嘘をつくということ。嘘をついて、もうひとつの現実を立ち上げる。あるいは、現実を超えてゆく。エッセイにだってフィクションは入り込んでいる。ノン・フィクションは、フィクションでないという縛りをつくることによってフィクションとかかわり合っている。
 書くということはつくるということだから、そのための技術、技法にも課題がある。よく言われるのは、文体とか、ジャンルとか。ひとことで言うと、どのようにして書くのか、ということ。
 それから、もちろん何を書くのかという課題があり、最後に(あるいは最初に戻るかもしれないが)なぜ書くのか、という問いがある。

 ことばは、ある意味では手段であり、別のある意味では目的でもある。ことばを出発点として、行き着く先もことばだ。その先には多彩なイメージや、物語も感じられるだろうけれど、そこにあるのはあくまでもことばなのだ。
 ことばによって、例えば、見えるようになる。目に見えないものですらも、ことばを通したら見えるようになるということがある。このへんの話は追々、じっくりと書いてみたい。

 なぜ書くのかなんて、わからない。どうやって書けばいいかも、わからない。でもとりあえず何を書くかというのはあるはずだ。小さなこと、どうでもいいようなことでいい。平凡な、取るに足らないものを思いつくままに書き出して、手のうちに持っておこう。しかし手のうちに持っておくには、大きすぎるものがひとつある。
 誰にとっても平凡で、ありふれたものの代表は、もしかしたら自分ではないか。
 自分を好きだという人も、自分を嫌いだという人もいるだろう。自分というものへの関心を深め、探索したいと思う人もいれば、自分なんかウンザリだ、それよりも世界の探求に向かいたいと思う人もいる。しかし、どう思っていたとしても、〈自分〉から降りることはできない。
 その〈自分〉とは何だろうか。私とは何者か。

 書く人を観察していると、社会問題に取り組んで(書いている)人の中に、個人的な課題が渦巻いているということはよくあることだとわかる。一方で、ただ個人的な体験を書いている(つもりでいる)人の中に、社会を超えた地球とか、神とか、宇宙といったようなことが映し出されているということもある。どういうことか。──自分と社会、自分と世界とは、対極にあるものではないということなんだろう。では、どうなっているんだろう?
 「私とは一個の他者なのだ」というランボーのことばを思い出してみるとする。自分の中にはたくさんの人がいるというふうにも感じられる。一個の、多層的な、他者なのだ、と言い換えてみようか。
 その自分という場所に、何者かがふらっと現れ、動き回り、飲み食いしたり、話をしたりしている。いまは、まだ、作品らしいものは何も書ける気がしないが、その声を書き写すことはできる、と思う。その内なる空間に耳を傾けて、そのひとつ、ひとつの声をことばで書き写してみよう。

(「私の創作論」②)


山の人 - 神田由布子

 二月の山にやって来た。
 真冬にこの町に来るのはスキー客か温泉客くらいだが、私たちはスキーを滑りにきたのでも温泉に浸かりにきたのでもない、ある場所を確認するために片道四時間半、車を走らせてきた。目的地のすぐそばに小高い山があり、その山の中腹にぽつんとひとつ、こじんまりしたいい宿があった。オーナーは年配のご夫婦で、客は一日に二組だけ、食事の提供は朝食だけ。その潔さに惹かれて迷わず予約を入れた。
 宿の受付のインターホンを押すと、二階からオーナーが降りてきた。ご主人のほうだ。連れが宿の前に車を停めている、と言うと、挨拶もそこそこに、駐車場所の説明をするからとそそくさと外に出ていった。

 食堂の隣の小部屋には一人掛けのソファがふたつと小さなテーブルが置いてあった。大きなガラス窓から麓の町が一望できた。町のむこうには八ヶ岳が広がっていた。私の暮らしている土地にも美しい山はあるけれど、幾重にも重なるこの地方の山並みの厚みと雄大さにはかなわない。

 オーナーは胡桃のクッキー(たぶん手作り)と緑茶をテーブルに置くと、ビジネスライクな口調であれこれと宿の説明を始めた。最初に挨拶したときからずっと、眉根をわずかに寄せている。テーブルとその上に置かれたガラス板の間に写真が挟まっている。オーナーはスキーのインストラクターの資格があるらしく、スキー教室もやっています、と書かれてある。短く刈った白髪にぴんと伸びた背筋、スリムな体型はいかにも長年スポーツしてきた人というふうで、齢を重ねた夫婦ふたり、山中で暮らせているのも日常的に体を動かしているおかげかなと、てきぱきしゃべるオーナーの声に耳を傾けながら考えた。

 十歳から十五歳くらい年上の人たちの暮らしぶりを観察し、自分の行く末をイメージしてみる。というのを数年前からやるようになった。年配と呼ばれてもおかしくない年齢層に入った自覚が芽生えたからだ。親や親戚のおじおば達、二十代の頃お世話になった上司などが一人また一人といなくなり、気づくと上につっかえている(私たちよりずいぶん先まで歩いた地点から、心配や助言や叱責をしてくれる)人たちの数がぐんと減った。つまりそれは私たちが上につっかえる側に回ったということだが、つっかえてるなんて思われたくないなあ、このまま軽く、風みたいに、自由に生きてけたらいいな、なんてことを知らず知らずと考えるようになった。

「朝食は七時半でよろしいですか?」
 一連の説明を終えたオーナーは、穏やかだが、有無を言わせぬようにどうしても聞こえてしまう口調でそう言った。
 大丈夫? と私が連れに小声で訊く。
 う、と一瞬言葉につまってから、「大丈夫です」と連れが答える。
 あれまあ無理しちゃって。
「もう少し遅くしてもらえますか、って言いにくいムード、あったよね」
 部屋に入るなり私は連れに言った。旅に出たときはたいてい八時ごろ朝食をとるのだ。
「いいよ、いつもより少し早起きするだけだし。郷に入れば郷にしたがえ」
「なんだか、お客のほうが気遣っちゃってるね」
 私たちは顔を見合わせて笑った。まあいい。どのみち明日は早い時間から動き始めたい。
 部屋の清潔さとか、インテリアの統一感とか(北欧風だ)、ところどころ貼られた説明書きの几帳面さなどを見ると、ここのオーナーにはある明確な、理想の山荘像があるのがわかる。壁には小さな水彩画が二枚掛かっている。八ヶ岳の夕焼けを描いたものと、外国の街の風景画。右下にKSとイニシャルが入っている。オーナーだろう。事前にメールで問い合わせたときの名前がたしかそうだった。

 ちょっと気を遣うとはいえ、夕食をとる店への送迎をしてもらえるのはありがたかった。「食べ終わって電話を下されば迎えにいきますから」と言われたので、ビールとワインをそこそこ飲んで八時半に電話をかけた。帰り道の車中でぽつぽつと世間話をした。
 オーナーはこの町に住んで二十年、その前は蓼科で二十年、ペンションを営んでいた。信州には四十年、もう後期高齢者です。神田さんの住んでおられる県に娘が住んでいて、遊びに行ったことがありますよ。でも当時はまだ圏央道がなかったから時間がかかりましたねえ。雪、ちらついてきましたね。そう、今夜は少しだけ降るようです。明日は晴れますが、朝、山道を下るときには注意してください。ここは基本、四駆のスタッドレスじゃないと。
 私たちの車は二駆なので、事前にオーナーに言われたとおり、昔ながらの鎖がジャラジャラ音をたてるチェーンを車に積んできた。タイヤはもちろんスタッドレス。おぼろげな記憶になっていたチェーンの装着法も復習ずみだ。
「なぜ、この場所を選ばれたんですか?」と連れが訊く。
 オーナーは一瞬口ごもったあと、「ここはほら、八ヶ岳がまるごと見えて······」とだけ言った。それで答えになっているようにも思えたけれど、夏が涼しくていいとか、野菜がおいしいとか、人が親切だとか、田舎のわりには生活に不便を感じないとか、私も連れも実はもっと具体的な答えを期待していたから、ちょっとはぐらかされた気もした。
「まあ、詳しい話は朝食のときにでもしましょう」
 その夜はそれで話が途切れた。

 信州の山の中腹なのに屋内は少しも寒くない。寝具は羽毛布団一枚だけ。けれど超寒がりの連れは、掛け布団一枚きりなのが不安だからとオーナーに毛布を借りた。
「ここは常に室温二十二度をキープするように設計してあるので、これまで毛布を必要とされたお客さんはおられないんですが」と言いながら、オーナーはクリーニングしたての毛布を出してきた。「たぶん大丈夫だとは思いますが」とわずかに笑みを浮かべた。
 大丈夫だった。

 旅に出たらなるべくその土地の朝焼けを見ることにしている。季節がよければ夜が明けるか明けないかの頃に町を散歩する。動き始める前の、とても無防備な町を肌で感じたいからだ。大体いつもひとりで歩く。けれど今回は厳寒期の山中なので窓から夜明けを眺めるだけにした。
 朝六時ごろに目ざめると窓外の闇がうっすらと明るんでいた。山影のむこうのブルーグレイの空に橙色が差し始めていた。ああ、これは大きな窓から見たほうがいい、と部屋を抜け出して食堂の隣の小部屋に行った。夜中じゅう灯りをともしていてくれていたようで、薄暗い部屋の窓ガラスにオレンジ色の光の球がぽっと映っている。連れはまだ熟睡中だ。
 チャコールグレーの山並みは、しばらくするとベージュのオーガンジーをかけたような色に変化する。空は淡い橙色だ。と、右手の林の奥から朝日が差してくる。階段を駆けおりてくる足音が聞こえる。
「早いですね」
 食堂に入ってきたオーナーは驚いたようだった。
「ええ、山がとてもきれいなので、ここから見ようと思って」
「そうでしょう」
 オーナーは赤いストーブに薪を並べて、火がついたのを確認すると、さっそく朝食の準備をするためキッチンに消えた。食堂とキッチンを隔てるカウンターには引き戸がついていて、磨りガラスごしに人影がふたつ見えた。たぶん奥さんも降りてきたのだろう。話し声はほとんど聞こえない。奥さんは姿を見せずに黙々と料理している。
 どこかでピーピーと笛を吹くような音が聞こえてくる。窓の外で野鳥がせわしなく飛びかっている。餌をやっているのだ。ピーピーという音はご主人が野鳥を呼んでいる口笛だ。木に吊り下げた数個の餌台にヒマワリの種が次々と置かれてゆく。
「鳥の餌代で破産しちゃいそうです」オーナーが控えめに笑う。
 太陽が昇りきると、世界にかぶさっていた霞がすっかり消え、山の稜線がくっきりと現れた。空気が澄んで塵ひとつないように見える。言い訳の余地もないほど視界がクリアになり、現実世界が動きだす。

 ここはね、インフラが何もなかったんで、すべて自分で整えたんです。蓼科では人を雇って大きめの宿をやっていましたが、人を使うことに疲れてしまって。だから八ヶ岳全体を望めるここに来ました。一時期、ペンションやスキーがブームだったでしょう? いろんな人間が集まってきて、宿を経営したり、宿で働いたりして。でも流れが変わると、みんなごっそり消えていなくなった。本当に山が好きでなけりゃ、こういうところには住みつづけられません。電気とかガスとか水道とか、よくもまあ自分ひとりで、と言われますが、インフラが整っていないからこそ、ここに決めたんです。そういう所、人はなかなか住もうと思わないでしょう? さすがにここまで上がってくる人は少ないですね。だからこれだけの眺めが──。
 オーナーは言葉を選びながら、ときどき言葉につっかえながら、これまでの道のりを語った。

 三日目の朝食のとき、この町で偶然知り合った花屋さんの名刺をオーナーに見せた。
 連れの伯父が、かつてこの町に家を所有していたことがあり、何度か遊びに来たことがあった。伯父が亡くなったあと、伯母がその家を売ったという話は聞いていた。
「あの家、どうなったろうね。もう取り壊されちゃったかな」
 ペンションやスキーのブームが起きるはるか前、伯父は山の中に安い土地を買い求め、あちこちから資材を自分で集めてきて、納得のいく家を建てた。漆喰壁の横長の二階屋で、山の急斜面にしつらえたベランダに出ると、遠くに八ヶ岳が見えた。ベランダに柵はついていなかった。伯父の美的感覚からすれば、そこに柵があってはならなかったのだ。危ないなあと内心ビクビクしながらベランダに座ったことを覚えている。伯父は毎朝、ベランダの椅子に腰かけて、梅干しを口に含み、焙じ茶を飲んだ。
 その家には今、花屋さんが住んでいる。家は、少なくとも外観は以前のままだった。ベランダに柵はつけられていたけれど。懐かしさで訪ねた玄関先に、その女性が偶然立っていた。伯父の次の持ち主からこの家を借りて、フラワーアレンジメントの仕事をしながら夫婦で暮らしているという。
 その話を宿のオーナーにしたら、花屋さんの連絡先を教えてほしいと言われた。宿の食堂にはドライフラワーがたくさん飾ってあった。奥さんが作ったのかと思っていたら、すべてオーナーの作品だった。
「インテリアはすべて私です。妻は料理の担当です」
「じゃあ、部屋にある絵も?」
「ああ、あれは······」
 美術部だったもので。オーナーは少しはにかんだ。
「ヨーロッパを回って描かれたとか?」
「この商売はね、年に二回ほど暇な時期があって。冬山が終わってからゴールデンウィークまでのひと月くらいと、紅葉が終わってからクリスマスまでのひと月くらいでしょうか、とても暇になるんです。そのときに旅をしました。最初はツアーで行ったんですが、決まりきった名所ばかりになるので、そのうち自分の行きたい所だけを選ぶようになりました」
 きっと特別な旅の話があるように見受けられたけれど、オーナーはこのときもあまり饒舌ではなかった。つき合いを重ねてゆくうちに、少しずつ、語りが深まってゆくタイプの人なのかもしれない。

 いいなあ、こういう暮らし、憧れます。深い考えもなく、そんな言葉が口をついて出た。が、言ったあとで恥ずかしくなった。地方とはいえ、ここよりは都会化された町からやって来て、山の暮らしの上澄みだけを吸ってゆく行きずりの者がとりあえず口にする常套句だったからだ。オーナーはそれには直接答えずに、「まあ時々、落ちこんだりしますけどね」とだけ短く答えた。その、さりげなく差し挟まれた、少し色の違う言葉が今も脳裏から離れない。孤高を望むように見えて、ほんとうは深く静かな交流を人一倍求めているのではないだろうか。
 チェックイン直後の眉根を寄せた表情は三日目の朝には消えていた。
「ここまでお話できるお客さんはあまりいませんよ」

 発つ日の朝、宿に宅配便が届いた。少し前、助言をきかずにノーマルタイヤとゴムのチェーンでやって来て、結局にっちもさっちもいかなくなり、オーナーが手助けすることになった若い夫婦がお礼を送ってきたらしい。宿の主人の言うことをきかないから、とオーナーは苦笑したけれど、「でも、こういうことをなさる人たち、珍しいです」と宅配便を高々と持ち上げて顔をゆるませた。
「ご縁があれば、またいらしてください」チェックアウトをすませた私たちにオーナーは言った。奥さんは最後まで姿を見せなかった。私たちは玄関先でお辞儀をし、車を停めてある場所に向かって歩きだした。振りかえると、オーナーがポーカーフェイスを崩さないまま見送ってくれていた。背筋がまっすぐに伸びていた。
 その後、花屋さんに連絡はしただろうか。


今月の表紙・宮村茉希


巻末の独り言 - 晴海三太郎

●雪のちらつく金曜日、今月もWS(ワークショップ)マガジン、お届けします。「洗練とか熟考とかということではなくて、雑然とか思いつきというようなこと」を大切にしよう、と言いつつ昨年末に始めたウェブ・マガジンですが、言葉のかけらのようなものから、日記ふうのもの、エッセイや小説の断片、論考、などなど、今月も寄せられています。●こうやって並べて、読んでみると、偶然かもしれないけれど、この人の原稿のこのあたりと、あの人の原稿のあのあたりが響き合っているような気がする、ということがよく起こります。編集の面白さ、ですね。●初登場のスズキヒロミさんは、TwitterでよくWSマガジンの感想を書いてくださっていますが、編集人と珈琲をいつも「なんとなく」淹れている話をした流れで、今月は書き手に加わってくれました。●そんな感じで、 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。●寒い季節には、何となく心が暗いような、でも空気が澄んで明るいような、微妙な感じのすることがあります。重いようで軽い、冷たいようで温かい。うまくバランスをとって、来月もぼちぼち元気でお会いできますように!


道草の家のWSマガジン vol.3(2023年2月号)
2023年2月10日発行

絵(表紙)- 宮村茉希

ことば - RT/犬飼愛生/UNI/神田由布子/下窪俊哉/スズキヒロミ/なつめ/晴海三太郎

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカの夜/WSマガジンの会
読書 - 波をよむ会
放送 - UNIの地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
名言 - 期待は失望の母である。
天気 - 雪のち雨、星
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
心配 - 鳥越苦労グループ
音楽 - カスタネット連打隊
出前 - 袋ラーメン研究所
配達 - 北風運送
休憩 - マルとタスとロナの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房


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